表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月魂の記|〜絶望の月読術師、闇を拓き黒き理を屠る〜  作者: 雪丘 晴佳世
零章 虚空編 〜絶望の月読術師、闇を拓き黒き理を屠る〜 

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/11

第3話 阿猿──阿吽の一対

 月読術師養成所の所長室は、富の腐臭が漂う空間だ。

 重厚なマホガニーの机には、各地から不当に吸い上げた金貨が、小山を成して積み上がる。窓から差し込む冬の陽光を反射し、鈍い黄金色が室内の影を強調した。


「……まったく。能力だけは一級品だが、この紫の不吉な髪といい、どこを見ているか分からぬ瞳といい、精霊神の失敗作か」


 窓外に広がる王宮の庭園──美しく整えられた幾何学(きかがく)模様の植栽(しょくさい)を見下ろしながら、所長・黒ヶ峰(くろがみね)は顔を(しか)める。その(ふと)った指は、音無の「本質」を撫でることはない。高騰する導器市場で、より安く、より精緻な術式を吐き出すための、無機質な資源(リソース)として少年を値踏みしていた。


「おい、猿。今日からそいつの世話をしろ。死なない程度に餌を与え、石板を磨かせろ」

「……猿じゃない。阿猿(あえん)


 部屋の隅、深く落ちた影の中に(ひざまず)いていた少年が、喉を鳴らすような、低く(かす)れた獣声で応じる。

「わしに意見するとは不遜(ふそん)な。親に捨てられ、路頭に迷っていたのを拾ってやった恩を忘れたか。今すぐ雪の中に放り出してもいいのだぞ」


 黒ヶ峰が放つ、澱んだ褐色の衆波(しゅうは)を、少年は岩のような沈黙で受け流した。


 二人は鏡面のように磨かれた大理石の廊下を抜け、湿り気を帯びた石造りの地下階段を下りた。一歩ごとに温度が下がり、空気は重く、皮膚を刺すような冷気が這い上がってくる。


 監視の目が消えた独房。鉄錆と(かび)の匂いが充満し、壁からは絶えず結露が滴っている。そこには、不味い食事――石のように硬く、咀嚼のたびに(あご)を疲れさせる黒パンと、具のない塩辛いだけの薄いスープが置かれていた。


 音無の視界の端で、阿猿の輪郭が(ゆが)みだした。

 それは変身というより、肉体の「再構築」に近い。ミシミシと不気味な音を立てて少年の四肢が引き伸ばされ、背骨が衣服を突き破らんばかりに隆起する。人間の関節では有り得ない角度で肩が外れ、皮膚の下で筋肉がうねるように這い回った。


 少年の瑞々(みずみず)しい肌は、瞬く間に硬質な漆黒の剛毛に覆われていく。指先からは肉を裂いて鋭い鉤爪(かぎづめ)が突き出し、顔面は前方に突き出し、牙が剥き出しの顎へと変貌(へんぼう)した。

 徳を積んだ動物の精霊魂を宿す異能の(あかし)──本来、純血主義のこの国では忌避(きひ)されるべき半獣の姿。独房の闇に溶け込んだその巨躯(きょく)の中で、唯一、闇を凝固させたような双眸(そうぼう)だけが人知を超えた神秘性を帯び、冷たく燐光(りんこう)を放つ。


 音無は半獣を見ても特に驚くこともなく、壁に背を預けた。


 皆が動かしている(のど)と口が一体何を発しているのか確認しようと、震える指先を己の喉元に当てた。人は口と喉を動かし、波をぶつけ合って意思疎通をしていることは分かる。


(……あ……、…………あ…………)


 声帯を震わせ、世界の始まりの音を(つむ)ごうと試みる。だが、そこから漏れるのは、掠れた呼気の音だけだ。


(なぜ私は、皆と同じことができない)


 その切実な「()」への渇望は、虚空(こくう)に溶けて消える。


 対照的に、人から獣へと再構築を終えた阿猿は、重苦しい沈黙の中にいた。

 筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)とした漆黒の顎は、固く結ばれている。彼は語るべき言葉を持ち、吠えるための喉を持ちながら、それを自ら封印していた。世界に捧げる言葉など一言もないと言わんばかりの、拒絶の「(うん)」。


 音無は、声にならぬ「阿」を抱え、目の前の「吽」を見つめる。

 欠落したパズルのピースが、音もなく噛み合う感覚。


 阿猿は部屋の隅で、折れた白樺(しらかば)の枝を剣に見立て、静かに稽古を開始する。その一振りに宿る鋭利な激情を、音無は冷徹に観測した。


(ーー粗い動きだが、内包する『飢え』は純度が高い。器は小さくとも、この者の波は凡夫(ぼんぷ)凌駕(りょうが)する)


 音無は、養成所の宝物庫から解体して持ち出した、一本の白銀の短剣を取り出した。

 術式の冗長(じょうちょう)を極限まで削ぎ落とし、錬丹術の対価にする生命霊力を最短経路で伝達させる音無独自の「導剣(どうけん)」だ。

 音無は歩み寄り、無言でその剣を阿猿に差し出した。

 声を出せぬ自分が、声を出さぬ相手に、言葉に代わる「力」を託す儀式。


 阿猿は獣の姿のまま、深く沈んだ瞳で音無を凝視する。

 音無は答えない。導剣に精神を走らせると、刀身が紫白(しはく)閃光(せんこう)を放ち、凍てついた大気を激しく震わせた。

 卓上に置かれた、皮が(しな)びて甘い香りを失った林檎を宙へ放る。刃が果実に触れる寸前、放たれた高密度の光線がそれを一文字に両断した。


 阿猿の衆波が、驚愕に震えた。

 耳の聞こえぬ音無にとって、それは物理的な音よりもはるかに(やかま)しい、魂の絶叫に等しかった。

 大気が激しく波打ち、音無の網膜に突き刺さる波長が、阿猿の受けた衝撃を色の奔流として伝える。


(……私と同じ者が、ここにいた)


 言葉も音も届かぬ深淵の底で、初めて誰かと理解し合えたような安堵が、音無の冷めた心を不意に熱くした。言葉など介さずとも、その「震え」だけで、相手がどれほどの深度で自分の「理」を理解したかが痛いほどに伝わってきた。


 獣の本能が、音無の術の(ことわり)を瞬間的に看破(かんぱ)する。彼はその白銀の柄を、奪い取るように掴んだ。

 猿真似のごとく、感じたままに術をなぞる。彼の漆黒の瞳が黒光りし、深淵の輝きを帯びた。

 阿猿が導剣を一閃(いっせん)させると、真空が爆ぜ、石壁に刃も触れぬまま深い傷が刻まれた。


(うん)!」


 固く口を結んだまま阿猿は短剣を高く掲げ、不敵な視線を音無へ向けた。

 その瞳には、「お前の力は認めた。ゆえに、我らは対等だ」という強固な自尊が宿っている。


 音無の「観測」という始まりと、阿猿の「一閃」という終わり。


 耳を塞ぐ静寂の中で、二人の間に、言葉を介さぬ完璧な「阿吽(あうん)」の連鎖が産声を上げた。音無は、己の衆波が阿猿のそれと重なり、一つの巨大なうねりとなって独房を呑み込んでいくのを感じる。それは、自分たちの存在を疎外する世界を呪う者同士にしか到達できぬ、血よりも濃い「誓約」だった。


 この漆黒の歪んだ秩序に支配された領域は、言葉を必要としない二人の怪物が共鳴を始める揺籃(ようらん)となっていくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ