第5話「魔女の本懐」(2)
ヴィルフィは家の裏手にある、いつもの練習場へと四人を導いていた。
ここは決戦の舞台に相応しいだろうと、ヴィルフィは感じている。家の中で戦う訳にはもちろんいかず、森の中も本気の実力をぶつける場所としては、邪魔するものが多かった。戦闘用に広く取られているこの練習場が一番良い。
ヴィルフィは練習場の隅にある石碑を見つめる。師匠に見られていると、気も引き締まるというものだ。精神面含めて、地の利はこちらにあった。
「アタシを倒せば、魔災は止まる。賢者リート、ここをアンタとの決戦の場にしよう」
ヴィルフィはリートたちの方を振り向く。彼らはこの場所に警戒心を抱いているようだ。
その反応は正しいよな、とヴィルフィは内心くすりと笑った。
「大丈夫だ、罠なんて野暮な事はしてねえよ。アタシは賢者リートとの真剣勝負を望んでいるだけだからな」
ヴィルフィはリートに対して、にやりと笑みを浮かべる。
彼女が姑息な手段を取らないのは、もちろんリートに対する温情や礼儀もあるのだが、何より大きな理由が一つあった。
ヴィルフィがネムから借りたファンタジー小説の主人公は、いわゆるチートと呼ばれるような、強力な能力を手にしている。そしてその力を駆使して、転生後の世界で活躍し、充実していくのだ。もちろんその最強無欠の主人公に、敵はいない。
なればこそ、そんなチート主人公じみたリートを、チートでもなんでもない、むしろ世界から嫌われているヴィルフィが、自らの努力量で彼を打ち負かすことができれば。
それができれば、自らのこの世界での一六年は、全くもって無駄ではなかったと、納得できるような気がしていたのだ。
「……さて、そろそろ始めるか」
ヴィルフィは丹田に力を込めて一息。そしてきっとリートを鋭い眼光で見つめて、右の手のひらを上に掲げ、大きく口を開いた。
「――断罪の鉄槌を、裁定の合図とせよ!」
ヴィルフィは手のひらをリートの方へと振り下ろす。同時に天から抉りこむように雷が降り注ぎ、リートのいた地面を焦がした。
雷魔法の黒い煙が立ち込める中、その煙を一気に吹き飛ばすように、リートは低く跳躍するような形でヴィルフィの元へと迫る。
「何者も寄せ付けぬ堅牢な牢獄を貸し与えよ!」
ヴィルフィは防御魔法を詠唱し、リートの剣撃を拳で受け止める。ギチギチと鳴る拳で剣を払い除けて、バランスを崩したリートの腹に回し蹴りを一発入れた。
リートの口から空気が吐き出される。しかし彼はバランスをすぐさま立て直し、次なる攻撃を仕掛けようと足を踏み出そうとしていた。
「――悪魔の血溜まりの目撃者を逃がすな!」
回し蹴りを入れてそのまま地面に手を着け、ヴィルフィが続けて詠唱を行うと、彼女の手を中心に地面が氷で埋め尽くされていく。それはすぐさまリートの足元へと伸びていき、彼の足を凍らせて、その動きを封じた。
ヴィルフィは高く跳躍しヴィルフィから一度距離を取る。そしてそのまま両手のひらを開き、詠唱を始める。
「空間さえ切り裂く、女神の眷属が吐く剣を!」
そしてその手のひらから、何本もの風の塊が鋭く放たれた。
足を拘束され動けなくなったリートはその風の刃を剣で受け止める。しかし受けきれなかった斬撃が彼の体を傷つけ、頬に赤い一筋の線を作った。
しかしヴィルフィの斬撃も連続では放つことが出来ない。やがて攻撃が収まると、リートは剣の先端を下にして、力強く両手で地面に突き刺した。
その刹那、彼の周りに炎が舞い上がる。一瞬で蒸発してしまったヴィルフィの氷魔法、そして足が解放されたリートは、その剣の炎はそのままに、ヴィルフィへとまた距離を詰めて、そして彼女へと斬りつけた。
ヴィルフィはその斬撃をなんとか避けようとするが、しかしリートと同じように、頬に一筋の赤い線。先程のヴィルフィが張った防御魔法は、魔法剣によってあっという間に溶かされてしまった。
ヴィルフィは、自らの真紅の髪が数本切られたことも厭わず、すぐにリートと距離を取る。
(……ま、お互い本気はまだ出してないよなあ)
ヴィルフィは少し距離の空いた賢者リートを睨む。彼女たちの鋭い眼光が、ぶつかりあって、鍔迫り合いを起こしていた。
* * *
魔女は、剣によって切られた自らの数本の毛が、風にさらわれて闇夜の森に消えていくのを見送った。
魔女は自らの防御魔法を一度打ち破った目の前の少年を見据える。少し息は乱れているが、大きなダメージを受けている様子はない。魔女と同じ16歳の少年は、その年齢に釣り合わない、小さな子供のような大きく澄んだ瞳で、敵である魔女を見据えている。その手に持つ剣によって、魔女が住んでいる森の木々が数本切り倒されていた。
魔女は火傷のようにひりひりと痛む自らの右頬に触れる。彼の無尽蔵の魔力から繰り出される魔法は、剣撃と合わせることによって魔法剣となり、斬撃と魔法を兼ねた攻撃を魔女に浴びせていた。時には触れたものすべてを凍結させる氷、時には無作為に走り出し予測不可能な攻撃を浴びせる雷、そして時にはすべての邪悪なる存在を包み込む光が、魔女の命を狙っている。
魔女はここまでの戦闘の中で得た少年の戦い方を整理する。賢者と呼ばれる少年は、王国一の剣術使いと謳われながら、この世界が誇る天才賢者だ。剣術に関してはまだ可愛いほどで、ほぼ全属性の魔法を、無尽蔵の魔力でほぼ永久的に発動することが出来る。
また魔法というのは詠唱が必要で、どれだけ魔法を研究した者でも、少なからずトリガーとなる魔法の詠唱からは逃れられない。特に対人の戦闘では詠唱内容から相手が発動する魔法の種類を推測する事ができ、発動までのタイムラグが相手に対策させる隙を生む。それはこの魔女も例外ではなかった。
そして例外というのは、目の前の少年だった。彼は生まれながらの才能により、無詠唱で魔法を発動させることが出来る。発動までのタイムラグの克服どころか、次に何を撃つか類推するという魔法使いの戦い方のセオリーが、この少年には全く通じない。彼が発動させた魔法を瞬時に察知し、ほぼ反射的に対応するしか方法はないのだ。
賢者と呼ばれる少年の事を、魔女の拙い語彙で表現するならば、チートだった。
(……おもしれぇ)
痛む右頬を上げて、魔女は笑った。
彼女は右の手のひらから灼熱に燃える炎球を、左の手のひらから小さな稲光が走る雷球を出現させる。やがてそれらは魔女の周りを飛び回り、魔女はまた一つ氷球を、また一つ水球を発生させた。魔女の周りには魔法で作られた四つの球体が浮かび上がっている。
「――爆ぜろ」
魔女が賢者の方へと手を伸ばし、詠唱からはかけ離れた言葉を呟くと、その球体からは火・雷・氷・水の四種類の魔法が飛び出し、賢者を襲った。衝撃による土煙が賢者の姿を隠す。魔女は小さく詠唱呪文を呟き、何もない空間から取り出した箒にまたがって、空を飛んだ。
そしてその魔女を捉えるように、土煙から突如飛んでくる一つの影――それは賢者の姿だった。
賢者は剣に既にまとった氷の魔法を、剣を振るい放つ。剣撃こそ魔女には届いていないが、空間を凍らせる魔法は魔女の心臓を狙っていた。
「させるかよ、滾れ火炎の赤子共!」
魔女の手から放たれる炎が、賢者の魔法を溶かし尽くす。そして魔女の周りに飛んでいる魔法球が、賢者を撃ち落とすように攻撃を仕掛けた。
賢者は剣で攻撃を防ぐが、次々に襲いかかる魔法球の攻撃に防戦一方になり、一度地上へと足をつける。魔女は賢者の苦い顔を見逃さなかった。
どんな強大な相手だったとしても、魔女はこの戦いに負けるつもりは無かった。
自らが読んできた十万冊の魔導書の力が、目の前の天才的な少年に油断を許さない状況を作り上げている。確かに単純な魔力量や剣術ではあちらの方が上だ。ただこちらには攻撃のバリエーションがある。魔法だけで言えば相手は所詮、ほぼすべての魔法を無詠唱で使える”だけ”なのだ。
魔女が今行っている多種類の魔法を同時に扱うことは、習熟した魔法使いにだって難しい。魔力消費、一つの魔法の完成度、詠唱の短縮化、魔法維持の並立化など、数え切れないほどの訓練を積んで、魔女は今ここで賢者と相対している。少なくとも攻撃の種類の数で言えば、こちらの方が上だ。
そして何より、魔女が抱えている想い――この戦いには絶対に勝つという覚悟が、自身の敗北の可能性を認めなかった。
賢者は右足を一歩後ろに下げ、重心を落とし、再び飛ぶように魔女との距離を近づけた。
魔女は森の中で箒にまたがりながら、魔力球を用いて応戦する。賢者は先程のように中距離から攻撃を仕掛けるのではなく、魔女の攻撃をかわし、時に魔法剣で無力化するなど、あくまで防御しながら飛行する魔女との距離をどんどんと近づけていった。
(――さっきみたいに、近付いて剣で斬りつけるつもりか)
魔女は賢者の行動をつぶさに観察し、ここまでの戦闘を踏まえて導き出せる答えを考える。
先ほど魔女が斬撃をすんででかわしたのは、近付かれて成すすべがなくという形だった。物理攻撃を防御する魔法は展開していたが、強力な剣撃を何回か食らえばそれも破壊される。先程は防御魔法を再展開する間もなく、攻撃を許してしまった。
接近されれば、相手が優位になってしまう。多少の体術の心得がある魔女も、天才的な剣術を駆使する相手には敵うはずもない。だから適度に距離を取るために、箒の機動力を使って魔法を使っている。この森を住処にする魔女にとっては、木々が絡みつく鬱蒼とした森も、自分の庭だ。最大限に速度を出しても、樹木に衝突することはない。
(しかし、このままやっててもラチがあかねぇな……)
魔女は舌打ちをしながら、魔女に着いてくる賢者を睨む。
賢者もまるでこの森の構造を熟知しているかのように、木々の間を簡単に通り抜け、時には枝を伝いながら、魔女よりも高度を保つように動く。魔女よりもこの森を熟知しているはず無いにも関わらず、賢者は魔女からの攻撃を退けながら、その運動神経だけで魔女を追っていた。
そして魔女は魔法球を繰り出し、時折相手の体勢を崩させるための魔法を使いながら、逃げ続けているだけ。勝ち筋があるという訳ではなかった。
(チッ、仕方ねぇ。あんまやりたくねぇけど、意表を突く、か!)
魔女は突如箒から飛び降り、近くにあった樹木の太い幹に、その勢いのまま飛び込む。突然の魔女の行動に、賢者も目を開いて驚いた。
幹へほぼ横向きに着地した魔女は、先ほどまでまたがっていた箒を左手に取り、着地した反動のばねを利用して、先程までの進行方向と逆に――賢者が向かってきている方へ飛び込む。向かい合う二人の相対速度が一気に上がった。真っ直ぐに賢者へと向かっていく魔女は、右手に魔力を集めていく。
「くらえ、祖を産み出した滅びの力を我にッ――!」
賢者の攻撃を魔法球の攻撃でいなしながら、魔女は右手に集中させた魔力を、一気に解き放つ。二人の間に爆発が発生し、魔女と賢者はこれまでの進行方向と逆に吹き飛ばされた。
先ほど足場にした樹木の下に叩きつけられ、魔女はいててと呟きながら起き上がる。ただ衝撃を予期して魔力を調整していたため、無傷とはいかなかったが最小限のダメージで済んでいた。また先程の爆発は魔法攻撃のため物理防御の壁も剥がれていない。事実上、少し痛い程度のダメージを引き換えに、相手に大きなダメージを与えることが出来る作戦だった。
爆発の衝撃で森の土煙と落ち葉が舞い上がり、視界が白くぼやける。小型モンスターが飛び去る音を最後に、その場には静寂が包まれていった。
魔女は油断するような真似はせず、静かに土煙の先を注視する。こんな程度でやられるほど甘い相手ではない事を、魔女もよく知っている。
「――ッ!?」
魔女の視界から一気に土煙が晴れた。違う、魔女の命を狙う存在が一気に近づいてきたのだ。
一瞬で間合いを詰める賢者の動きに対応できず、魔女は成すすべもなく剣撃を受ける。賢者は頭から血を流しながら、それでも想いを絶やさないようにこちらを真っ直ぐに見つめていた。防御魔法が彼女を庇ったが、一度の攻撃で魔法壁はヒビが入り、もう二撃目で呆気なく割れてしまう。
三撃目を繰り出す賢者に対し魔女は魔法球で反撃を試みるも、その魔法球を一閃、賢者は一振りの斬撃で二つ叩き切ってしまった。
舌打ちをしながら賢者と距離を取ろうとする魔女。しかし賢者は決死の表情で、絶対に距離を離そうとしない。このまま距離を離して相手に余裕が出来れば、また振り出しであることを知っているからだ。
魔女は賢者の斬撃に、左手で持っていた箒で対処する。金属が打ち合う音が響き渡った。実際には箒は金属で出来ていないが、魔女の箒は魔法で作られた特別製で、簡単には壊れはしない。
魔女は箒を棒の要領で扱い、剣撃を防いでいく。器用に箒を回しながらも、賢者の決死の猛攻に防戦一方だった。魔女の額に汗が流れ落ちる。
一撃をかわし、一撃を箒で受け、またもう一撃を受ける。防御魔法はもうない。一撃くらえば魔女は倒れる状態だ。
賢者はもう一撃、重心を一気に前へ押しやり、力の入れた斬撃を与える。攻撃に魔女の握力が耐えられず、箒が彼女の後方に飛んでいってしまった。
――箒に隠れてよく見えなかった魔女の顔がようやく見えると、彼女はにやりと笑っていた。
その笑いは、決してこの戦いを楽しんでいるようでは無い――少なくとも賢者はその笑顔を見たことが無かった。窮地に立たされた相手が浮かべる笑顔は、戦いを楽しんでいるか、自分の能力に驚愕しているか、まだ何かを企んでいるか……だが賢者はどれも違うと感じていた。その笑顔が意味するものを、賢者は知らなかった。
魔女は賢者の不意をつき、飛ばされた箒の方へと跳躍する。妙に箒の挙動が綺麗で、賢者は魔女が企んでいた事を理解した。
魔女は箒を左手で掴み、空中に浮遊した箒を一気に加速させる。これまで辿ってきた道を逆走する形で、魔女は賢者と距離を取る。賢者が見た笑みは、まだ崩れることがなかった。
賢者はそこで実感する。ああ、これは勝利を確信している者の顔だと。
そして賢者はその表情の真相を知りたくなった。半ば興味本位で、目の前の魔女を殺すために追いかけ始めた。
(……あぶねぇ。もうちょっとでホントに斬り殺されるところだった)
魔女は額に流れる汗を拭いながら、残った二つの魔法球と自身の魔法で賢者を食い止める。残念ながら魔法球や防御魔法を再構築する余裕はないが、首の皮一枚なんとか繋いだ状態だ。ここからまだ体制を立て直す事ができるだろう。
だがそう悠長にしていられない。相手と違い、自分には魔力の限界がある。長期戦になれば明らかにこちらが不利になる。
(そろそろ決めないとマズいか。でも、どうやって?)
魔女は賢者の攻撃をしのぎながら、どのようにすればこの戦いに勝つことが出来るのかを、少しずつ考えていく。
相手は決して化け物というわけではない。こちらの攻撃が当たれば怪我はするし、防御魔法も張っていない。無尽蔵の魔力と魔法剣の脅威、それだけだ。しっかりと攻撃を与えることが出来れば、勝つことが出来る。
ただ魔力球による攻撃はほとんど無力化される。既に魔力球は氷と水の二つだけで、対策も簡単に取ることが出来る。なんとか魔力を使いながらであれば攻撃には対応できているが、これを止めて他の魔法を――例えば防御魔法をもう一度構築して体制を整えようとすると、敵の攻撃が自分を襲うだろう。
……だが、本当にそれが悪手なのだろうか。敵の攻撃を恐れていて、自分はあの賢者に勝つことが出来るだろうか。
魔女はニヤリと笑う。そんな甘い考え方で倒せるほどの相手ではない。この世界で自分が、賢者本人の次に一番良く知っている。
(防御魔法は根本的な解決にはならねぇが……ま、やってみるか!)
決心を固めた魔女は、賢者の攻撃を食い止めるための魔法を止める。自分の魔力も少しずつ底が見えてきている。だが、まだ十分量残っていた。
相手の防御の手が緩まった事を察した賢者は、一気に魔女へ畳み掛けようとする。
魔女は全神経を水と氷の魔力球に集中させた。水球は滝のような流水を生み出し、地上にいる賢者を押し流そうとする。しかし賢者はやすやすと跳躍してそれを回避、一気に魔女へと距離をつめようとした。
そこで魔女の周りを飛び回る氷の魔力球が動く。それは水の魔力球が出した流水を凍らせ、地上に氷の壁を作った。突如現れた氷の壁に対し賢者は一瞬怯むも、向こう側に見える魔女の姿を追いかけるべく、剣に炎をまとわせてそれを簡単に打ち砕く。割れた氷の小さな破片が体を刺しても、それを厭わず魔女を追い続ける――はずだった。
しかし目の前に魔女はいなかった。突如姿を消した魔女に対し、賢者は魔女の姿を探すべく、魔力探知の魔法を用いる。詠唱なしで魔力を探知できる賢者にとっては、魔女の姿を探すのは決して難しくなかった。案の上、賢者が向いていた方向と少しずれた方向に、すぐに魔女を見つける事ができた。
ただ、その対応に追われた賢者と魔女との間に、距離が生まれた。しまった、と賢者は焦りを覚える。相手に隙を与えることが、強力な魔力球や防御魔法の再構築に繋がることを分かっていたからだ。
(さて、じゃあ魔法の準備をしますかね。決戦は、いつもの場所でだ)
魔女はスピードを上げながら、魔法の詠唱を始める。その様子を感じていた賢者は魔女を追い詰めようとするも、速度の上がった箒についていくのがやっとだった。
やがて森が開け、やってきたのは魔女が住んでいた小屋のある広場――最初に二人が戦っていた場所だ。
魔女は箒から飛び降りて、自分の家を背中に向けながら、やってくる賢者を待ち構えていた。その両手に、大量の魔力を集中させながら。
賢者の速度は以前のように決死さが溢れている訳ではなかった。たとえ防御魔法を撃たれても、状態は振り出しに戻るだけ。決定的なものにはならないだろうと。出来れば防ぎたいという程度の、ある種慢心に溢れた行動だった。
だが魔女の姿が近づいて、彼女が先程の笑み――勝利を確信している者の笑みを浮かべていると分かったとき、賢者の直感が危険信号を告げる。
魔女は口角を一層上げて賢者を見据える。これは防御魔法ではない、攻撃魔法だ。しかも彼女の全魔力を賭けた。
賢者が焦りを顔に浮かべたのが、魔女からでもよく分かった。もう遅い、魔女は笑いを隠しきれなかった。
魔女は笑いながら、しかし頭の片隅で、一冊の本の事を思い浮かべていた。それはこれまで読んできた十万冊の魔導書ではなく、最高に陳腐で退屈な、やけに初見の印象に残る小説だった。
「……こんな奴に勝てねぇ敵役さんには、今でも共感できねぇな」
魔女は、自分に残っている全ての魔力を、両手のひらに集中させ、それを賢者へと解き放った。
* * *
そしてヴィルフィが放ったその魔法は、賢者リートへと届くことはなかった。
魔力が自らの手のひらから霧散し、腕を伝い、心臓近くを流れ、腹から抜けていく感覚。
ヴィルフィは何が起こったか分からず、自らの腹部へと手を伸ばす。そして手のひらにぬるりと温かい感触がして、思わず下を向くと、自らの腹に突き刺さっている一本の矢と、赤黒く染められた自らの手のひらが見えた。
ヴィルフィは信じられないと目を見開き、手を震わせながら、その矢が飛んできた方向を見つめる。そこには茶色のボブカットの美少女が、今にも泣きそうに目を震わせながら、弓を構えていた。
「――リートを、絶対に殺させはしない!」
リートの仲間の一人であった少女――ベールが、ヴィルフィに向かってそう叫ぶ。
彼女の勇気を振り絞ったような、必死の表情を見て、ヴィルフィは諦観に似た納得感を得た。
(……ああ、やっぱアンタにとって、この世界は)
ヴィルフィは受け身を取る力もなく、ゆっくりと後ろに重心がずれていき、そのまま地面にその背中をぶつけて、動けなくなった。
(……理想的すぎるこの世界は、大切で、大好きな、アンタにとってかけがえのない世界なんだろうなあ)
じきに夕刻を告げる西日が森に少しだけ降り注ぎ、魔女の顔を赤く照らす。
倒れた魔女の濡れた瞳が夕焼けに照らされ、宝石のように輝きを放った。




