第8話 愛で喉を裂く
十五歳を過ぎた私は、王宮の最深部に「黒曜国錬成院」の前身となる小規模な研究所を構えた。
周囲の月読術師たちは、私の若すぎる栄達を毒の混じった衆波で罵ったが、そんなものは視界の端に流れるノイズに過ぎない。
私の演算は、常に一つの解――「玉藻」へと向かっていた。
黒曜国でも「成人」として、伴侶を持つことを許される年齢だった。
研究室の冷たい白磁の床の上で、私は日々、音を波形として視覚化する術式を編み上げていた。
玉藻と筆談を重ねるたび、私は彼女の唇が描く完璧な正弦波に魅了され、同時に、それを「音」として享受できない己の欠陥を呪った。
(ーー私は、彼女を呼ぶための、独自の周波数を持ちたい。)
ある夕暮れ、玉藻が密かに私の部屋に運び込んだのは、王宮の冷えた銀食器にのった豪華な食事ではなく、彼女が自ら握った素朴な麦の飯だった。
王宮を包む人工的な沈香の匂いとは違う、陽だまりと土の入り混じったような、生きた人間の匂い。
彼女は雑草の中に咲く、白詰草のように控えめで、それでも周囲に埋もれぬ可憐さで隣に佇んでいた。
握り飯を頬張った後、玉藻の淹れてくれたお茶で口内を潤すと、いつものように筆談する。
私は玉藻といる時、自分を知って欲しくて錬成の理論理屈を紙に書いて説明するが、彼女は理解できない。
ただ、嬉しそうに声のない会話を促して、「傾聴」してくれる。人生の中で最も幸福な時間。
仕事の時間を終えて退出する時、玉藻は私に話しかける。
「紫暮様。あまり、無理をなさらないで」
彼女の唇が紡ぐ波は、私の演算回路を一時的に停止させるほど、穏やかで美しい。
私は衝動的に、彼女の指先を、自らの唇に押し当てた。
彼女の指は震えていたが、逃げなかった。黒曜石の瞳に、困惑と、それを上回る深い悲愛の色が滲む。
それが、私の「無ではない、心を持った意思」が発した、唯一にして最大の過ちだった。
玉藻との筆談は、私に白詰草の花言葉の通り、「幸福」という名の激痛をもたらした。
黒鉛で紙に刻まれる彼女の言葉は、冷たい文字のはずなのに、そこからはいつも陽だまりのような波が伝わってきた。私は彼女に会う時間を確保するために、王宮の掃除の時間を徹底的に調べ上げ、自分の屋敷の廊下で、あるいは書庫の陰で、偶然を装って彼女を待った。
ある日、私は紙にこう綴った。
『貴女が奴隷として使役されている訳を、訊いても良いですか』
立ち入った質問にも、玉藻は丁寧に筆記で答えた。彼女は、黒曜民の父親と他衆の母親との間に望まれずに生まれ、黒曜民の新しい伴侶の女が弟を産んで疎むようになったため、奴隷主人に売られたという。
黒曜の黒い血が絶対である、という純血思想が蔓延っている黒曜国の社会で、混血であるという事実は人権が尊重されないことと同義であった。
(彼女の境遇は、私と似ている。それでも、恨むことなく故郷の弟を慈しんでいる)
健気な玉藻に、私は、もう一つの質問を綴った。
『なぜ、私を怖がらないのですか』
玉藻は少し困ったように眉を下げ、それからいつものように、私の目線の高さまで膝を折った。彼女は、王宮の誰もがするように私を「神童」や「怪物」として見上げるのではなく、ただの、傷ついた一人の子供として見つめていた。
彼女は紙を受け取ると、ゆっくりとペンを走らせた。
『あなたは、誰よりも静かで、スミレの花ような愛らしい色をしているから』
花ような愛らしい色。
生まれてから一度も、誰も私にそんな言葉を投げたことはなかった。
彼女の指先が私の髪に触れようとして、ためらい、そっと撫ぜた。愛おしむような優しい手つきと眼差しに、私の喉の奥は、再び熱く締め付けられるように震えた。
(ーー聞きたい......この人の声を。貴女と話したい......何としてでも......!)
筆記でのやり取りは、あまりにまどろっこしい。
文字は「意味」を伝えるが、彼女の喉から放たれる「波」そのものを受け取ることはできない。
読唇術を覚え、彼女の口が『紫暮様』と動くのを見るたび、私の内側で猛烈な嫉妬が渦巻いた。
世界に満ちているはずの「音」を享受できる他のすべての人間への、どす黒い嫉妬だ。
(ーー私の耳が死んでいるのなら、私の喉でその音を再現すればいい)
それからは、狂気にも似た日々が始まった。
私は王宮の書庫から、人体図と、喉の構造、そして「発声」の理論に関するあらゆる文献をかき集めた。
肺から押し出される空気が、声帯という薄い膜をどう震わせ、口腔という空洞でどう反響し、舌と唇の形でどう変化するのか。数理モデルとして、音を分解し、再構築する。
だが、私には「正解」が聞こえない。
自分が発した音が、彼女が発する美しい波と同じ形をしているのか、それとも泥を吐くような不快なノイズなのか、判別する術がなかった。
夜な夜な、誰もいない研究室の奥で、私は自分の喉に指を突き立てた。
鏡の中の自分と対峙し、人体図の通りに喉仏を動かそうと試みる。
「……あ……、……お……」
喉が、無理やり動かされたことに悲鳴を上げる。吐き気が込み上げ、血の混じった唾液を吐き捨てながら、私は何度も、何度も、記憶の中の彼女の唇の形を模倣した。
(ーー私は、人間だ)
王に意思を持たない下僕のように扱われるたびに、心の中で唱えた。
(ーー私は、意思を持ち、音を愛でる、彼女と同じ人間なのだ)
「音」という概念を持たぬまま、音を作ろうとする。それは、暗闇の中で一度も見たことのない花を、指先の感覚だけで描こうとするような、絶望的な作業だった。
指先から伝わる喉の振動だけが、私の唯一の道標だった。
ある晩、喉を酷使しすぎて、私は激しく喀血した。
洗面台に飛び散った鮮血を見つめながら、私は恍惚とした。
この血は、私が彼女に近づこうとした証だ。
痛みは、私が人として生きている証明だ。
(ーーもう少しだ。もう少しで、私は、あなたを呼べる)
私は震える指で、鏡に映った自分の唇をなぞった。
『た、ま、も』
音にならない形だけが、暗闇の中で虚しく、けれど熱く刻まれていた。
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<前回までの登場人物>
・紫暮 音無
零章の主人公。
耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀の里で生まれ、親に売られた。
紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波」として視覚的に捉えることができる異能者。
錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。
・玉藻
音無より年上の初恋の女性。
黒髪、黒い瞳。黒曜の純血思想の蔓延る社会で、他衆との混血のため、奴隷主人に買われて王宮で下女として働く。音無の自室には掃除をしに週一でやってくる。故郷に異母兄弟がいる。音無のために「幸運」の花言葉を持つ白詰草を活ける。
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