第4話「女神に背く冒涜者ども」(1)
「――てめぇが産んだんじゃねぇか!」
コトノが異世界ライアッドに転生して、思い出せる最初の記憶は、父親の怒号だった。
でもそれは日記を読んでようやく思い出せる程度だ。両親の喧嘩に無力な彼女は怯えることしか出来ず、部屋に引きこもり日記を書き始めたのだ。
トリンフォアという村に住む平凡な家に産まれたコトノ――もといヴィルフィは、何の才能に恵まれるでもなく、子供時代を過ごす。
コトノの記憶がある以上、早くネムを探しに行きたい気持ちはあった。しかしこの広いライアッドという世界で、顔も知らない一人の人間を探すことは、モンスターの脅威で村から出ることすらままならないヴィルフィには不可能だったのだ。
そして村の住民たちは、なぜか自分の事を避けている。同年代の少年少女たちとも遊べず、大人たちはヴィルフィを見てひそひそと話す。それが両親の影響であることはすぐに分かった。
結果、ヴィルフィはずっと家で過ごすことになる。日記を付けた翌日には母親が家に帰ってこず、それから飲んだくれて廊下に座り込んでいる父親がいるくらいで、家の中はひっそりと静まり返っていた。
ヴィルフィの父親――ハーデットは時折どこかに出かけているようで、家の中にいないときがあった。
ヴィルフィにとってみれば、父親が家にいてもいなくても一緒だと感じている。むしろ不機嫌になったときヴィルフィに当たるため、むしろいないほうが好都合まであるのだ。
ただハーデットは金や食料をどこからか調達してくるため、幼いヴィルフィは父親に逆らうことが出来なかった。前世であれだけ暴力に屈してはいけないという信念を持っていたのに、いざ大人を目の前にすると、自分の無力さを痛感させられる。ヴィルフィは歯を食いしばり、耐えることしかできなかった。
「……てめぇはいつまで経っても、俺から搾取しかできねぇよな」
ハーデットのがらがらの声が、廊下に蹲り唾液を垂らしながら苦しむヴィルフィに降り注ぐ。
その日もハーデットは不機嫌だった。いつものように食料を分けてもらおうと、ヴィルフィは顔を赤くして床に座り込んでいる父親に近付く。しかしその手を掴まれて、腕がちぎれそうになるほど持ち上げられた。そしてそのまま頬を拳で殴られて、何度か踏まれ蹴られる。腹の中の空気が一気に押し出され、叫び声を上げることすらままならない。
そしてひとしきり満足したハーデットが我が子にかけた言葉が、自分から搾取しかできないよなという言葉だった。
「……頭いてぇ」
ハーデットは、酒を入れてなお血色の悪い、痩せ細った顔を歪ませる。そのまま壁を滑るように崩れ落ちて、またあぐらをかいて座り込んでしまった。
ヴィルフィはようやく呼吸を取り戻し、口の周りについてしまった自らの唾液を手の甲で拭き取って、またハーデットの食料に手を伸ばす。この父親は一度暴れれば気が収まることを、ヴィルフィはよく知っていた。
(……なんだ、これは?)
しかしヴィルフィの指が感じたのは、固くさらさらとした、本の表紙の感触だった。
ハーデットを刺激しないよう、彼が俯いてしまっている事を確認して、ヴィルフィはその本を手に取る。
ヴィルフィ――コトノの世界とはまた違った言語でタイトルが書かれており、文字を学ぶ機会に恵まれなかった幼いヴィルフィは、その文字が何を意味しているのか分からなかった。中を開いてみると、タイトルよりも小さくて大量の文字が敷き詰められており、ヴィルフィの文字に全く慣れていない瞳がちかちかする。
ただその中に描かれている図説……炎から生まれ出る胎児の絵が、ヴィルフィの紫色の瞳を輝かせた。炎を手から放つ魔法使いの図や、炎と氷の構造と比較した図などを追っていくと、文字が分からないヴィルフィでも、その本がどんな本なのかが推測できた。
(これは、魔法について説明した本、なのか?)
どうやら炎の魔法について説明した本らしい。魔法という概念はヴィルフィでも日常的に接しているため、ある程度は分かっていた。
ヴィルフィは自らの少し伸びた横髪の色を見やる。この炎の魔法は、自分の真紅の髪にはよく似合うだろうなと思った。
そして同時に、どうしてこんな本をハーデットが持っているのかが不思議で仕方なくなる。我が父親が魔法を使っている所など見たことがなかった。どうやら魔法というのは使える人と使えない人がいるらしく、父親は魔法を一切使えない人物だろう。
「……魔法に興味あるのか?」
がらがらの声がヴィルフィの耳に届き、ヴィルフィは隠し事がバレた子どものようにビクッと体を跳ねさせる。
その声の主――ハーデットの方を振り向くと、彼はくすんだ紫色の瞳で、焦点をヴィルフィの方に合わせていた。
一般的に円満な家庭なら、ここで父親に「これは魔法の本なの?」とか「読み方を教えて」とか言えただろう。しかし相手はハーデットだ。下手をしたら機嫌を損ねてまた面倒なことになる。ヴィルフィはただゆっくりと、頷くことしかできなかった。
ヴィルフィの仕草を聞いて、ハーデットはその閉じて眠ってしまいそうな瞳をいつもよりも開く。続けて口角を上げて力ない笑みを作り、はっと息を吐いた。
「そうか、てめぇは魔法に興味があるのか。はははっ! ひーっひっひっひ!」
父親の気味の悪い笑い声が、これまで静寂を保ってきた我が家に大きく響き渡る。決して立派な建物ではないから、お隣さんにも聞こえているだろう。
ヴィルフィも、突然のハーデットの変容に、今度は別の意味で言葉を発することができなくなっていた。気味が悪いとはいえ、父親がここまで笑っている姿を見るのは初めてだったのだ。
ハーデットはひとしきり笑い終えたあと、息を吸う音を大きく一つ、息を吐く音を更に大きく一つして、ゆっくりと立ち上がった。
「……部屋にこもれば、俺の視界にも入らなくなるか」
口角を上げたまま、ふらりと立ち去る父親の姿を見送り、ヴィルフィは食料のことなど忘れて、自らの部屋にその”魔法の本”とやらを持って帰った。
そしてその本をゆっくりと解釈していく。幸い文法はコトノの頃に学んだ日本語と英語で事足りるほど単純なものだった。使われている文字を列挙し、その文字と現実で使われている音を照らし合わせるのに、一晩を割く。やがて意識を失い、翌朝には何も食べていない体が頭痛を引き起こしているにも関わらず、その文字の発音を研究し始めた。
“魔法の本”に対して、前世で活字が苦手だったヴィルフィがここまでの興味を持てたのは、彼女の中に一つの決意があったからだ。
それは力をつけてこの家を、この村を出ていくということ。そして知識をつけて、ネムをこの世界から元の世界に戻す方法を考えるためだ。
コトノはこの世界で生きていくのに必死だ。この異世界に来てから、自分が元の世界でどれだけの人に支えられているかを実感していた。だからこそ自立するためには、力をつけなければいけない。その最もたるのが、ヴィルフィにとっては魔法だと感じていた。
流石に体が空腹で限界を迎えた夜のこと、ヴィルフィはいつものように父親の食料を拝借しようと、部屋を出て廊下を見渡す。
相変わらずハーデットは壁にもたれかかったまま、酒を飲んで俯いている。足音を出来るだけたてないように、そろりそろりと近付く。
(……あれは、また本なのか?)
食料が散らばった廊下には、またしても一冊の本が転がっていた。ヴィルフィは食料を忘れて、その分厚い本を手に取る。発音はある程度出来るようになったが、相変わらず意味は分からない。でも中身を見れば、その本がどういう本なのかがすぐに分かった。
(これも”魔法の本”だ。雷の魔法についてだな)
図説を見れば、どんな魔法かくらいは分かる。それは昨日の”魔法の本”に一晩と半日を費やしたヴィルフィだからこそだった。
しかし昨日の本にしろ、今日の本にしろ、家では見たことがない。食べ物の中に無造作に置かれているところを見ると、外で一緒に買ってきているのだろうか。
ヴィルフィは床であぐらをかいているハーデットの様子を伺う。彼は俯いたまま、眠ってしまっているようだった。
(……親父は、一体何考えてんだ?)
そんな疑問が尽きぬ中ではあったが、ヴィルフィにとっては好都合だった。いくつかの食料とその”魔法の本”を手に取り、すぐに部屋へと立ち去る。そして食料を食べながら、ヴィルフィは意識を失うまで、手持ちの二冊の本と向き合うのだった。
ハーデットの近くにはそれから毎日欠かさず、新しい魔導書が置かれているのだった。




