第1話「憧れの世界に」(3)
リートが魔法を使えることに驚いた両親は、家族監修のもと危機管理を十分に行い、リートに魔導書を読ませるようになった。
最初は文字を読むことが困難だったリートも、母親の熱心な教育のおかげで少しずつ読めるようになり、魔法を初めて使ってから1年経たない間に、一冊の魔導書を読み終えてしまった。
リートの両親が驚いたのはその読了スピードだけではなかった。母親が何度も読み返してなんとか魔法が使えるようになるまでになった魔導書を、5歳のわが子は一読しただけで魔法を使えるようになったのだ。今では鍋に火をかける時には、息子に完全に任せている状態だった。
そして更に驚くべきは、詠唱に関してだ。リートは詠唱をせずに炎の魔法を出すようになっていた。
リートの母親は決して魔法が苦手ではなかったが、そんな彼女でも詠唱は必要だ。そしてこの世界の常識的には、熟達した魔法使いでも、どんな魔法であれ少しの詠唱が必要である。それは魔法を使う上で絶対的なルールだった。
それを5歳の子供が詠唱もせず魔法を放つものだから、両親はもちろん、街の人々がみな彼を天才だと称賛した。むしろ何かの研究施設に連れていかれないかと両親は心配したが、王国側の対応は優しく、6歳になって国立の魔法学校に通うことを条件に、何も手出しはしなかった。
(これが女神の力なのか……)
リートは周りの反応から、ああ自分はすごいことを――彼の前世の語彙で表すならば、チート的な才能を持っているのだと実感した。
「……って、聞いているのかリート?」
聞き慣れた男性の声がリートの耳に届く。目の前には自分よりも文字通り一世代上の男性が、腕を組んで立っていた。
「ごめんお父さん、考え事してた」
「ったく、リートは考え事をするといつもこうなるもんな。すみません、団長」
リートの父親は申し訳無さそうに、自分よりも更に少し老けた男性に頭を下げる。
「はっはっは、気にするな。子供は色んな事を考えるものさ」
濃い茶髪の中に白髪の混じった、歳のわりには若々しい声の男性はオーバーに笑う。グレンと呼ばれた男性は、顔に幾つか傷が入っており、体つきは筋骨隆々、腰には剣を差している。モンスターが出れば絶対に退治してくれそうな安心感が、この男にはあった。
父親が感謝を述べ、リートの方へと振り向く。これ以上余計な事をするなよと言わんばかりの表情をしていたので、リートは考えに耽らないように注意することにした。
「リート、この方はグレンさん。元々は王国の預言者直属の騎士団のトップで、父さんの上司にあたる」
「今は上司も部下も無いだろう、既に騎士団は抜けているのだから。団長呼びもやめたらどうだ?」
「勘弁してください団長、他の呼び方なんてもう出来ないですよ。ほら、学校の先生っていつまでも”先生”って呼ぶでしょ」
「確かにな。俺の下で働いていた時より、上手いことを言うようになったんじゃないか?」
はっはっはと笑うグレンに、リートの父親は呆れつつも、どこか表情は柔らかかった。二人が紡いできた絆なんだろうな、リートはそう推測する。
グレンという男は、どこか年齢と振る舞いがアンバランスなのだが、いつまでも若々しくいたいという気持ちが現れているようで、リートには輝かしく感じられた。
「さて、リートくん。君のお父さんの親友で、元騎士団長のグレンだ。今日は君に、剣の稽古をつけにきた」
「剣の稽古?」
リートはその意図が汲み取れず、父親の方を振り向く。
「お前は魔法は出来るかもしれないが、いざという時の護身術や、魔法が使えなくなった時の予防はしておいた方が良い。だからグレンさんに来てもらったんだ」
「はあ」
息子の反応にいまいち不服そうな父親、それを見てまた豪快に笑うグレン。
リートには父親の意図が少しだけ透けて見えていた。魔法は母親の専売特許で、この我が父親は魔法がからっきし駄目だった。だがそのままでは息子に合わせる顔がない。王国の騎士団所属という肩書のプライドもあるのだろう。だから魔法だけでなく、騎士団に所属する男の息子として、剣もちゃんと出来るようになってほしいと思ったのだ。
ただ別にそれは悪い事ではないし、今日も突然だったから乗り気になれていないだけ。リートもファンタジー世界に来た以上は、剣の一つでも振るってみたい気持ちがあった。
リートはグレンの方へと改めて向き直り、父親のように一礼する。
「今日はよろしくお願いいたします」
「がっはっは、礼儀正しい子だ! 本当にお前の子か疑いたくなるよ」
父親が苦笑いを浮かべている事も構わず、グレンはまた大笑いしていた。
* * *
自宅から離れ、いつもベールと遊ぶ草原にやってきていた。
リートは木剣を持ち、グレンと相対する。グレンも木剣を構えており、その立ち振る舞いはまるで山のようだ。風林火山の意味を実感する日が来るとは思っていなかった。
対してリートの木剣の先は、細かく揺れている。目の前の相手が怖いわけではない、単純に剣を持つことに慣れていなかった。
「リート! 同い年の男の子でも、もっと様になる構えをするんだぞ! 気合い入れろ!」
少し遠くで見守っている父親が、右手を拡声器の要領で口に近づけてリートを叱咤する。
「わかってるけど、これ難しいよ……」
リートは声に出して父親の叱咤に反応する。女神の加護は、残念ながら剣術には適用されないようだ。
「落ち着きなさい、リートくん。まずは深呼吸する。剣は自分の体の一部と思えば良い。最初から俺の立ち振る舞いを真似せず、まずは集中して、剣が自分の一部である事を感じるんだ」
言われた通りリートは深呼吸をする。目を閉じてリラックスする中で、”剣が自分の一部である”ことを考える。
グレンの言っていることを自分なりに解釈すれば、自分の体に何か得体のしれないものがくっついている感覚だろうか。
「うーん……」
「難しいか。では剣を持って動いてみなさい」
「動く?」
まだ立ち止まれてもいないのに、もう動くのか……リートは不思議だったが、門外漢の自分が口を出すことではないと考え、実際に左右に動いてみる。
リートが左に動くと、剣は右に倒れる。リートが右に動くと、剣は左に倒れた。前に進むと、その左右は安定する。まるでほうきを手のひらに立ててバランスを取る遊びのようだった。
「その調子だ」
グレンの言葉で安心し、更にリートの集中が剣に合わさった。
これは、何かを持ち運ぶ感覚と似ているだろう。その場で立つことはバランスのいることだが、重いものを持ちながら移動するのは案外バランスがいらない。重いものを持って移動するとき、持っているものの重心ありきで考えるからだろう。
その考え方を、リートは手に持っている木剣に当てはめてみる。先程まで自分はこの剣を持って立ち止まろうとしていたが、それは目の前のグレンと同じポーズをしようとしていたからだ。
であれば、動いてみる。動けば、歩き方が分かる。それができれば、剣の重心が分かる。剣の重心が分かれば、立ち止まっていても問題なく構えることが出来る。
「……良い感じだ。同い年の子供よりも飲み込みが早いな」
一つずつこなしていき、リートは剣の重心を理解して、構えを直す。まだ先端は少し震えているが、先程よりもかなり良くなったと感じた。
「良いじゃないか。体が未成熟な分、剣先が震えるのは仕方がない。だが、剣が自らの体の一部だと認識できれば、剣を振るう時にも活用できる。十分だ」
リートはグレンに合わせて剣を一度下ろす。普段使っていない筋肉を使ったのだろう、決して重いものではないのに、腕が張っていた。
「どうだ、”剣を持つ”という事が分かったか?」
「はい、分かりました」
「がはは! 俺がもう少し暇なら弟子にしたいところだ」
グレンがまたダイナミックに笑う。
リートは彼に感心していた。元騎士団長の肩書は伊達ではなく、剣術の教え方が上手い。運動神経が悪い自分でも、明らかに剣の持ち方が変わったと実感できた。しかもそれは彼の言う通り、これから行っていく”剣を振るう”ことにも繋がることだろう。
――この人は、間違いなくすごい人だ。
「……グレンさん」
「おう、なんだ?」
リートはグレンの方へとまっすぐ向き直り、もう一度木剣を構え直す。先程のグレンからの教えをすぐに反映させる。拙い部分があるのは承知の上だが、それでも学んだことはちゃんと吸収したと証明する。
「忙しくても大丈夫です。僕の師匠になってくれませんか?」
リートの言葉に、グレンは目を見開いた。考え事で会話に集中できていなかった弱々しい少年が、まっすぐ突き刺すような眼差しをこちらに向けていたからだ。
「リート! 隊長は多忙な人で――」
「――いいぞ、弟子にしてやる」
リートの父親が駆け寄って窘めようとする、その言葉を他ならぬグレンが遮った。
グレンの言葉に、リートの表情は一気に明るくなる。
「ただし、俺もしなきゃならない事が沢山ある。時間の都合はこっちに合わせるんだぞ」
「わかりました」
二人を仲介したリートの父親を完全に置き去りにして、幼いリートと元騎士団長グレンは師弟関係になったのだった。