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第3話「もう一つのプロローグ」(4)


 雨粒が窓を叩く音が聞こえる中、人を殴り倒す音が廊下に響き渡る。

 男子生徒が三人ほど倒れており、まだ倒れていなかったもう一人は、怯えるように腰が引けていた。

 中心にいるのは、一人の黒髪の少女。その髪がぐしゃぐしゃに乱れるのも、あるいはその殴り慣れていない拳が赤く染まるのも厭わず、拳を握りしめて最後の男子生徒の顔面を殴りつけた。高校生男子の大きな体が飛ばされるように地面へ叩きつけられる。

 騒ぎを聞きつけた教師たちがようやくやってくる頃には、男子生徒は全員倒れており、その中心には一人の女子生徒が、息を切らして肩を大きく揺らしながら棒立ちしていた。

 雷が近くに落ちて、一瞬廊下が強い光に照らされる。その光すらも、彼女の濁りきった瞳には届かない。


「大人しくしろ!」


 ジャージを着た体育教師が女子生徒を後ろから抑え込む。既に目的を成し遂げた女子生徒は、無抵抗で地面に押し付けられた。

 そのまま複数の教師が彼女の腕を拘束するように掴み、少女は半ば引きずられるような形で連れていかれる。

 彼女の暗闇に閉ざされた瞳には、四人の男子生徒が倒れている姿が映る。C組のいじめっ子たちだった。あれだけ人を馬鹿にしてきた奴らが、女子生徒と目があった瞬間、怯えるように目を逸らして、教師に助けを求めるようにまなこを揺らす。

 彼らが何を叫んでいるのか、彼女には何も聞こえない。雨粒の音さえも。また落ちた雷の音でさえも。彼女には何も聞こえない。


「……こんなもんに、負けんなよ」


 虚ろな瞳のまま口角だけ上げて、女子生徒――コトノは苦笑した。



* * *



(屋上って、案外広いんだな……)


 コトノは曇天の下にそびえる本校舎の屋上に来ていた。

 コトノは暴力行為により停学、本当は学校へ来てはいけない。だがどうしても彼が、ネムが飛び降りたとされる景色を同じように見たくなって、休みの日にこっそりと校舎に忍び込んだ。

 もちろん本校舎屋上の扉には鍵がかかっている。ネムの一件があってからは更に注意喚起をしているのか、二人が話していた階段の踊り場でさえ立入禁止になっていた。

 休日の本館は本当に人の気配がない。コトノは立入禁止のパイロンバーを乗り越え、屋上にかかっている鍵を足でぶっ壊し、簡単に屋上へ入ることが出来た。


「……立入禁止になってた校庭が向こうだから、こっちか」


 コトノは落下防止用の高い金網フェンスをたやすく上まで登る。

 休日ということもあり、くだんの校庭には人がいない。グラウンドからも本館の屋上の様子までは流石に見えそうになかった。

 三階建ての校舎の縁は風が強く、コトノの細い体ではうっかり落ちてしまいそうになる。雨の過ぎ去った曇り空が作る風は、まるで命を奪うように涼しかった。


「……なあネム、どうしてお前はアタシを置いていったんだ?」


 校庭のアスファルトへ吸い込まれそうになりながら、コトノは呟く。

 当日のネムの様子はむしろ前向きで、自殺なんてする様子は無かった。考えられるとすればネムとコトノが階段の踊り場で別れたあとだ。C組のいじめっ子がネムを見つけて、また嫌がらせをした可能性がある。

 でも、それはいつものことだ。ネムとコトノは約束をしていた。コトノが彼の小説を読むという約束だ。相当な事がなければ、こんなことにはならないだろう。


(……もしかして、アタシと話してる時から)


 コトノは一つの可能性に行き当たる。暗闇の風が彼女の黒髪を不気味に撫でた。

 ネムの様子はいつもよりも前向きで、その変化をコトノは良いものだと考えていた。自惚れかもしれないが、自分という存在がいた事で、ネムの中で何かが変わったのかもしれないと考えていたのだ。

 でも、外見だけがプラスの反面、中身がマイナスのことなどよくあること。少なくともコトノはよく知っていた。人間は強がる時に笑うことがある、他ならぬコトノだってそうだ。

 だからあの笑顔は、ネムが全てに絶望して、最後の最後に浮かべた笑顔なのかもしれなかった。

 そしてその変化に気付くことが出来たのは、コトノだけ。


「――くそったれ!」


 コトノは座っていたフェンスを強く握る。無機質な金属は彼女に何の言葉もかけてくれない。

 確かにコトノが考えている事は事実と異なるかもしれない、ただの空想だ。

 しかしネムが自殺したという事実がある以上、その理由を何かしらこじつけなければ、コトノの気が収まらなかった。


(……もし、アタシがもっと早めに行動できていれば。不良たちを最初から殴って、ネムをいじめから救うことが出来ていたら)


 コトノは右手の拳を見る。まだめくれた皮が治っていない。でもこれっぽっちの拳の痛みで、ネムをいじめから救い出すことができたのだ。

 自分はネムに対して、耐え忍ぶ事を提案した。学生である自分たちは、暴力に対してあまりにも無力だと思っていたからだ。

 でもその結末がこれ。ネムはこの世界からいなくなり、コトノはいとも簡単に不良たちをぶん殴る事ができた。

 もし自分が最初から不良たちに逆らっていたら、ネムにいじめをやめろと主張できていたら、こんなバッドエンドにはならなかったのではないだろうか。

 曇天の屋上に、彼女を励ます存在はいない。校庭の無機質なアスファルトに、一滴の雨が降った。


(……ネムに、会えないのが、苦しい)


 コトノは胸の内に、絞められるような苦しみを抱く。鈍色の空が吹き出す風は、彼女のネムへの熱い想いに触れて、風邪をひいてしまいそうなほど冷たく感じた。

 コトノは、自分はネムの事が好きだったんだろうなと推測する。あの柔らかな笑顔に触れたい、撫でてくれるような声を聞いていたい、澄み渡ったあの瞳に束縛されたい。亡くなってすんなり出てくる想いが、ぎゅっと彼女の心臓を握りつぶしてきた。

 そしてその苦しさがコトノの視線を下へ、下へと追い詰めていく。見えたのは無機質なアスファルト。親愛なるネムの墓場。


「――アタシも、ネムと同じ所へ」


 誰にも聞こえない呟きを残して、コトノの体が金網フェンスから離れた。

 浮遊感がコトノの体を支配する。校舎の窓から見える教室には、天井に接着された机と棚。新聞部が作った掲示の見出しが、逆を向いている。

 コトノは頭から落下しながら、至って冷静に、脳天が潰れるまでの時間の長さに感動していた。

 もし死ぬんだとしたら、ネムと一緒の場所が良い。

 そしてもし生まれ変わるのだとしたら、それもネムと一緒の場所が良い。


(……ネムは生まれ変わるとしたら、どこに生まれるんだろうか)


 ふと、コトノはネムに借りた小説を思い出す。

 主人公は死後、ファンタジー世界に生まれ変わり、第二の人生を送っていた。ネムももしかしたら、そういうファンタジーな世界に生まれ変わっているのだろうか。

 でもコトノは、どうせならもう一度この世界で――小説で読んだ都合の良い世界じゃなくて、酸いも甘いも混ざりあったこの現実世界で、人生をやり直したいと思っていた。今度は最初から不良たちを殴って、ネムを救って、友達になって、恋をして、告白して、喧嘩して、仲直りして、結婚して、子供を作って、子供の人生に頭を悩ませて、子供が結婚して、歳を取って、ネムを看取って、一人ぼっちの中で死んでいきたい。

 それはきっと幸せだけじゃない、苦難もあるだろう。理想的な人生を送れる事なんて珍しいはずだ。コトノが暴力沙汰を起こして、刑務所で質素な飯を食うことになるかもしれない。ネムが自分以外の好きな人を見つけて、自分は応援する立場になるかもしれない。ネムが不治の病にかかって、早くに亡くなってしまうかもしれない。

 でも、それでも自分たちには、立ち向かう力がある。苦しい世界でも生きていくための力を。コトノの好きなロックバンドも、そう歌っている。

 生まれ変わるならこの世界が良いと、コトノはそう強く思っていた。


(――っ、あれは……?)


 コトノの瞳に映る、二回目の窓。そこに映されていたのは逆向きの教室ではなく、二人の姿だった。

 青空とより高い雲が背景になり、雲の上に立つ男女……一人はネム、もう一人は銀色の長髪で白い布のような装束を着た女性。

 それはまるでネムから借りた小説の冒頭にそっくりで、コトノは一つの可能性にたどり着く。


(ネムは”異世界”に行ってんのか!?)


 彼らの話し声は聞こえない。だが窓一面に映ったその景色は、ファンタジー小説の扉絵にあったものとそっくりだった。

 もしネムがあの小説のように異世界に転生しているのであれば、自分が現実世界で生まれ変わったとしても、何の意味もない。ネムと一緒にこの世界で暮らしたいのだ。


(……だったら、アタシも行くしかねぇか)


 もう一度ネムと会いたい。この世界で一緒に暮らしたい……コトノのそんな欲求が、コトノに上を向かせた。

 アスファルトが近付いている。このままだと自分はこの世界に脳髄を飛び散らせ、この世界で次に生まれる種をまき散らすだろう。

 それではいけない。自分もまず、あの世界に行かなければいけないのだ。

 あの世界からネムを取り戻し、現実世界に戻って、ネムの書いた小説を読むという約束を果たしたい。


 コトノはアスファルトを砕くように睨み、手を伸ばす。一階の窓に映っているものはどうでも良い。自分は今、この世界の壁を打ち砕かなければいけないのだ。

 そしてアスファルトへ手のひらが触れた瞬間、コトノはアスファルトを握り潰す。ガラスコップを落とした時の音が、コトノの耳をつんざく。

 ヒビ割れたアスファルトを突き破り、コトノはアスファルトの奥に広がっている、暗闇へと落下していった。

 校庭で止まるはずだった彼女の落下が、暗闇の中へと続いていく。そこには音がなかった。部活動の練習による人の微かな喧騒も、冷たい風の吹く音も、自らの心臓の音でさえも。

 コトノの心臓は、もはや想いだけを宿していた。コトノは強く念じる。自分も向かうのだ、あの雲の上へ。ネムが転生したはずの、あの世界へ。


 徐々に暗闇が薄く青色に染まっていく。世界が徐々に明るさを取り戻していき、やがて果てしない雲海が目の前に広がる。

 コトノの体を徐々に減速させる、空気の抵抗力を肌に感じた。それはやがて大きくなっていき、コトノは突風を受けて髪を乱しながら、終端速度で落ちていく。

 目指すは雲海に混ざる、一際輝くような雲。そこにはネムがいるはずだ。

 そしてコトノの体がその雲に到達し、叩きつけられる。柔らかなマットに高いところから着地した感触だったが、不思議にも痛みを感じることはなかった。


「――今日は来客が二人も。あらあら、困りました……」


 そして彼女の耳に聞こえる、何物にも汚れていない柔らかな女性の声。

 コトノは立ち上がり、声の主の方を振り向く。そこにはまるで神様か天使様のような衣装を着た、”先ほど見た”銀髪の女性が、困ったような表情でコトノを見つめていた。


「うーんただでさえ今日は一人転生させてるのに、これ以上大変な事が起きてしまってます。どうしたら良いんでしょう……」


 銀髪の美しい女性は人差し指を下唇に当てながら、柔らかい声で困り顔を浮かべている。

 コトノは彼女の様子を見て、口角を上げ、歯をちらりと見せて、強気に笑った。


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