第3話 阿猿──阿吽の一対
月読術師養成所の所長室は、富の腐臭が漂う空間だ。
重厚なマホガニーの机には、各地から不当に吸い上げた金貨が、小山を成して積み上がる。窓から差し込む冬の陽光を反射し、鈍い黄金色が室内の影を強調した。
「……まったく。能力だけは一級品だが、この紫の不吉な髪といい、どこを見ているか分からぬ瞳といい、精霊神の失敗作か」
窓外に広がる王宮の庭園──美しく整えられた幾何学模様の植栽を見下ろしながら、所長・黒ヶ峰は顔を顰める。その肥った指は、音無の「本質」を撫でることはない。高騰する導器市場で、より安く、より精緻な術式を吐き出すための、無機質な資源として少年を値踏みしていた。
「おい、猿。今日からそいつの世話をしろ。死なない程度に餌を与え、石板を磨かせろ」
「……猿じゃない。阿猿」
部屋の隅、深く落ちた影の中に跪いていた少年が、喉を鳴らすような、低く掠れた獣声で応じる。
「わしに意見するとは不遜な。親に捨てられ、路頭に迷っていたのを拾ってやった恩を忘れたか。今すぐ雪の中に放り出してもいいのだぞ」
黒ヶ峰が放つ、澱んだ褐色の衆波を、少年は岩のような沈黙で受け流した。
二人は鏡面のように磨かれた大理石の廊下を抜け、湿り気を帯びた石造りの地下階段を下りた。一歩ごとに温度が下がり、空気は重く、皮膚を刺すような冷気が這い上がってくる。
監視の目が消えた独房。鉄錆と黴の匂いが充満し、壁からは絶えず結露が滴っている。そこには、不味い食事――石のように硬く、咀嚼のたびに顎を疲れさせる黒パンと、具のない塩辛いだけの薄いスープが置かれていた。
音無の視界の端で、阿猿の輪郭が歪みだした。
それは変身というより、肉体の「再構築」に近い。ミシミシと不気味な音を立てて少年の四肢が引き伸ばされ、背骨が衣服を突き破らんばかりに隆起する。人間の関節では有り得ない角度で肩が外れ、皮膚の下で筋肉がうねるように這い回った。
少年の瑞々しい肌は、瞬く間に硬質な漆黒の剛毛に覆われていく。指先からは肉を裂いて鋭い鉤爪が突き出し、顔面は前方に突き出し、牙が剥き出しの顎へと変貌した。
徳を積んだ動物の精霊魂を宿す異能の証──本来、純血主義のこの国では忌避されるべき半獣の姿。独房の闇に溶け込んだその巨躯の中で、唯一、闇を凝固させたような双眸だけが人知を超えた神秘性を帯び、冷たく燐光を放つ。
音無は半獣を見ても特に驚くこともなく、壁に背を預けた。
皆が動かしている喉と口が一体何を発しているのか確認しようと、震える指先を己の喉元に当てた。人は口と喉を動かし、波をぶつけ合って意思疎通をしていることは分かる。
(……あ……、…………あ…………)
声帯を震わせ、世界の始まりの音を紡ごうと試みる。だが、そこから漏れるのは、掠れた呼気の音だけだ。
(なぜ私は、皆と同じことができない)
その切実な「阿」への渇望は、虚空に溶けて消える。
対照的に、人から獣へと再構築を終えた阿猿は、重苦しい沈黙の中にいた。
筋骨隆々とした漆黒の顎は、固く結ばれている。彼は語るべき言葉を持ち、吠えるための喉を持ちながら、それを自ら封印していた。世界に捧げる言葉など一言もないと言わんばかりの、拒絶の「吽」。
音無は、声にならぬ「阿」を抱え、目の前の「吽」を見つめる。
欠落したパズルのピースが、音もなく噛み合う感覚。
阿猿は部屋の隅で、折れた白樺の枝を剣に見立て、静かに稽古を開始する。その一振りに宿る鋭利な激情を、音無は冷徹に観測した。
(ーー粗い動きだが、内包する『飢え』は純度が高い。器は小さくとも、この者の波は凡夫を凌駕する)
音無は、養成所の宝物庫から解体して持ち出した、一本の白銀の短剣を取り出した。
術式の冗長を極限まで削ぎ落とし、錬丹術の対価にする生命霊力を最短経路で伝達させる音無独自の「導剣」だ。
音無は歩み寄り、無言でその剣を阿猿に差し出した。
声を出せぬ自分が、声を出さぬ相手に、言葉に代わる「力」を託す儀式。
阿猿は獣の姿のまま、深く沈んだ瞳で音無を凝視する。
音無は答えない。導剣に精神を走らせると、刀身が紫白の閃光を放ち、凍てついた大気を激しく震わせた。
卓上に置かれた、皮が萎びて甘い香りを失った林檎を宙へ放る。刃が果実に触れる寸前、放たれた高密度の光線がそれを一文字に両断した。
阿猿の衆波が、驚愕に震えた。
耳の聞こえぬ音無にとって、それは物理的な音よりもはるかに喧しい、魂の絶叫に等しかった。
大気が激しく波打ち、音無の網膜に突き刺さる波長が、阿猿の受けた衝撃を色の奔流として伝える。
(……私と同じ者が、ここにいた)
言葉も音も届かぬ深淵の底で、初めて誰かと理解し合えたような安堵が、音無の冷めた心を不意に熱くした。言葉など介さずとも、その「震え」だけで、相手がどれほどの深度で自分の「理」を理解したかが痛いほどに伝わってきた。
獣の本能が、音無の術の理を瞬間的に看破する。彼はその白銀の柄を、奪い取るように掴んだ。
猿真似のごとく、感じたままに術をなぞる。彼の漆黒の瞳が黒光りし、深淵の輝きを帯びた。
阿猿が導剣を一閃させると、真空が爆ぜ、石壁に刃も触れぬまま深い傷が刻まれた。
「吽!」
固く口を結んだまま阿猿は短剣を高く掲げ、不敵な視線を音無へ向けた。
その瞳には、「お前の力は認めた。ゆえに、我らは対等だ」という強固な自尊が宿っている。
音無の「観測」という始まりと、阿猿の「一閃」という終わり。
耳を塞ぐ静寂の中で、二人の間に、言葉を介さぬ完璧な「阿吽」の連鎖が産声を上げた。音無は、己の衆波が阿猿のそれと重なり、一つの巨大なうねりとなって独房を呑み込んでいくのを感じる。それは、自分たちの存在を疎外する世界を呪う者同士にしか到達できぬ、血よりも濃い「誓約」だった。
この漆黒の歪んだ秩序に支配された領域は、言葉を必要としない二人の怪物が共鳴を始める揺籃となっていくのだった。




