第1話「憧れの世界に」(5)
目の前のモンスターは、リートとベールの二人を微かに震わせていた。
それでも二人はモンスターと相対する。自らの予想と違って強大だったとしても、立ち向かうために、あるいはいざというときに戦闘から離脱できるように。
「グオオオオオオオオオオ!!」
モンスターは泥で出来た両腕を地面に叩きつけて、自分を鼓舞するように咆哮を上げる。その叫びの大きさに、二人は思わず目を背けた。
「……ベールだけでも逃げて」
「ダメだよ、二人で逃げよう!」
「そんなこと言っても、相手の速さが分からない以上、追いつかれた時のリスクが大きいよ。誰か一人でもここに残って、あいつらを引き付けなきゃ」
それは父親から、あるいはグレンから聞いていた、いざという時の対処法の一つだった。
モンスターは見た目以上に凶暴であり、相手の能力が分からないうちは、下手に安直な行動に出てはいけない。たとえどれだけ強大な敵に出会ったとしても、まずは観察することから始めること。逃げ道はそれから判断するものだ。
そのためには、目の前のモンスターと戦わなければいけないのだ。リートは剣を抜き、モンスターへその先を向ける。普段使っている木剣よりもずいぶん重いが、隠れて練習していた事もあり、ちゃんと使いこなす自信があった。
「……それって、あいつの動きが分かればいいってことでしょ?」
「そりゃまあ、そうだけど」
リートの横に並ぶように、ベールが弓を構えた。その矢先はモンスターを向いている。
「だったら、私も手伝う。二人で逃げよう」
「……わかった。無理はしないでね」
「それ、リートも」
「わかってる。――いくよ!」
リートがモンスターに向かって駆け出していく。その瞬間、まるでスタートのピストルを鳴らされたように、ベールの弓から放たれた矢が、リートを追い越していった。
「ガアアアアアッ!!」
矢は真っ直ぐにモンスターの泥色の額を撃ち抜くコースで飛んでいく。ベールの狙いは正確だ。
しかしその矢が当たった瞬間、固いもの同士がぶつかった時のように、甲高い音が聞こえた。先から折れた矢が地面に呆気なく転がってしまう。
(泥のようなのに、意外と固いのか!?)
リートはモンスターが振り下ろす右手の叩き潰しを避けて、剣を振りかぶる。狙いは左腕の破壊だった。
「――ぐッ!?」
だが、またしても金属のぶつかり合う音。その精一杯の斬撃は、呆気なく弾かれてしまう。
なんとか剣を落とさずに済んだリートだったが、その弾かれた反動で後ろにバランスを崩してしまっていた。それを狙うように、モンスターの太い左腕がリートへ攻撃を仕掛ける。
リートはなんとか持っていた剣を、モンスターの攻撃に間に合わせ、剣で直撃を逸らせようとした。剣と腕が相対し、瞬間また金属のぶつかり合う音が聞こえた。
直撃は避けられたが、リートは腕の攻撃による反動で後ろへ突き飛ばされてしまった。背中から跳ねるように着地し、肺の中の酸素が一気に持っていかれる。
咳き込みながらも、なんとかリートは立ち上がった。視界がやや揺れたが、すぐに回復する。リートはこれまでに得た相手の特性を整理しはじめた。
「剣も効かない……なら!」
リートは剣を持っていない左手に、魔力を集中させる。
モンスターは粘性のある泥のようでいて、反面固いチョコレートのような不思議な体をしている。であれば、チョコレートを溶かすためにすることと言えば、一つ。
「――溶けろっ!」
リートの左手から放たれたのは、炎魔法だ。魔導書を読み込んで習得した魔法を、リート特有の無詠唱で唱える。その魔法は大人が使うものと遜色のない大きさで、目の前の怪物の左肩にぶつかった。
「グギャアオオオオオ!!」
モンスターは低い唸るような叫び声を上げる。その表面を見ると、泥色の体には相応しくない、青色のコーティングが剥がれている様子があった。
「なんだあれは、魔法なのか……?」
少なくともリートは、魔力をコーティングして防御力を上げるモンスターは見たことはなかったし、師匠からの教えでも聞いたことが無かった。目の前のモンスターが普通のモンスターでないことはここからも強く実感できる。
だが、その魔力のコーティングが剥がれているということは、チャンスなのではないかと思った。今まではまともにダメージを与えることが出来なかったが、もしあの魔力の感じられない部分に攻撃を当てることが出来たら。
「リート、ここは私が!」
リートがそう考えた瞬間、もう一人同じことを考えていただろう人物が、モンスターに攻撃を仕掛けた。
矢は正確にモンスターの左肩へ吸い込まれていく。矢がモンスターの体に触れた瞬間、モンスターが咆哮を上げた。
「やった!」
モンスターの左肩にしっかりと突き刺さった矢を確認し、ベールは喜びの声を上げた。リートも攻略の糸口を掴めて、ほっとした表情を浮かべる。
しかし、モンスターの空洞で作られた目が、リートではなく、ベールを向いた。目が合った瞬間に、えっ、と情けない声がベールから漏れる。
「ベールっ!」
リートが叫んだその刹那、モンスターは、その体の重さからは考えられないほど勢いよく、体の伸縮性を使って飛び跳ねる。
そしてその着地地点にいたのは、ベール。彼女はモンスターのヘイトを買ってしまっていたのだ。
「間に合え――ッ!」
リートはベールの元へと走り出していた。モンスターが着地するよりも速く、ベールの体へと飛びつき、体当りする形でその場から移動させる。
そしてモンスターは勢いよく着地した。リートの足が軽く触れて、靴が脱げる。その靴はモンスターの泥色の体に巻き込まれ、呆気なく潰されてしまっていた。
ベールの体を庇いながら、リートはモンスターの着地の衝撃で吹き飛ばされ、またしても地面に転がされる。
ようやく止まったところで、ベールから離れ、彼女の様子を観察した。どうやら大きな怪我はしていないようだ。
「ベール、大丈夫?」
リートが立ち上がり、ベールに手を差し伸べる。ベールは同じく手を差し出して立ち上がろうとするが、崩折れるようにその場へとへたり込んでしまった。
「……腰が抜けちゃったみたい。立てないよ」
冷静にそう分析するベールの体は震えており、瞳は濡れそぼって、恐怖に苛まれているのが分かった。
「ねえリート、あなただけでもいいから、逃げて」
「ダメだよベール、二人で一緒に逃げようって」
「出来ないよ! それよりも私をおいてリートだけ逃げて! もともと、こんな危険なところに誘った私が悪いの……」
ベールの瞳から、涙が一気にこぼれ出る。彼女が怖がっているのは分かっていた。前世のある自分でさえ今の状況が怖いのだ。
だけどベールは、自分の命を心配してくれている。彼女はなんて自分を想ってくれている女の子なんだろう。元々ここへ来たのだって、ベール自身が感じる気持ちもあっただろうが、元々はリートのためだった。彼女がリートの強さを信じてくれていたからこそ、その強さを大人たちに証明できる舞台を用意してくれたのだ。
「――ベールは、僕の事を強い人間だと思ってくれたんだね」
その強い想いに、リートは応えたくなった。
「大丈夫だよベール、絶対にベールの気持ちに応えてみせる。なんたって、僕はチートだからね」
「……ちー、と?」
リートは深呼吸をする。再び剣を強く握りしめ、目の前の強大なモンスターと対峙する。
自分は女神の加護を受けた人間だ。自分が現実世界で好きだったライトノベルも、ネット小説も、多くの主人公がとんでもない能力を手に入れて、強大な敵もあっさり倒していく。
それならば、自分にも出来るはず。大切な人の一人くらい、こんなところで守れなくて、何が生まれ変わりのチート主人公だ。
「守ってみせるよ、ベール」
リートは目の前のモンスターを、鋭い眼光で睨む。炎魔法で溶かしたはずの魔法も、既に修復されていた。
もう一度炎魔法を当てるべきだろうか。いいや、もうこの距離で魔法と剣の攻撃を二つ当てる保証は出来ない。たとえ相手の攻撃を一度自分が回避出来たとしても、ベールを巻き込んでしまう。ベールが動けない以上、こちらも一撃で相手を仕留めるしかなかった。
だが、既に防御魔法は修復されている。物理の前にまず魔法を当てなければいけなかった。
無詠唱で魔法を撃てるからといって、魔法と剣撃を組み合わせた練習をしてきたわけではない。魔法の反動で剣の動きがブレるなど、連続して行うと満足な攻撃が出来る可能性は低いだろう。
また防御魔法は修復に多少時間がかかるようだが、それでもどれだけかかるかは未知数だ。警戒した相手が修復を早めるようになったら、こちらには打つ手がない。
現状でこちらが与えられる攻撃は一回。剣撃は弾かれ、魔法は致命傷に至らない。
(……強がってはみたものの、かなり苦しい状況だ。もし同時に二種類の攻撃を当てることができれば――待てよ?)
リートは一つの可能性を思いつき、過去の、前世の記憶を引っ張り出す。
剣と魔法を同時に使う方法が、一つあった。それはいわゆる”剣士”という物理職が”マジックポイント”というものを使う典型的な攻撃だ。リートの読んでいた小説にも、このような使い方をしているキャラクターがいた。
自分は今までに行ったことはないが、それでもこの状況を打破するのはこれしかないだろう。リートは口角を上げて、モンスターへ笑う。
モンスターはリートの方へと右腕を大きく振りかぶり、近くにいたベールもろとも潰そうと攻撃を構える。
リートはそんなモンスターの行動に対して、笑みを止め、自分の魔力を集中させた。集中させた先は、先程のように左手ではなく、剣を持っている右腕だ。
やがてリートの腕を伝って、剣に炎がまとわりつく。炎を帯びた剣は熱した金属特有の光を放ち、後ろにいたベールの視界を眩しく照らした。
「――”魔法剣”なら!!」
リートはいつもの剣術の指南通りに、強大なモンスターへ剣を振り上げる。
炎を纏った剣はリートの斬撃の軌跡を残すように、剣から千切れて空中で小さくなる。しかしその炎が消えぬ間に、モンスターの振り下ろした腕が切り取られ、モンスターが悲鳴に似た甲高い叫びを上げた。
「終わりだ――ッ!!」
リートは返す要領で、もう一度剣を振り下ろす。その斬撃は金属が当たる音を発することなく、真っ直ぐにモンスターの体を両断した。
モンスターは甲高い叫び声を上げながら、徐々にその体が溶けはじめ、比例するように叫び声が小さくなっていく。そしてドロドロになってしまった体は、地面に染み込んでいくものと、水蒸気となって昇華されていくものに分かれ、モンスターの跡を全く残さなかった。
リートは安心したように、一つ、大きく息を吐く。戦いが終わった事だけは実感できた。
「ベール、もう大丈夫だよ。一緒に帰ろう」
リートは座り込んでいるベールへと手を伸ばす。恐怖がまだ拭えていないのか、彼女の体にはまだ震えが残っている。
ようやく朝日が木漏れ日をはっきりと作り出した。ベールは眩しさに一瞬だけ目を背けながら、差し伸べられた手に視線を戻す。
ベールに手を差し伸ばすリートの姿は、彼女には輝いて見えた。
「……ごめん、やっぱり腰が抜けて動けないみたい」
「やれやれ……よいしょっと!」
「ひっ!?」
リートはベールの体を両手で抱え、そのまま歩き出す。リートの世界では俗に言うお姫様抱っこという状態で、リート自身もするのは初めてだった。少し照れくさい。
そしてリートが内心照れている事も知らず、当のお姫様抱っこをされた本人は、リートの顔に釘付けになっていた。
(……リートって、こんなに力持ちだったんだ)
ベールにとって、リートはまだ背丈が自分よりも低い子どもだった。まるで弟のような存在で、自分が引っ張っていかなきゃという使命感に駆られていたのだ。
だが目と鼻の先にいるリートは、もっと大きな、頼りがいのある青年に見えた。
ベールはかつて草原で交わした、リートとのやり取りを思い出す。
『わたしリートがすき!』
『僕もベールが好きだよ』
純真だった自分はそこからリートとの結婚まで考え始めて、彼に猛アピールをしていた。”おままごと”のやり取りは当時の自分には間違いなく、幸せの象徴だっただろう。
ただそれは、年を重ねると薄れてしまっていた。どちらかと言えば自分はお姉ちゃんで、リートの事を好きなのは変わらないが、それは恋愛感情とか結婚とかとは無関係な、家族愛的なものだと、いつの間にか気付いていたのだ。
(しょうらい”けっこんをちかった”あいてなんだから、か……)
ベールは頬を染めながら、ふふっと微笑んだ。彼女にとってこの一日は、人生で忘れられないものになった。
第1話「憧れの世界に」 (終)