第1話 紫暮音無──無音が生んだ鬼子
産声の響きさえ、この世界は拒絶した。
私が生を受けた瞬間、万物は静止し、大気は凍りついたかのような沈黙を強いた。泣いていたのか、あるいは無機質な空白としてそこに在ったのか、確かめる術はない。
物心ついた時から、視界は極彩色の「衆波」という狂気に塗り潰されていた。
唇が動けば、目に見えぬ振動が爆ぜ、火花となって網膜を焼く。憤怒を孕んだ者の波動は、腐敗した林檎のような赤黒い棘となって突き刺さり、嘲笑を浮かべる者のそれは、底なし沼の泥のごとく粘ついてうねる。
音を解さぬ私にとって、この世は意味を剥奪された「視覚の濁流」に過ぎなかった。
「……不吉な。あれを見ろ、あの気味の悪い眼を」
「まるで鬼子だ」
里の女が吐き捨てた波は、毒々しい紫の霧となって漂う。
紫と灰色の左右で彩度の異なる歪な双眸。音を拒絶したその欠落。
里の人々は私を、精霊神の加護を失った「不吉な魍魎」と評し、忌み嫌った。降り注ぐのは、重い石つぶてと罵声の飛沫。
実の母でさえ、私が縋ろうと伸ばした指先を、猛毒を避けるような仕草で振り払った。
「寄らないで。……お前さえいなければ」
触れた母の肌は、厳冬の氷よりも冷酷だった。彼女から放たれる拒絶の波は、鋭い銀針となって私の眼球を執拗に抉る。
しかし、孤独に苛まれることはなかった。私にとって人間とは、道端に転がる石塊や、立ち枯れた老木と大差ない「無機質な観測対象」に過ぎないからだ。
私は、眼前に広がる波をこね回し、摂理を組み替える遊戯に没頭した。 物質を透過し、因果を解体する。
父は愛情の代わりに、一個の導器を私に投げ与えた。紫金の原石が埋め込まれたガラクタのような銀の指輪。後に、その存在を理論的に知ることとなる「錬丹術」の触媒となる器具であった。
「それを使って、外に吐き出せ。内側に溜め込めば、お前の出来損ないの体は破裂する」
父が私に向けた唯一の言葉には、鉄錆のような無関心の波が混じっていた。 それは私のためではなく、隣に立つ母に状況を説明するための言葉。私に話しかけても無意味だと、二人の冷めた目が語っていた。
夜、一人で指輪をはめて夜空にかざすと、石が紫白の光を纏った。怒ることも泣くことも、声を出すことすらも知らなかった私は、胸中の靄を手のひらに伝えた。 指輪から一筋の光線が、流れ星のごとく走って消えた。
この時、初めて己の内面を外に表現し、吐き出す術を得た。 私にとって、あの光線は人生最初の「叫び」だった。
六歳になる頃には、熟練の術師が一生を捧げて到達する奥義を、砂遊びの延長で再現していた。 土間に転がる乾燥した薬草に指先を触れる。
(――収束。)
念じれば、空間を漂う衆波が一点に凝縮され、鼻を突く青臭い香気が、瞬時にして脳を痺れさせる霊薬の芳醇な香りへと転じ、琥珀色の煙を上げた。
「……これは、金になる」
それまで冷淡だった父の瞳に、濁った野心の波が黒く渦巻いた。
「商談は済んだ。支度をしろ。お前は今日から国の所有物だ」
「ーーー」
私はただ、観察していた。大人たちの強欲が、悪臭を放つ脂のように私を包囲する。だが、私の心に在るのは、感情を削ぎ落とした静謐な「無」のみ。
指に緩い、安物の導器の指輪。肌を刺す粗末な麻布の感触。それは、里で与えられていた唯一の所有物だった。 市場の家畜と同じく、私は法治国家・黒曜国へと競り落とされた。
『紫暮音無』 ーーその無機質な商品名を添えて。
生まれ育った紫耀の衆領とは、あまりに全てが異なっていた。国境の外側に広がる野蛮な里に敷かれていたのは、精霊の気まぐれに似た緩い「掟」に過ぎない。
しかし、黒曜国の漆黒の門をくぐった瞬間、私は目に見える「文字の鎖」に絡め取られた。 ――「血の盟約」という名の、逃れられぬ呪縛。
鉄の臭いが鼻腔を突く。 門を警備する兵士たちが纏うのは、光沢を消した灰色の軍服。その襟元には、銀糸で緻密に縫い取られた法典の一節が、まるで皮膚に食い込む刺青のように鈍く光っていた。彼らの衆波は、一個の乱れもない「硬質な鉄灰色」に統一され、個人の感情など入り込む隙もない。
建国神話に刻まれた焦土の記憶。内戦の果てに呼び覚まされた鬼神が、国土を焼き尽くした歴史。この国は二度とその門を開かぬよう、法という名の呪いを国民の魂に深く刻印した。 黒曜衆の戸籍は、生まれながらにして霊術の契約書と同義だ。
石造りの冷徹な街並みを歩く民衆の衆波でさえ、どこか規律正しく、冷え切っている。
(ーーこの国そのものが、巨大な術式(檻)なのだな。)
国境を越えれば、軍を国外へ動かそうとすれば、本人の意志に関わらず『血の盟約』が発動する。 重要な記憶を代償に差し出すか、四肢の自由を奪われるか、あるいは心臓が脈打つことを忘れるか。
この国で法を犯すことは、存在そのものの解体と、残酷な等価交換を意味していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
設定補足:世界観・用語
・衆波
この世界に満ちる生命霊力の奔流です。通常の人間には見えませんが、聴覚と視覚の一部が閉ざされた対価として、音無にはこれらが特異な「色や形」として見えています。彼にとっての視界は、常にこの霊的な濁流の中にあります。
……と、格好いい設定を書きましたが、オランダの深夜に一人でこれを打ち込んでいる私の衆波は、今にも寝落ちしそうな「ドブネズミ色」をしています。
noteでは、本作のビジュアルイメージ(AI生成イラスト)や、物語の背景を深掘りする記事を順次公開しています。
https://note.com/yukioka_gekkon/m/md7a988d57966
(※マガジンへ飛びます)
次回第2話
明日の20時頃に更新予定です!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけると、執筆の大きな励みになります!




