第7話 玉藻──色彩の特異点
<前回までの登場人物>
・紫暮 音無
零章の主人公。
耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀の里で生まれ、親に売られた。
紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波」として視覚的に捉えることができる異能者。
錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。
十二歳の初夏。私の演算を狂わせる「色彩の特異点」が現れた。
王宮の深部、白磁のタイルが冷たく光る自室の書斎で、私は大気に漂う衆波を固形化する試みに没頭していた。手元にあるのは、月の雫を凝固させたという銀の霊砂。
だが、微かな制御の揺らぎが、錬成皿を爆裂させた。
鋭利な破片が手の甲を深く裂き、白磁の床に鮮血の紫を散らす。じわりと広がる熱い痛み。しかし、自らの損壊にすら無関心な私は、溢れる血を放置したまま、次の数式を脳内で練り直していた。肉体の欠損など、理の探求に比べれば些末なノイズに過ぎない。
ふいに、視界の端に「柔らかな波長」が割り込んだ。
それは、これまで見てきたどの人間が発する波とも違っていた。棘もなく、泥のような粘つきもない。春の陽だまりに揺れる小さい花のような、淡く、それでいて揺るぎない、極彩色の波。
白銀の光が差し込む回廊から、一人の女が膝を折った。
名は、玉藻。十七歳。
夜の闇を溶かし込んだような黒髪と、磨き抜かれた黒曜石のごとき瞳。下女の纏う粗末な麻の衣でさえ、彼女の持つ儚げな美しさを隠せてはいない。
彼女は躊躇なく私の手を取り、冷えた水で火傷を冷やし始めた。
(――……!?)
驚愕が、私の思考を凍りつかせる。
誰もが私の左右で色の違う瞳を恐れ、特に女たちは、子に移るとして、私の肌に触れることを「不浄の伝染」と忌み嫌っていた。
だが、彼女の指先は違った。伝わるのは、不快なノイズを一切含まない、純粋な「温度」。それは、私がこれまで物質の運動エネルギーとしてしか捉えていなかった熱とは、決定的に何かが違っていた。
手当を終えた彼女は、祈りを込めるように私の手を両手で包み込んだ。
(ーー温かい……)
ただの子供として向けられた初めての体温に、胸の奥が熱く震え、水分となって溢れ出した。気づいた時には、彼女の前で乳飲児のように涙を流していた。彼女は困ったように微笑み、懐から出した布で、その雫を大切そうに拭ってくれた。
『あなたの可愛い手に、傷が残りませんように』
彼女の唇が、春風のように緩やかに動いた。
「あ」という音を発する唇の曲線は、私がこれまで描いてきたどの円環の術式よりも黄金比に近く、完璧だった。
その瞬間、私の無彩色の世界に、初めて鮮烈な「意味」が灯る。色彩があっても灰色のフィルターに沈んでいた世界で、彼女の周囲だけが、極彩色へと切り取られていった。
白詰草のような可憐さの彼女は、王宮の雑多な草の中で、ささやかに咲き誇っていた。記号でしかなかった唇の動きが、魂の深淵を揺らす。
私は彼女と対話するため、寝食を忘れて「読唇術」の解析に没頭した。彼女の言葉を一文字も零したくないという執念が、私の能力を爆発させたのだ。
その過程で、ようやく理解してしまった。己の名、「紫暮 音無」の真意を。
(ーー音。)
この世界には、私にだけ届かない旋律が溢れている。「音無」とは、親が私に突きつけた諦念の呪いであり、一生その豊穣に触れることは叶わないという宣告であった。
その事実に、私は初めて「絶望」という名の色彩を知った。
それから、玉藻は週に一度は清掃に現れた。私と同じ高さまで腰を落とし、聞こえぬ私に向かって優しく微笑み、語りかける。
「紫暮様。あなたを見ていると、故郷の異母兄弟を思い出します」
黒曜石の瞳に宿る、無償の愛。その笑顔に、私は完全に捕らえられた。私は玉藻の唇の動きを真似て、音の出ぬ口を切実に動かす。嘲ることもなく、彼女は慈しみをもって首を縦に振り、私の「音無き声」を肯定してくれた。
勇気を持って頬に重ねられた彼女の指先。その瞬間、私の喉の奥が、締め付けられるように震えた。
(私の耳は呪われている。あなたという美しい音が聞けぬのだから)
執着が、狂気へと変わったのはこの時だ。私は、親が諦めた私の聴覚を、己の手で取り戻す演算を開始した。
それから二年の月日が、私を冷徹な権力者へと変貌させた。
あの日、書斎で見せた涙を心の奥底に封じ込め、私は王宮の階段を駆け上がった。王へ手記での奏上、古臭い月読術師養成所の組織変革。反対する官吏たちの衆波を蹂躙し、踏み潰す。
他者には、私が単なる軍事増強に憑りつかれた狂信者に見えていたことだろう。
その苛烈な行動の根底にあるのは、常に「あの日見た白詰草の色」――彼女と会える環境を、手放したくないという一点のみであった。
十四歳。私は史上最年少の研究指導者として、王宮に君臨していた。
だが、その栄光の裏側で、肉体は確実に蝕まれていた。
「……っ、……はぁ、……」
深夜の書斎。喉を焼く熱い塊を吐き出す。網膜が光に焼かれるような激痛が走り、視界が霞む。弱視の右目を補い、玉藻を繋ぎ止める唯一の接点である左目だけが頼りだった。
肉体の異変は、私の残酷な血筋の事実を否が応でも突きつける。
紫耀衆の宿命。三十歳を待たず光となって蒸発する不治の病は、今や初期症状として私の網膜をも焼き始めていた。
(ーー通常は二十代後半で発症するのに、早すぎる。私の秀でた術式は、この寿命を対価としていたのか......私は、あと何年生きられる? まだ、十年は残されているのだろうか?)
死が、すぐ背後に立っている。
だからこそ、私は禁忌の研究に手を伸ばした。合成獣による聴覚の奪還。そして、蒸発する運命を欺くための延命術。
「彼女との時間」を繋ぎ止めるためだけに、私は理を弄び続けた。
研究の合間、私は机に置いた一枚の紙切れをなぞる。
四隅が擦り切れ、私の指先の脂でわずかに変色した、世界で唯一の聖典。
(……玉藻。今日は一週間ぶりに会える)
それは、彼が大切に持ち歩いている「お守り」だった。
視界の端で、その紙片が微かに熱を帯びる。記憶の深層から、封じ込めたはずの極彩色の断片が、濁流となって溢れ出した。
――脳裏に、彼女と過ごした静かな時間の記憶が逆流する。
私の殺風景な自室に、玉藻が欠けた陶器に四葉と白詰草を活けて持ってきた時のこと。
無機質な数式だけの部屋で、その植物はあまりに異質だった。
卓上の草を指差した音無に、玉藻は「お邪魔でしたか」と申し訳なさそうに眉を下げた。
音無は読唇術で彼女の言葉を拾い、即座に首を振った。
(ーーそんなことは断じてない。)
音無の否定に安堵したのか微笑み、紙にさらさらと文字を書いた。
『白詰草の花言葉は幸運。せめて、誰よりも努力家のあなたの気持ちが癒されますように』
その笑顔という名の衆波に、私は魂ごと抱擁され、解放されるような深い癒やしを覚えた。
陰鬱な時間を潰すように理に没頭していただけの私の日々を見つめてくれ、彼女の目には、「誰よりも努力家」と受容的に映っていたのが、この上なく嬉しかった。
情報の鎖から解き放たれる唯一の安らぎ。私はその紙を、文字通り命の糧として懐に忍ばせてきた。
足早に研究室を去り、自室へ戻ると、そこには掃除を終えた玉藻が立っていた。
「紫暮様、お帰りなさいませ。今すぐ、お茶をお淹れしますね」
現実の彼女の吐息が、再び私の視界を染め上げる。
暴力的なまでの極彩色。鮮烈な翠と、発光するような白。脳を凄まじい衝撃が貫く。
(――痛い。……色が、うるさいほどに、痛い。)
白詰草の白、彼女の唇の薄紅、黒曜石の瞳の深淵。
死んだはずの世界から引きずり出された色彩の重力に、私は眩暈を覚える。そして、この色をもうじき拝めなくなってしまうと思うたび、胸に激しい疼痛が過ぎる。
この痛みを沈めるには、彼女という光を永遠に固定する、完璧なシステムを構築するしかない。
(ーーせめて、彼女と等しい一生分の時間を)
私は再び、己の名を噛み締める。
音。私にだけ届かない、彼女の旋律。
(ーーあなたの声を、聴きたい。私の音を、聴かせたい。あなたの、最期の瞬間まで)
それは、黒曜民である彼女の寿命の半分しか生きられない私にとって、奈落に橋を架ける作業のように無謀なものだ。
この短すぎる余命を書き換え、彼女と同じ時間を、一秒でも長く刻みたい。
私は「未来」という名の、あまりに脆く美しい地獄を見出した。
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