第1話「憧れの世界に」(2)
「リート! きょうはおままごと!」
青空に雲の白さがコントラストを強める、そんな晴れの日。ボブカットで栗色の髪をした少女が満面の笑みで、目の前に座る少年へそう告げた。
リート――ネムが転生した姿の少年は、王国都市外れの草原にちょこんと座りながら、一生懸命に葉や花をかき集める少女を見る。前世の記憶があるせいか、どうしても同い年で幼馴染のこの少女を見ると、微笑ましく思えてくる。
「おままごとなら、この前もやったよ」
「リートとベールはしょうらい”けっこんをちかった”あいてなんだから、まいにちするのはあたりまえ!」
「そうですか……」
リートは目の前のベールと呼ばれる少女のパワーに呆れつつ、少し前の事を思い出す。
生まれながら家が隣同士だった二人は、街の外れにあるこの草原で遊ぶことが多かった。
ある日、ベールが「わたしリートがすき!」というものだから、リートも悪い気はせず、何気なく「僕もベールが好きだよ」と返したらしい。するといつの間にか結婚まで話が進んでしまっていた。幼い子供というのは想像力が豊かなもので、いつの間にか想像していた事が現実になるのだ。リートは少し羨ましかった。
とはいえ、ここ最近の二人は毎日おままごとをしている。流石にリートも退屈になってきた。
「他の遊びはしない? 例えば探検に出かけたりとか」
「もしかしてリート、わたしのこと、きらいになっちゃった……? けんたいき、ってやつなの?」
「倦怠期って、よくそんな言葉知ってるよね……」
うるうると泣きそうになっているベールに、リートは思わずドキッとしてしまう。これが子供を泣かせたという罪悪感ならまだしも、リートの心にあるのは綺麗で可愛らしいなぁという感想だった。もちろんロリコンではないとリートは自負しているが、異世界に来て現実世界と人間の”感じ”の差があると、絵画に描かれた可憐で幻想的な少女のように思えてならない。
「わかった。今日もおままごとするよ」
「やったー!」
全身で喜びを表現するベール。やっぱり可愛らしさには勝てなかった。
とびだした平らな石の上に、平行脈の葉っぱを2枚敷き、そこに摘まれた花を丁寧に載せていく。食事のつもりなのだろう。葉という皿に花という食事が盛り付けられ、ベールはにこにこした表情でこちらを見つめる。この異世界にもスプーンという概念はあるが、残念ながらカトラリーという文化はこの”おままごと”にはない。ワイルドに手で食べるのが唯一の作法だ。
「おしごと、おつかれさま! はい、あーん!」
「あーん」
口を開けるリート。もちろんベールは手に持った花を口に運ぶような事はしない。ただ真似事をするだけだ。
リートはこの”おままごと”にかなり新鮮さを覚えていた。幼稚園の頃に女の子と一緒にやったはずなのだが、別に相手の女の子に対してドキドキした覚えはないし、自分もこのようにぽかぽかした感情を抱くことはない。この歳(とはいってもリートはこの世界では4歳なのだが)で”おままごと”をするのは、なんだか照れくさくて、でも目の前の女の子が妻のように献身的で、幸せな気分になってしまう。
まあ、”おままごと”も悪くないか。現実世界ではいよいよ感じる事がなかった感情だから、リートは余計にこの温かな気持ちを噛み締めていた。
「美味しい」
「よかった! おしごとで”まりょく”をつかうから、”まりょく”のつくものがいいかな、っておもったの!」
どうやらリートはこの”おままごと”で、魔法を使う仕事に就いているようだった。
リートがこの世界に赤子として生まれ、まず感動したのは魔法の存在だった。
モンスターの存在は、幼い子供のリートには噂話で聞くしかなかった。”女神の加護”なんてものがあるとはいえ、流石に子供に凶暴な魔物を退治することは出来るはずがなく、リートは大人たちから保護されてきた。
そんなリートが異世界で味わえる異世界らしいものの一つは、日常生活にも役立っている”魔法”だった。
(魔法は実際に詠唱を通じて発動するものと、魔石を用いて発動するものの二つがあるんだっけ)
前者はいわゆる魔法使いが発動させる、リートも前世の記憶で言えば、ゲームでよく知っている一般的な魔法だ。これは傷の手当てからモンスターへの攻撃はもちろん、日常生活にも活用されている。
リートの母親は魔法使いで、一度料理をする時に炎の魔法を用いているところを見ている。母親が夕食の支度に集中している隙に、魔法で生み出された火に触り、火傷をして感動した。ああ、この世界には魔法がちゃんとあるんだと。母親からの説教を、魔法への感動に耽りながら聞き流していた。
とはいえこの魔法には幾つか弱点がある。例えば、魔法を発動するための魔力は、体力と同じように限りがあるということだ。人間は全速力で何十キロも続けて走ることは出来ない。それと同じく、魔力は魔法を使うと減っていき、尽きるとしばらく回復を待たなければいけなくなる。
後天的に鍛えることも少しは出来るようだが、才能の部分があるようで、リートの父親のように魔力を全く持たない人間は魔法を使うことすらできない。
「ねえ、ふだんおしごとで、どんな”まほう”をつかってるの?」
「そうだなぁ……」
リートにはまだ魔法が使えなかった。というより、教えてもらえなかったのだ。
魔法の発動には詠唱が必要だ。そしてその詠唱は、家事に使う程度の些細なものでも、それなりに長い。リートの母親が鍋の前で「女神によって生み出された赤子たちの心臓に宿った炎よ、願わくば我が眼前にある鍋にその炎の一欠片を分け焚べ給え」と神妙な面持ちで唱えているのを見て、何をこの母親はやってるんだと冷静に突っ込みたくなった。発話能力が低くて助かった。
リートが魔法を学ぶうえで、一つ障害があった。それは言葉の壁だった。この世界の言葉は、当たり前だがもとの世界のものとは違う。読み書きをまだ習熟させていないリートにとって、母親の部屋にある魔導書を読むことが出来ず、父親の書斎にある伝記や寓話を読むことにすら苦戦していた。
一応、魔石を用いた魔法というのがこの世界にはあって、魔力を持たない人間や、魔法について勉強していなくても活用する事ができる、便利なものだった。
ただ、前述した詠唱の魔法よりは明らかに規模が小さい。例えばリートの父親が煙草を吸うとき、小さい魔石を取り出して紙に火をつけている。リートが前世で暮らしていた現実世界で言うところの”マッチ”に該当するもので、大きい魔石なら(とは言っても投げて人の頭にでもぶつかれば確実に死ぬ程度には大きいが)、一応料理に使えるくらいの炎は出すことが出来るらしい。だがファンタジー世界の魔法というには少しお粗末なものだとリートは感じた。
もちろんリートが憧れたのは、前者の魔法だった。
町工場で魔石を研究し、自らの知識や女神の加護とやらを駆使して成り上がっていくという将来も考えたが、どちらかと言えばファンタジー小説にいる、魔法を簡単に使いこなす花形の主人公や魔法使いに憧れた。リートが現実世界で亡くなったのが高校二年生、流石に厨二病は卒業していると思うが、それでも心はまだまだ少年なのだ。
魔法を学びたいと母親にねだってはみたのだが、まだ早いの一点張り。考えてみれば当然で、幼い子供に危険なものを渡す親がどこにいるだろうか。鍋の火に指を突っ込んだ前科もある。こいつはやべえ奴だと思われているのだろう。
そういうわけで、リートはせっかくの魔法を、母親が使っているのを見ていることしか出来なかった。
「リート?」
「ああ、ごめん」
リートは慌てて取り繕う。魔法のことになると面白くて、考え込んでしまう癖があった。
(まあ”おままごと”だから、適当にしておけば良いのかな)
リートは右手の人差し指を上に立てて、くるくると回し始める。
一応、母親が炎の魔法を詠唱している事を思い出す。生み出された赤ちゃんの炎をちょうだい、とかなんとかを真剣な表情で唱えていた。顔だけはリートも母親に寄せながら、いかにも自分は魔法使いですという気持ちで、炎のイメージを強くしていく。
「ちちんぷいぷい、あじゃらかもくれん。ほのおよ、もえさかれ~」
語感と雰囲気だけの詠唱に心の中で呆れながら、リートは指先に力を込めた。演技力と炎のイメージを高めるために、あえて目を閉じて指先は見ない。魔法への憧れからか、格好だけは一丁前にしておきたかった。
だが、ベールからの反応はない。流石に適当すぎたのではないかと心配になり、薄目でぼんやりと目の前の彼女を観察する。どうやら、何かをずっと凝視しているようだ。
「リート、ゆびに……」
「ゆび?」
リートは自分の突き立てた指を下ろしてきて、じっくりと見つめる。そこには陽光に隠れて分かりづらかったが、小さな炎が浮かび上がっていた。
その炎は本当に小さいもので、誕生日ケーキのロウソクに灯ったような、吹けば消えそうな弱々しいものだったが、確かにリートの指に浮かび上がっている。それはリートが、魔法を使えた証だった。
「リート! まほうだよ! ほんとうにまほうをつかえたんだねっ!」
きらきらした瞳をしながら、ベールが抱きついてくる。ベールへ引火しないよう、思わず右の人差し指を離したときに、その炎は消えてしまった。
ぎゅーっと抱きしめてくるベールの栗色の髪から、この世界の石鹸のような香りがする。リートは思わず顔を背けた。それでもベールは満面の笑みで、リートを見つめていた。
「……なんだか、使えたね」
「すごい! すごいよ! リートはてんさい! わたしのじまんのおむこさん!」
ぶんぶんと体ごと揺らすベールの様子にリートはどぎまぎしながら、その中で一つの高揚感が大きくなっていく。
その高揚感は小さな炎から始まり、どんどん心臓の中に引火して、脳が脊髄を通じて油を注ぎ、心が溶けてしまいそうなほどに燃え盛っていた。
(――魔法、初めて使えた!)
リートはこの、初めて魔法を使えるようになった日の事を、一生忘れる事はなかった。