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タイトル未定2025/08/10 15:02

半年前ーー。

いててっ。たくっ、あいつはよっ!

身体を起こした男は壁に寄りかかり、顔を上げ息を整えると、ふいに身体が軽くなる感覚がした。

えっーー。

お、おい!や、やめっーー。

言葉にする暇なく、男は暗闇に飲み込まれた。


フロントガラスには、数滴の雨粒が落ち始めていた。

介護タクシードライバーの作業ミキは、腕時計とナビの交通状況を交互に見ながら、高校までの最短ルートを模索していた。

「いいよ、ミッキー。遅刻したってさ。こんな天気だから、行くのも面倒だし。そうだ!このままどっかドライブしようよ」

 高校生にしては幼なく見える柄沢まどかは、イタズラな笑みをたたえている。

「寄り道は厳禁です。大丈夫、時間通り間に合いますから」

 キッパリと言うと、まどかは口を尖らせた。

「なんだ、つまんない。でもさ、ドライバーだったら客の要望に答えるんじゃないの?」

「それはできません。依頼されたのは、あなたのお母さんです。あなたを安全に高校まで届けるようにと。もちろん、料金もいただいてます」

 バックミラー越しに、顔色一つ変えずに言った。

「ミッキーてさ、ホント融通がきかないよね。それじゃ、男が寄りつかないよ」

 わかったようなことを言ったが、ミキは無視していた。


 小型のワンボックスは土手沿いの道を走ると、突き当たりに洋蘭学園高等学校の校門が見えてくる。

 ミキはその手前で停め、ハッチバックを開けて折り畳まれているスライド板を広げながら地面と設置させる。

 そしてまどかが座る車椅子の四点ロックを解除して、ゆっくり降ろしていく。

 まどかがやや前傾になっているので、後ろに回り手早く姿勢を整える。

「お疲れ様でした。勉強頑張ってください」

 一礼すると、すぐに先生が校舎へと連れていった。

 まどかは大きく手を振っている。

 スライド板を畳み、ハッチバックを閉めて車に戻ると、ふぅと息をついた。ペットボトルの水を飲むと、緊張がほぐれていく。

 今まで怠惰に過ごしていた日常とは180度違うが、気分は格別だった。

 これなら天国にいる裕美に、少しは胸を張って言えるかもしれない。


 夕方、営業所に戻ると、所長の金平が伝票の整理をしていた。今、事務員が不足していて、経理経験のあるドライバーと金平が交代でやっているのだ。

「お疲れ様です。一日、終了しました」

「お疲れさん。どうだった、今日のお客さんは?」

「特に問題はありません。それと無事故無違反で走れました」

「オッケー。それが一番だ。お客さんを安心安全に届ける。それがタクシードライバーの使命。特に介護タクシーは、身体的な補助も必要だから、注意が必要。お前さん、まだ若いし入ったばかりだけどよくやるよ。紹介してくれた畠中さんに、お礼言っとかなきゃ」

 金平は上機嫌で言った。作業ミキはこの介護タクシードライバーとして、まだ二年あまり。年齢も四十五だが、平均60代後半の業界からすれば、若いというのもうなずける。

「では集金の伝票と車の清掃して上がります」

 一礼し、営業所を出た。まだ同僚のタクシードライバー達は夜中にかけて、稼ぎ時がまっている。

 介護タクシーは基本、朝昼が中心だから生活リズムは安定している。

 営業所近くのアパートに帰り、電気をつけると、仏壇に飾ってある写真に手を合わせた。

 ただいま、美幸ーー。

 そこには、4、5歳くらいのふっくらした少女が写っていた。

 あどけなく笑うその顔を、しばらくじっと見ていたミキだったが、耐えきれずに嗚咽をもらした。


 介護タクシーを利用する目的は、病院への送迎やスーパーの買い出し同行、はてはお墓参りなんてものもある。

 今日は市街地にある「ひまわり」という介護施設へと車を走らせる。この施設はミキの営業所に送迎の委託契約を結んでいるので、かなりの頻度で来ている。

「おはようございます。体調はどうですか、キヨノさん」

 車椅子なので、しゃがみながら顔を覗く。腫れぼったい瞼に分厚い唇。昔懐かしいアニメのキャラのようなおばあさんだった。

「いいわけないだろ。あっちこっち、痛いとこだらけだよ。いいから、早く出しとくれ!」

 急かされるも、「承知しました」と意に返さない。

 キヨノさんは足の関節の難病を患っていて、リハビリのために、週に二度病院に通っているのだった。

 手早く車に乗せ、市内の病院へと向かう。キヨノはいたたっと足をさすっている。

「まったく、この足ときたらどうしょもないんだから、やんなっちまう。けど、めげても仕方ないか。あの子みたいに明るくなんなけりゃかな」

「あの子?」

「ほら、この車にも乗る高校生の…」

「まどかさんですか?」

「ああ、あの子とあたしは病院で同じリハビリをしているんだけど、めげずによくやるなと思ってさ。あんな若いのに」

 キヨノは重い瞼の目を細めた。

「それにさ、ボランティアであたしの施設に来ては、年寄りの話し相手になってくれてさ、感謝しているんだよ」

「そうですか。彼女は他人の気持ちがわかる優しい子ですから」

 見かけは今時の女子高生だが、前に中学の同級生だった子が妊娠し、相手の大学生と掛け合ったことがあると、勇ましく話していたことがあった。

「あんたもそう思うかい。だけどさ、最近、顔見せないんだよね。あんなことがあったからかな」

「あんなこと?」

「職員がベランダから転落して死んだんだよ。三ヶ月前にね」

「へえ、そんなことが。それは大変でしたね」

「そうだよ。一時は警察が色々調べにきてさ、落ち着かないったりゃ、ありゃしなかったよ。だけどありゃ、事故じゃないね」

「そうなんですか?」

「だって、あいつはろくでもない奴だから。キタさんがトイレに行きたいっても知らんぷりだし、はなちゃんにも手をあげたって言ってたから、誰かが殺ったんじゃないか」

 物騒なことを言う。

「手を上げたって、虐待ってことですか?」

 ハンドルを握る手も、若干力がこもる。

「言葉はわかんないけどさ、とにかく、あいつにはものは頼まないよ。でも、あいつが死んで職員もよかったんじゃないか」

「どうしてですか?」

「だってさ、同僚の女職員にも手をつけたって。それも何人だってから、いやらしいやねー」

 声をひそめてニヤリとする。

「あの子にも近づいてたから、あたしは心配してたんだよ。大丈夫かなぁ」

「まどかさん、今のところ変わらず明るいですよ。だから心配しないでください」

 そう言うと、安堵した顔をした。

 病院に着き、キヨノを降ろしてリハビリルームまで車椅子を押していく。

「ありがとよ、いつも」

 分厚い唇からふっと笑みがこぼれる。それを見て、なんとも言えない暖かいものが心を満たした。


 午後五時のチャイムが鳴る前に学校に着くと、まどかがショートカットの細身の女生徒と校門の前で待っていた。

 彼女はいつもまどかに付き添ってくれている。丸メガネをした可愛らしい子だ。

「お迎えに上がりました。スマイルタクシーです」

「わたしとしては、もうちょっと遅くてもよかったんだけど。今からかっこいいバスケ部の先輩がランニングに出てくるから。少しだけ待てない?ねぇ、見たいよね、ユメ?」

 丸メガネの彼女に促すと、照れたように微笑む。

「すいません。時間厳守なので」

 一礼し、車椅子を押していく。まどかは「なに、それ。相変わらず融通がきかないなぁ」と顔をゆがめる。

 手早くまどかを乗せ、車を出発させる。機嫌を損ねたのか、しばらくまどかは無言だった。

「ねぇ、一つだけ寄ってくれない」

「すいません。これから帰宅の渋滞に捕まるかもしれないので」

「どっか行くわけじゃないよ。父さんに会いに行くだけだから」

「父さん?」

 確か母子家庭であることは、まどかの母親から聞いていた。父親がこの辺りに住んでいるのか?

「とりあえず、駅前の繁華街まで行って。お願い。少しだけでいいから」

 真剣な声に、ミキは車を駅前へと向かわせた。

 駅前は若干、車が混んでいた。ミキはロータリーの片隅に車を停める。目の前には繁華街の入り口があり、すぐ側では雑居ビルの建設工事がおこなわれている。

「あのビルってさ、完成すると大型アミューズメントや様々な食べ物屋が入るらしいよ。きっと、すごい賑わうだろうね」

 そう言って、まどかはしばらく見ていた。

「でもさ……本当ならもう完成しているはずだったんだけど、一年前にあんな事故があったから今まで延期になってたんだけど……」

 ミキも記憶を辿る。確か地元の新聞では、現場が崩落して、作業員一人が犠牲になったという記事が一面を飾っていた気がする。

「でさ、その事故に巻き込まれて死亡したのが、わたしの父親だったの……」

「……」

「うちさ、わたしが小学生の時に両親が離婚して、それから父さんには会っていなかったんだ」

「そうなんですか」

「父さんは、いつもわたしの足のことで責められていたから、いたたまれなかったのかも。気がつくと離婚届けを置いて出ていったんだ」

 バックミラーから覗く顔は、いつになく寂しそうだった。

「車椅子になるほどのことだから、大きな過失だったんですね」

「まあね。父さんバイクが趣味で、わたしが一緒に乗りたいとだだをこねて、近所を一周するだけの約束で乗ったんだけど…信号待ちしていたら、トラックが反対車線から突っ込んできて、わたし達とぶつかって引き摺られたんだ。幸い、わたし達は命に別状はなかったんだけど、わたしは腰椎損傷と右足の複雑骨折で車椅子が必要になった。父さんは軽症ですんだけど、心に負った傷は中々、癒されなかったみたい。わたしの顔もまともに見られなかったから…」

 当時を思い出したのか、噛み締めるようにまどかは言った。

「まどかさんもそうだけど、お父さんも辛かったでしょうね。気持ちはわかります」

 フロントガラスの先に、美幸の顔が浮かぶ。あの時、もっとわたしが気づいてあげられれば、あの子は死ななかった。

 後悔の念が胸を締め付ける。

「ミッキーも何かあったの?」

「いえ、大したことじゃありません」

 我に返り、腕時計とナビで渋滞情報を確認する。

「もう、そろそろ行きますよ」

「あんなことがなければ、父さんはもっと生きていられたはずなのに…天罰だよ」

 視線を外したまどかは、吐き捨てるように呟いた。


 休日、アパートのドアがノックされ開けると、畠中が紙袋を手に立っていた。

「よう、元気していたか?」

 身長もありガタイのいい畠中は、全体から威圧感が滲み出ている。

「ええ、何とかやっています」

 中に招き入れると、畠中は仏壇に座り手を合わせた。

「何でも元気ならそれでいい。美幸ちゃんのためにも、しっかり生きていかなくちゃな」

 畠中は警察を定年退職し、今は保護司の傍ら困りごと相談のボランティアもしている。

「ええ。畠中さんがいなかったら、わたしもここにはいなかったかもしれない」

 それは十年前のことだ。その日、わたしは幼稚園の帰りに美幸と夕食の買い物をしようと、いつもの商店街ではなく、駅前のデパ地下に行こうとした。

 そこにわたしが欲しかった外国産の高級な塩が安く買えるとのチラシを見たからだ。

 今にしたら、そんな塩などどうでもよかったのに……。

 異変はすぐに気づいた。女の人の悲鳴や怒声が響く中振り返ると、上半身裸の若い男が両手に刃物を持って暴れていた。

 わたしはすぐに美幸を庇おうと覆い被さろうとしたが、男がわたしの背中を刺して引き剥がすと、美幸に向かって刃を向けた。

 すぐに男は取り押さえられたが、警察官の隙をついて道路に飛び出して即死した。

 男は薬物中毒で、犯行前、新種の合成麻薬を接種し錯乱状態になり、凶暴性に火をつけたらしい。

「とりあえず、ケーキを買ってきた。供えたってくれんか」

「ありがとうございます。美幸、甘いものが好きで特にケーキは大好物でした」

 受け取ると台所に行き、好きだったディズニーキャラクターの皿に取り分けた。

「面倒みると言って、中々、来れずにすまんかった。言い訳じゃないが、今、ある介護施設で起こった事件で、職員がまずい立場になっててな。俺はその子の保護司をしている傍ら、何とかしてあげたくてな」

 畠中は渋い顔をしてうなずいた。それを見たミキは、頭にふっと何かが浮かんだ。

「もしかして、それ「ひまわり」という施設で起こった転落のことですか?」

「ああ、そうだ。よく知っているな」

「ええ。その施設に入居している利用者にお客さんがいるもので。でも、それ、事件じゃなくて、事故じゃないんですか?」

「初動ではな。が、その転落に疑問が出てきたんだ。被害者は四階のベランダから転落したんだが、そこには転落防止の手すりがあって、被害者の胸の高さまであったそうだ。だから、それを乗り越えて転落するには、自らがそうするか誰かが故意にしたのか…」

 天井に向けた視線が、警察官の頃のように鋭くなってくる。

「だけど、畠中さんが事件というからには、故意ってことなんですね?」

「ああ。被害者には自殺する要因が見つからないし、夜勤明けに飲みにいくって言ってたそうだ。だから、故意となると、必然的に被害者に恨みを持つ人物が疑われた」

「それが畠中さんの面倒見ている職員てことなんですね」

「ああ、そうだ。何回か窃盗を繰り返している若者だ。彼は被害者に普段からいじめを受けていたらしくてな、金も貸していたそうだ。事件当日も夜勤で一緒だったことばかりか、転落した時刻の前に揉めていたそうだ。だから、今も疑われている」

「でも、畠中さんは無実だと信じている」

「まあな。彼は精神的に弱くて、そんなことできるわけはないと思っている。まあ、元警察官だから、そんなことが言えるが」

 どんな状況にいても人を信じ抜く。畠中はそういう無骨な人間だとミキはこれまで接した中で、ひしひしと感じていた。

「だとしたら、犯人は別にいるってことですね」

「そうなるな。だが、それはいずれ同僚らが何とかするだろう」

「俺は、彼が自分を見失わずにすることだ」

「相変わらず、頼もしいですね」

 ミキは微笑みながら、無意識に手首の傷をさすった。


「悪い、ミッキー。付き合わせて」

 車椅子を自走していたまどかは振り返ると、ミキは大きなアンプを押してついていく。

 今日は休日だったが、まどかに慰問の手伝いを頼まれて「ひまわり」に行くことになった。

 本館、新館合わせて60人収容の施設には、一階にデイホールがあり、慰問などの催しものを開く場所として使われている。

 コロナ禍ではそれも出来なかったが、今は通常通り行われている。今日は大正琴の演奏をすることになっていて、市のクラブに入っているまどか達五人の演奏をすることになっていた。

 アンプを並び終え、施設長や相談員に挨拶をすますと、キヨノがエレベーターを降りてきた。

「こんにちは。いつもありがとうございます」

 ミキは頭を下げてると、

「ご苦労様。今日は楽しみにしているよ。まどかちゃんも来てくれたしね」

 大正琴のセッティングに追われるまどかを愛おしそうに見ている。

「彼女も楽しみにしていましたよ」

 車内ではいつも以上に弾んだ声を出していた。

「ここもさ、あんなことがあったから皆暗い気持ちでいたけど、まどかちゃん達の演奏で少しは忘れられるだろ」

「そういえば、転落したのはやはり事件の可能性が高いみたいですね」

 そう言うと、キヨノの顔が曇った。

「まあね。この間まで警察が色々訊いてきてさ…でもまさかサダ坊が犯人だなんて信じられないけど…」

「サダ坊?」

 そう訊くと、キヨノはイスを並べているやや猫背の二十代らしき職員を指差した。

「警察が一番怪しんでいるようだよ」

「そうなんですか」

「あの子、子供の頃親に捨てられて、悪いことも色々してきたらしいけど、今はさ、あたし達年寄りにも、親切にしてくれていたんだよ。だから、何かの間違いじゃないかと仲間内でも言ってんだけど」

 表情の乏しい青年は、仲間と少し離れたところで息をついていた。

「その日は一緒の夜勤みたいで、揉めていたと聞きましたけど」

「ああ、なんか大きな声がしたのはあたしも聞いたよ。でもさ、やつが落ちる前、そこに年寄りがいたのを見たらしいんだ」

「年寄り?利用者の人ですか?」

「いや、そこまではわからないよ。何しろカーテンに映っていた影が、腰の曲がった年寄りみたいだったんだって…」

キヨノは声をひそめて言った。

「警察には?」

「言ったよ。でもさ、信じてくれてないよ。だって、死んだ田伏は身体も大きいし、そんなことをできる年寄りなんていないからさ」

 そう言うと、キヨノは車椅子を自走してミキのところに向かった。

 慰問は盛況のうちに終わった。ミキは片付けを済ませ、キヨノが部屋で若い頃の写真を見せてくれるというので、エレベーターで4階に上がった。

 降りた右手がベランダになっており、側には車椅子用のスロープもある。

 ミキは車椅子を押していく。部屋は左右に五部屋ずつあり、奥に行くと新館に繋がっている。キヨノの部屋は左側の中ほどだった。ひとしきり写真を見て盛り上がった後、部屋を出る。

 ベランダから光が差し込んでいた。ミキは誘われるままにドアを開けた。

 ベランダは洗濯台が置いてあるくらい、中々の広さだった。周りは大人の胸の高さまであるステンレス製の転落防止用の柵が囲っていた。

 畠中が言っていた転落死した場所は多分ここだ。

 ミキは下を覗く。高所恐怖症のせいだろうか、地面のアスファルトが手招きしているようで足がすくむ。

 確かに、あの柵を越えるとなると大人でも容易じゃない。まして、年寄りがあの柵を越えるほどの力で転落させるなんて不可能だろう。

 キヨノが言っていたことは何かの見間違いかもしれない。やはり、サダ坊と呼ばれる職員の犯行か?

 するとドアが開き、初老らしきごましお頭の女性職員が洗濯カゴを抱えてやって来た。会釈すると、「今日はありがとうね。皆、楽しんでたよ」にこやかに言ってきた。

「いえいえ、皆さんが喜んでもらえてこっちも嬉しいです」と笑顔を向けながら「ここは広いですね〜洗濯物も余裕ですね」周りを見渡した。

「まあね。色々あって、やっと使えるようになったから、こっちも助かっているよ」

「色々って、転落の件ですか?」

 顔を曇らせ、うなずいた。

「亡くなった職員、かなり評判が悪かったみたいですね」

ミキは促すと、職員は声をひそめて言った。

「こんなこといっちゃなんだけど、ろくでもない男だね。認知の酷い利用者には他の職員にまかせきりだし、居室の掃除もしない。けど、若い女性職員にはしつこく言い寄ったり、やりたい放題だったさね」

「上の人達とか注意しなかったんですか?」

「できるわけないだろ。なんたってこの施設のオーナーの息子なんだから。下手に逆らったら、施設長を筆頭に上の首が飛ぶよ。それに上は給料がいいから、見てみないふりしてんのさ」

 何か恨みでもあるのか、顔をゆがめて憎々しげに言う。

「でも、そんなことだったら、仕事だってうまくいかないでしょ」

「だからやめてく人間も多かったさ。けど、ゲンちゃんは可哀想だったね」

「ゲンちゃん?」

「二年前まで、ここの職員をしていた男の人。いい人で、昔色々あったらしいけど、娘さん思いでさ。利用者の面倒見もよかったんだけど、あることで首になったんだ」

「あること?」

「虐待だよ。本人は否定してたんだけど、見てたって職員が出てきて。でも、実際はしてなかったんだよ。本当は田臥の奴が言うことをきかない利用者に腹を立てて手を出していたんだ。見てたって職員も、金に困っていたから、施設長に丸めこまれたらしい」

「それは理不尽ですね」

「あたし達も何とかしようとしたんだけど……その後さ、ゲンちゃん新しい職場で働いているって聞いてよかったと思ったけど、突然、駅前のビルの事故で死んじゃったって聞いて…いたたまれない気持ちになってさ」

「ビルの事故?もしかして一年前の?」

「ああ、そうだよ。人間、一瞬先は闇だよね」

「その人って、ここにボランティアに来ているまどかさんの……」

「ああ、別れたお父さんみたい。彼女、お父さんがどんな仕事をしていたか知りたいって言ってて。よほど好きだったのね」

 そう言って、職員は洗濯を干しだした。

 身内とはいえ、車椅子生活になった原因となる人間をよく許せたものだ。ましてや、多感な時期に。

 立場が違うが、わたしは娘を殺した犯人をどんな理由があっても、決して許すことはできない。

 それほど人が出来ていない。

「探したよ、ミッキー。ここにいたんだ」

 声をかけられ、振り返るとまどかが笑顔を向けている。

「すいません。時間ですよね」

「そう。この後皆でお疲れ会があるんだから早く行こう」

「わかりました」

 ミキは車椅子を押すと、まどかが「ここさあ、職員が転落したんだよね…」ポツリといい、かすかに肩を震わせていた。


 数日後、夕方、営業所に戻ると、所長の金平と畠中がソファで談笑していた。

「お疲れさん」

 金平が手を上げると、畠中も「お疲れ」と声をかける。

「二人揃って、どうしたんですか?」

「いや、畠中さんにミキちゃんみたいなグッドなドライバーがいないか相談していたんだよ。うちもさ、そこそこ仕事はあるけど、それをこなす人が足りないから。なるべく安く働いてくれる…あっ、ごめん」

 金平はつい口をすべらせ、バツの悪い顔をする。

「いいですよ。気にしてませんから」

「まあ、今俺も手一杯だから、保護司の仲間とか、働けそうな人間を当たってみるということで話していたとこだ」

「そうですか。いい人が現れればいいですね。ところで、施設の例の彼はどうなりましたか?」

「特に進展はないな。被疑者の一人ということは変わりないが、警察にも動きはない」

「そうですか。でも、あの場所から転落させるとなると、かなり力がいりますね。被害者は体格がよかったそうだし、細身の彼にそんなことできますかね」

「なんだ、見てきたのか?」

「たまたま、用事があって。それに色々なことも聞きました」

 ミキは施設でのことを話した。

「……そうか。まっ確かに、いくら恨みがあったとしても、年寄りの犯行というには無理がある。それと、そんな腰が曲がっているような人物に、健常な男がおいそれとやられるはずはない。きっと犯人は、ある程度体力自慢な男だな」

 決めつけるように、自信を持ってうなずいた。

「わたしが見た限り、そんな人はあの施設にいなかったけど」

「だったら施設以外の人とかは?そんな性格だったら、他に色々やらかしているんじゃないの〜」

 資料に目を落としていた金平は、メガネをずり上げながら言った、、

「でも、夜間じゃ誰も入れないでしょ。電子ロックがかけられているようだから」

 そのあたりも職員から聞いていた。

「けど今の時代、様々な手段を使えば解除なんてお手のものじゃないか」

「まあ、確かにそれは言えますけど…」

「とにかくだ。前にも言ったがそれはいずれ警察がなんとかする。お前は余計なことに首を突っ込むなよ。それで痛い目にあったんだから…」

 畠中は釘を刺した。わかっている。過去に風俗仲間だったレナのストーカーに腹を刺され、死の淵をさまよったことがある身としては、危険なことは避けるよう肝に銘じている。

 ミキは宣言するように深く頷いた。


 リハビリルームには、老若男女が苦痛からか顔をゆがませながらも、必死に歩行や腕上げをしていた。

 その中にまどかを見つけたミキは、とりあえず静観していた。

「ミッキー、助けて〜」

 床に横向きで寝させられているまどかは、理学療法士が足をくの字に曲げて何度もストレッチを行っている際、悲鳴みたいな声を上げ、挙げ句にミキに助けを求めている。

「もうちょっと、頑張って」

 微笑みながら、声援する。

「ミッキーの薄情ものっ〜いたたっ」

 苦痛に顔をゆがめる。その隣でキヨノが足のマッサージをしていて、サダ坊と呼ばれる例の職員が見守っている。

「キヨノさん、頑張ってますね」

 声をかけると、「……ええ」消え入りそうな声で職員は返した。

「しかし、ここでリハビリしている人達を見ているとなんだか羨ましくなります」

「羨ましい?どうして?」

「だって皆、大小の差こそあれ、目的を持って手足を動かそうと必死にもがいてる。わたしみたいに目標のない人間にとっては羨ましい限りです」

ミキは言った。

「……同感です」

「身の回りが騒がしくなると、心も気忙しくなって、ここからいなくなりたいとか思いませんか?わたしは、そんな時が何度もありました」

「あなたも……警察に?」

「ええ、昔のことですけど」

「そうですか。でも、疑われることには自分も慣れているんで」

 瞳の奥から諦めに似た色が浮かんだ。














 



 


 

 













 




 




 

 


 












 

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