第13話「世界平和を願う者たち」(2)
トレイスがヴィルフィに対して見せた一冊の本、それはヴィルフィが世界の底に落ちるまで毎日したためていた日記だった。
崩壊の際に少し傷んでしまったのだろうか、表面が少しだけ劣化はしてしまっている。しかしトレイスが拾って丁重に扱ってくれたのか、それ以外の部分は大丈夫そうだった。
「日記、日記だったんだ。口語的、散文的、文法の崩れ……どうりで全然解読できないわけだよ」
トレイスは何かに納得したようにそう告げる。ヴィルフィにも彼女の言っている意味が少しずつ分かってきた。
彼女は魔女の住処から拾ってきた一冊の本を、何かしらの手がかりになると思って持ってきていたのだ。その本を開いてみると、この世界にはない言語で書かれている。それを解読するのに時間を費やしたが、成果は上がらずといったところだろう。
ヴィルフィは、当然だろうな、と感じていた。元々この世界にはない”日本語”で書かれた文章であり、こちらの世界の文法体系とは大きく異なる。特に日本語という言語は彼女が元いた世界でも学ぶのが難しい言語の一つとされているため、異世界であるライアッドの人間が簡単に理解できるものではない。加えてヴィルフィの癖のある語彙で情緒をしたためたこともあり、まず間違いなくこの世界の人間には読めないだろうと感じていた。
ヴィルフィもハーデットから魔導書を買ってもらい、この世界の言語にはある程度精通しているつもりだ。しかしあえて日本語にしたのは、その内容を誰にも知られないようにするためだった。そこには彼女の異世界に来てからの苦難や世界の考察に加え、彼女の不安が書き連ねられており、とてもじゃないが人に見せるものではなかったからだ。
「それはアタシのだ、返してくれるか?」
ヴィルフィは冷静に、しかしいつもより警戒心を増した低い声でトレイスにそう告げる。
だがもちろん、せっかく手に入れた手がかりだ。トレイスはただで渡すつもりはなく、伸ばされたヴィルフィの手から本を遠ざけてしまう。
「この本に何が書いてあるか、私たちは知りたい」
トレイスは無表情でありながら、それでもまっすぐにヴィルフィを見つめる。
「ああ? 大したこと書いてねえよ」
ヴィルフィはぶっきらぼうにそう返す。
実際のところ、その日記には別に価値などない。あるのはヴィルフィの出生と前世についてで、後はこの世界で知ったあれこれや、あまり彼女が人に晒したくない気持ちの部分が書かれているだけだ。
しかしトレイスはヴィルフィの言葉に対しても、目線を外すことはなかった。
「あなたにとって大したことでなくても、私たちにとっては大切な内容かもしれない」
どこか使命感を帯びた執着心だ、ヴィルフィはそう感じていた。
彼女たちは世界平和を願っている。そして世界平和とは即ち、魔災の解決だ。魔災の解決に関して何か一つでも手がかりのあるものであれば、それを掴んでおきたい。そして厄災の魔女本人の日記には、その魔災の鍵になる情報が書かれているはずだと勘ぐっているのだ。
ヴィルフィは呆れたようにため息を一つ吐いて、頬杖をつきながら口を開いた。
「けっ……おたくらの調べてる魔災に関しちゃ、嘘八百しか書いてねえけど、良いのか?」
「……そうなの?」
トレイスが驚いた表情を浮かべる。ヴィルフィはここで初めて、彼女の表情の移り変わりを見た気がした。
トレイスたちの視点で言えば、ヴィルフィが魔災を引き起こした元凶であり、彼女こそが魔災について最もよく知っている人物だと思っているはずだ。賢者リートと戦ったあの時、自分はリートに対してそう告げているのだから。
もちろんヴィルフィも賢者との戦いまでは、そう信じていた。異世界に無理やり入った自分こそが世界を崩壊させる原因で、自分が死ねば魔災も終わると考えていたのだ。
だが、実際は話が違った。女神と話したあの時、ヴィルフィは自らが魔災の原因でないことを女神本人から聞いている。そしてもうその頃には、その日記はトレイスの手元に渡っていたのだ。
即ちその日記に書いているのは、ヴィルフィが信じ切っていた――否、女神によって信じ込まされていた嘘八百でしかない。
「……魔女ヴィルフィ、あなたは何を知ってる?」
トレイスが素っ頓狂な表情から一変、真剣そのものの表情に変わる。
もちろんヴィルフィにとって教える義理はなかった。魔災対策機関クスウィズンも、ヴィルフィにとっては王国や教団の仲間でしかなく、つまりはヴィルフィにとって敵以外の何者でもない。そんな人物たちに何かを教えたところで、自分たちの行っている事が変わるはずもないと思っていた。
だが、そんなヴィルフィのひねくれた表情は、トレイスの突然の行動によって変わることになる。彼女が椅子から乱暴に立ち上がり、ヴィルフィに向けてずんずんと進み、そして彼女の胸にあるチェーンを握り顔を近づけたのだ。
「――答えて」
炎と氷がぶつかりあっている、傍で見ていたハーデットの頭に、自然とそんな言葉が下りてきた。
何者も凍らせてしまうような鋭い氷塊を瞳に宿したトレイスは、明らかに怒りの感情が芽生えている。無表情のように一見見えるが、その迫力は先程までの彼女とは全く異なっていた。
「――答える義理はねえな」
対して何者も溶かし尽くす紫焔を瞳に秘めたヴィルフィは、彼女の威圧感のある行動に対して全く臆することはない。むしろ心のどこかで着火したように、相手を制圧する獣のような雰囲気を醸し出していた。
「答えてくれないと、私はあなたを殺さなきゃいけなくなる」
「証拠もなしに人殺しか、最近の研究者サマは偉くなったもんだな」
「殺すための証拠なら、いくらでも女神の言葉を聞けば良い」
「結局は女神の言葉かよ。いいぜ、やれるもんならやってみやがれ」
炎と氷が火花を散らしている中、ハーデットもティアマットも口を挟もうとしなかった。
ハーデットは自分の娘の今までに見たことのない迫力に対して、父親として動揺を隠しきれていない。このまま戦いになってしまえば、ヴィルフィを含めた自分たちの立場がより一層怪しくなる。本当は止めたいところだったが、娘の豹変に対して怖気づいてしまっているのだろうか、声をかけるタイミングを見失ってしまっていた。
助け舟を出すように、ハーデットはティアマットに目配せする。ティアマットは彼の視線には気付いてくれたが、特に行動を起こそうとしなかった。まるで、一度喧嘩させておけば丸く収まるだろうと言わんばかりに。
ヴィルフィとトレイスの対立はますます迫力を増していく。一触即発の雰囲気にどうしようか困っているハーデットは、二人の間に割り込んでくる大きな影に気付いた。
「……きみたちは本当に健気で可愛いねえ」
二人の頭を大きな手でがしっと掴み、わしわしと髪を崩すように撫でる長身の女性――リスターは興味深そうに笑みを浮かべていた。
「リスター、邪魔しないで」
「トレイス、きみの悪いところだ。冷静に見えるが情熱的で、後先はあまり考えない。証拠はわたしだ、いつもストッパーを務めるのはわたしなのだからね。後ここは一応私の部屋だ、荒らしてほしくないね」
リスターはトレイスが論破出来ないことに、うんうん、と子供をあやしたときのように微笑みを浮かべている。
そしてその青黒い隈のついた目を今度はヴィルフィに向けた。頭を押さえているその姿は、まるで猛獣を窘めているようだと、リスターは内心面白がっている。
「ヴィルフィ、わたしの同僚が無礼な真似をしたようで悪かった。わたし達はあくまで情報共有をしたいだけなのだよ。きみが魔災について知っていることを聞かせてほしい。代わりに魔災対策機関クスウィズンの優秀な研究者二人の知恵をいくらでも授けよう」
「……けっ」
リスターに対してそっぽを向くヴィルフィに対して、リスター本人はうんうんと満足げだ。何が満足げなのかハーデットにはよく分からなかったが、ひとまず争いは避けることが出来て、ほっと一安心していた。




