第5話「魔女の本懐」(1)
ヴィルフィはかつて自らの師匠がよく座っていたテーブルで、日記を書いていた。生まれて少ししてから始めた、この世界での出来事を綴った日記だ。
この世界の言葉は、日記をつけ始めた頃はまだ喋ることすらままならず、まして識字に関しては父親から魔導書を与えられるまで全くだった。
しかしそんな彼女でも、前世の記憶から日本語は問題なく書くことが出来る。この世界に来てから、どれだけ忙しい日でも、日記帳へ日本語をしたためていた。
そしてその日記は、ちょうど最後のページになった。これまで何冊も蓄えてきた日記帳は全て保管しているが、今日がもしかしたら最後の日記になるかもしれない。どちらにせよ今日という日は、日記帳の最後の日に相応しい日だった。
『これからアタシは、自分のワガママを貫き通します。師匠に貰った最後の教えを胸に、私は勝ちます。勝ってこの世界から、彼を連れ戻します』
ヴィルフィは自らの想いを乗せた文章を綴りながら、ふと笑みを浮かべる。
ヴィルフィは一六歳になった。彼女はもう前世とほぼ同じだけの時間を、この世界で過ごしている。連れ戻すと言う割には、この世界に長居しすぎたなと感じていた。
窓から陽光が差し込んでくる。南中時刻をやや過ぎた辺りで、森の外から”彼”がやってくるのであれば、ちょうどこのくらいだと思った。
(……アイツは、やっぱりこの世界のことが好きなのかな)
ヴィルフィは窓の外を眺めながら、物憂げな表情を見せる。
これからやってくる”彼”は、きっとこの世界のことが好きなのだ。そして自分は彼とこの世界を切り離そうとしている存在である。
彼が貸してくれた小説では、主人公はもとの世界に帰りたいとは思ってなかった。むしろこの世界でもう一度やり直そうと、転生した世界で人生を満喫していたのである。
もし彼が、この世界の彼として生きていく事を望んでいたら。
そう考えるだけで、ヴィルフィの心に引き裂かれそうな痛みが走り、死にたくなる。彼がこの世界で幸せに生きているのであれば、自分は納得してしまうのだろう。
だから、自分が今ここにいる――この世界に生まれて、世界を滅ぼすような存在になって、彼を連れ戻そうとするのは、自分のエゴなのだ。
外から鳥が羽ばたき、木々の葉が揺れる音が聞こえる。来客が来たようだ。
ヴィルフィはペンを置いて日記を閉じ、一つ深呼吸を入れて、自らに言い聞かせるように小さく呟いた。
「……上等だ。アンタとアタシ、どっちの想いが強いかの勝負だな」
運命と呼んでも差し支えのない扉が、開かれた。
* * *
「――よう、賢者リート」
その声を、ヴィルフィは魔法で鼓膜を焼き尽くすような想いで発した。
「――あなたが、災厄の魔女ヴィルフィ」
その声は、ヴィルフィの耳へ剣先を突き刺すように真っ直ぐ届いた。
賢者と呼ばれる青年が、ある種の神聖さを醸した宝石のような瞳で、ヴィルフィの事を真っ直ぐに見つめている。賢者は口をぎゅっと結んで、決意を固めていた。
ここ一六年見なかったネム――賢者リートの姿は、以前のような柔らかい面影を残しながらも、この世界で様々な苦難を乗り越えて養われた男らしさが滲み出ている。腰に巻いている剣に、少し高級そうな王国の衣装が、彼の神聖さを更に際立たせていた。
近くには仲間と思われる女性が三人。茶髪のボブカットの少女は、いつ戦いが始まっても良いように弓矢を持ちながら、こちらを鋭く睨みつけている。大盾を持ったターコイズブルーの少女は、こんな状況でありながら冷静沈着にこちらを見定めようとしていた。黒髪を一つで束ねた少女は、握りこぶしを作って獣のようにこちらを威嚇している。
彼女たちの誰もが、ヴィルフィに匹敵するほどの美少女だった。
(いっちょまえに女を引き連れやがって、焼けちまうぜ)
好きすぎて転生先にまで追いかけたくなる男に、内心やきもちを焼きながら、ヴィルフィはそんな気持ちをしている自分がおかしくなって、口角を上げてくっくっくと笑う。
武器に手を添えながら、こちらに警戒心を示している四人。彼らを頬杖ついて眺めながら、ヴィルフィは口を開いた。
「賢者リート、一つ聞かせてくれよ。どうしてお前はこの世界を救おうとするんだ?」
賢者リートが瞳を揺らしたのが、ヴィルフィにはよく分かった。
答えが分かっていても、戦うことが運命だとしても、彼がこの世界をどのように感じているかは知りたいと思っている。あわよくばという気持ちも無くはなかったが、それよりも自らの決意を固めるための問いだった。
リートの瞳がじっと、ヴィルフィのアメトリンのような瞳を見つめる。そこに一切の迷いは無さそうだった。
「この世界が、大好きだからだ」
だろうな、ヴィルフィはその答えが最初から分かっていたかのように、表情を変えず、また口を開く。
「どうしてこの世界が、そんなに好きなんだ?」
リートの瞳をじっと見つめるヴィルフィ。彼の瞳は先程の問いかけと違って、揺れることは無かった。
「……僕はこの世界で沢山の事を経験した。楽しかったこともあるし、挫けそうになったこともある。でもやっぱり、僕が好きなみんながいて、みんなが頼りにしてくれている僕が、この世界にいる。だからこの世界の事が好きで、だから守りたいんだ」
リートは真っ直ぐにヴィルフィを見つめて、心からそう感じているんだと伝わるような言葉を彼女に伝えた。
ヴィルフィは少しだけ目線を下に逸らせる。
(……ま、やっぱりそうだよな)
ヴィルフィの心には、少しだけ、ほんの少しだけ、寂しさが生まれた。
自分はネムと一緒にもとの世界へ戻るため、この世界での生活を犠牲にして、ここまで生きている。そもそも人に恵まれている訳ではなく、ようやく師匠と呼べる人物に会って、この世界にも良い人はいるんだと実感しただけだ。
自分はこの世界の事を、好きにはなれなかった。そもそも自分が異分子で世界から嫌われているという側面はあるが、それを差し引いても、やはりヴィルフィには元の世界の方こそ暮らしたい世界だったのだ、
逸らしていた目線を、再びリートの方へと向ける。彼の表情には、少しだけ戸惑いが浮かんでいるような気がした。
リートは剣に添えていた手を、そっと離す。
「……魔女ヴィルフィ。僕にはどうも、あなたが魔災を引き起こしているとは思えない。真実を語ってほしい、頼む」
ヴィルフィはその言葉を聞いて、一つの誘惑に苛まれた。
もし自分がここで、自分が魔災を引き起こした犯人ではないと言えば、もしかしたらリートと敵対することはなくなるかもしれない。そして彼と共にこの世界で行動し、世界の崩壊を防ぐ手段を見つけたり、仮にそれが無理でも世界が滅びゆく前に自分が死ねたら、それも幸せな人生になると思った。もとの世界に戻ることは叶わねど、いわゆるリートのハーレムに加わって、ヒロインの一人として生きていく事は、単純なヴィルフィはどうせ幸せに感じてしまうだろう。
リートは、何かを希うように、瞳を少しだけ濡らしながら、こちらを見つめていた。そんな彼の様子に、ヴィルフィはため息を一つ吐く。
――でも、アタシは”魔女”なんだ。
ヴィルフィは心の中で自らとは何かを反芻し、笑みを崩さないように口角を意識的に上げた。
手を差し伸べようとする賢者の姿に、アンタは本当に優しいな、なんて少し呆れながら、ヴィルフィは口を開く。油断すると、声が震えてしまいそうだった。
「……いいや、魔災を引き起こして世界を崩壊させようとしているのは、紛れもなくアタシだ」
ヴィルフィがそう告げた瞬間、賢者リートは今すぐにでもその場に崩れてしまいそうな、弱気な表情に変わった。
ヴィルフィはゆっくりと、この瞬間が永遠に続けば良いのにと感じながら、椅子から立ち上がる。日記を書いて固まってしまった体を、ぐっと伸ばして喝を入れながら、近くにある箒を手に取った。
そして今にも泣きそうな顔をしている賢者リートに対して、箒の先を突きつける。
「――最終決戦といこうぜ。お前が勝てばこの世界は守られる。アタシが勝てばこの世界は崩壊する。さて、どっちの想いが強いかな?」
ヴィルフィは胸の内に潜む悲しみをぐっと押し殺して、魔女らしく振る舞いながら、口角を上げて笑った。




