第13話「世界平和を願う者たち」(20)
ティアルムが預言者になってからずっと愛用していた両手杖が、ヴィルフィの炎の拳によって真っ二つになってしまった。
からん、と石畳の上に武器を転がり、戦いの最中には訪れなかった静寂が、二人の間を支配する。
ヴィルフィはまっすぐにティアルムの瞳を見つめていた。彼女の瞳にかかった雲には、少しずつ空の色が差していた。
しかしその空はヴィルフィを見つめて、揺れている。そしてその揺れにティアルム自身が気付いた瞬間、彼女は腰が抜けるように座り込んでしまった。
「……私の、杖、が」
ティアルムは呆気なく割れてしまった杖の欠片をぼおっと見て、震える声でそう呟く。
彼女は預言者となったとき、自らが預言者たる風格を醸し出すために、自らの魔力操作を安定化させる両手杖を特注で作らせて、それを持ち始めた。自らが女神に選ばれた人間であるという特別な意識を持つために、或いは女神に選ばれた以外は全く特別でない自分を飾るために。
ヴィルフィはふうと息を整えて、衣装が汚れる事も厭わずにその場へ座り込む。目線をティアルムの高さに合わせると、彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
「あー、大切なものだったら悪い……」
事情を知らないヴィルフィは何が起こっているか分からず、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「……なんで貴方が謝るんですか」
「いや、まあ……なんかすまねえ」
「別に良いです。……それよりも」
ティアルムはまるで責めるような眼差しでヴィルフィを見つめている。それは今までのような敵意むき出しの黒い眼ではなく、人間らしい感情のこもった瞳だった。
「手を抜きましたね?」
「……言ってる意味がわかんねえけど」
「とぼけないでください。前に戦ったことがありますから知ってます、貴方の魔法はあんなものじゃなかったはずです」
「あー」
ヴィルフィは気まずそうに目線を逸らしてしまう。
彼女は一応全力のつもりだった――だがそれはあくまで、一つの縛りを課しているという前提でだ。
ヴィルフィは世界の底で発動した、あの不死身のヘルギガスを倒した強力な魔法を使っていなかった。教団本部を襲撃した時には容赦なく使っていたが、ヴィルフィは一つ考えたことがあり、今回の戦いには用いていなかったのだ。
しかしそれに対して、手を抜かれたと感じているティアルムは、身を乗り出しながらヴィルフィに顔を近づける。
「それに貴方は一度も再生能力を使用しないよう、一切の攻撃に触れようとしませんでしたね?」
「いや、そりゃあアンタの魔法に拘束効果があるから……」
「そうかもしれませんが! でも実際に発動させようと思わなかったでしょう?」
「や、まあ……そうだけどよ」
「ほうら!」
ティアルムは戦いには負けたはずなのに、なぜかしたり顔で胸を反らせている。たゆんと揺れる胸が、彼女の天然さを醸しているようだった。
しかしそんな様子から、いけないいけない、と首を横に振って、ティアルムは再び真剣な表情でヴィルフィの方を見つめる。なんだか小動物のようで、ヴィルフィは彼女にちょっとした可愛さを抱いていた。
「……どうしてそんな真似をしたんですか? 本気でぶつかってほしかったのに」
「まあそれは、なんつうか、本気ではあるんだ」
ヴィルフィはかいた胡座を気まずそうに揺らしながら、どう説明したものかと頭の中で整理する。
だがなんとなく説明の形は思いついたように、ヴィルフィはじっと見つめるティアルムの目線を自分のものと合わせた。
「アタシは、自分の力で手に入れた能力を使ってアンタに勝ちたかったんだよ」
「……どういうこと、ですか?」
「アタシは賢者リートみたいに何か特別な力を授かったわけじゃねえ。今使ってた魔法は全部、親父や師匠に教えてもらいながら、アタシが努力して身につけたモンなんだよ」
「……そういえば研究室で話していたときに、再生能力は何か努力して身につけたものではないと仰っていましたね。教団本部で見せたあの魔法もそうだと」
「まあ、そういうこった」
「そうだとしたら魔女ヴィルフィ、貴方は――」
ティアルムは体を再びヴィルフィの方へと倒しながら、先程までの黒い瞳が嘘のような、きらきらとした瞳で彼女を見つめる。
「――何もない者でも、強くなれる。そう仰りたかったんですね?」
純粋無垢な、まるで幼い子供のような表情で核心を突かれたヴィルフィは、気恥ずかしそうに頬を少し赤らめながら、目線を逸らしてしまった。
そんな魔女の様子にティアルムは、やっぱりそうだったんだと、ふふっと笑う。
笑われた事に少し文句でも言ってやろうかと、ヴィルフィはティアルムの方を唇を尖らせながら振り向く。
……だが、彼女の言葉は止まってしまった。
「あれ? 私、どうして……」
目の前のティアルムが、微笑みを浮かべながら、透き通った瞳で、涙を流していたからだ。
「ああ、そういうことですね。魔女ヴィルフィ、貴方がとっても強い人だからです。そして私は貴方よりも生まれて年月が経っているのに、とっても弱い人だから。弱い、そうですね、弱い人なんです、私は」
微笑みを浮かべているのに、ぼろぼろと涙を流し、手の甲でそれを拭っても止まらないティアルム。言葉と共に溢れ出てくる感情は、ティアルム自身を責め立てているものの、彼女は決してそれを悲しみだと捉えなかった。
「……ティアルム」
「辛かったんです、何もない自分が、何も出来ないことに。この世界の人たちはどんな境遇でも、たくましく生きようとしている。私はお父様に、預言者の娘という立場に恵まれながら、何も出来ていないことが悔しくて、悲しくて、辛くて、死にたくなって、でもそんな自分に蓋をして、またそれが嫌になって――」
「ティアルム!」
濁流のように自責の言葉を漏らしていくティアルムに対して、ヴィルフィはその両肩をぎゅっと掴む。ティアルムと目線があったヴィルフィは、彼女の瞳に曇り空がまた広がっていることに気付いた。
ミュトシアから見える山の稜線から、微かに光が漏れ出している。夜明けはもう少しだった。
「魔女、ヴィルフィ……」
「アンタは確かに、自分の出来ないことから目を背けてきた弱えヤツかもしれねえ。だけどよ、アンタは世界平和を願ったからこそ、自分を責めてんだ。その高潔な志は、アタシには真似出来ねえ」
「でも、私はそんな理想しか描けない、現実から目を背けることを選んだ弱い人間で……」
「だからなんだってんだ。女神がどうかは知らねえけどよ、アンタの世界平和への信仰は決して間違いじゃねえ。歩いてみりゃ良いじゃねえか、今からでも」
「……わ、私は、本当に歩けるの?」
「不安か? だったらアタシの魔法を思い出せよ。アタシの存在が、アンタが大丈夫だってことの証明だ」
ヴィルフィは自身気な表情で、ティアルムにそう告げる。
彼女は知っていた。誰かの存在が、怯えている人間に対して勇気を与えることを。ヴィルフィにとってのそれは、敬愛する師匠からもらった、この三角帽子だ。
ティアルムにあげられるものは、残念ながら今は持っていないが、自分の存在くらいであればいくらでも貸そうと思えた。
「私は……」
ティアルムの瞳が、炎で焼き尽くされたように熱くなった。
あれほど忌み嫌っていた魔女の存在が、今は輝かしくて仕方がない。そしてあれほどまでに魔女を憎んでいた自分が、哀れでたまらない。
そして哀れと思うほど、自分の弱さと向き合うことになる。泣いてしまいたくなる。それを止めるために、瞳から現実を奪っていたのだ。
だが、ティアルムの瞳は黒く染まらない。代わりに彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ、誰かの胸の中で叫びたくなった。
「う、うわああああああああん!!」
ティアルムは魔女の温かい胸の内で、自らの弱さで狂ってしまいそうになる自分を、全て吐き出した。
* * *
ヴィルフィはティアルムがひとしきり泣き終わるまで、その胸を貸していた。
既に衣装はティアルムの涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、こりゃちゃんと綺麗にしないとなと内心では冷静に考えていたが、彼女が泣き終わるまでは何も言わないでおこうと思っていた。
そしてようやく気の済んだティアルムが、自分の頭をヴィルフィの胸から離す。
「……もう、大丈夫なのか?」
「ええ、まあ……」
彼女の瞳は赤く充血していて、鼻も赤くなり、ミルク色の前髪もくしゃくしゃになってしまっていた。相当泣いたのだろう、相当自責感を溜め込んでいたのだろう。そんなことをヴィルフィが考えていたら、衣装を汚した小言の一つでさえも、言えなくなってしまった。
ティアルムはゆっくりと立ち上がり、ミュトシアに流れる大河を見つめる。山の稜線からはもう太陽が今にも出てきそうなほどに、光が漏れ出ていた。
「……朝に、なってしまいましたね」
「まあアタシがアンタの所にいったのも、トレイスたちとの話が終わって夜遅くだったしな」
「皮肉なものです。泣き腫らした後に、厄災の魔女と見る朝焼けが、こんなにも綺麗だなんて」
ティアルムは大河の方へと一歩、また一歩とゆっくり歩いていく。それはまるで自らの足で歩む感触を確かめる、生まれて間もない子供のように。
「そういえば魔女ヴィルフィ、貴方はナイフを一本持っていましたね?」
「ん? ああ、持ってるけど」
ヴィルフィは立ち上がってティアルムに近付きながら、太ももに隠していたナイフを取り出す。
なんてことのない、替えのきくような安物のナイフだ。いざというときの近接戦闘用に持ってはいるが、あまり使った覚えはない。せいぜいあの研究室で見せたような、自らの特殊能力を紹介するときに使うくらいだ。
「それを貸してくれませんか?」
「良いけどよ、別に大したことない市販のナイフだぜ?」
「構いませんよ」
手を差し出すティアルムに対して、ヴィルフィは少し訝しげにナイフを渡す。
ナイフを受け取ったティアルムは、大河の方へと振り返り、一歩、また一歩と歩んでいく。
そして少し歩いたところで、またしてもヴィルフィの方を振り返る。
「魔女ヴィルフィ、よく聞いてください」
「言われなくなって聞いてる」
「ふふっ、そうですね」
彼女は慈愛の中にどこかいたずらっぽさを含んだ微笑みを浮かべて、ヴィルフィをじっと見つめた。
「私は貴方の胸で泣いている中で、預言者である私を諦めようと思いました。だから、貴方に最大限の敬意を込めて――」
ティアルムは大河に吹くそよ風に靡く、自らの乳白色のきめ細やかな後ろ髪を指で掴んで、一つに束ねる。
そして自らの後頭部に束ねた髪へ、ヴィルフィから借りたナイフの刃を当てて。
「――預言者ティアルムが亡くなる、その瞬間をお見せします」
すっと、刃を髪の束へと通した。
ティアルムの指を離れた髪束は、そよ風に吹かれて大河へと溶け出してしまう。その瞬間、ようやく上り詰めた太陽の光が、二人の姿を照らした。
「……ショートカットも、似合ってるじゃねえか」
「うふふ、ありがとうございます。ヴィルフィは本当に光栄なんですからね?」
ティアルムは未ださらさらと錦糸のように靡く髪を、少し照れた表情をしながら指で遊ばせる。
あれだけ長かった後ろ髪は、もう彼女のうなじを隠すほどの、首元までしか伸びていない。だが横髪に関しては切り落としていないため、後ろ髪と不揃いにも胸元まで伸びたままで、さらさらと彼女の頬を撫でていた。
「……そういえばヴィルフィ、もう一つだけ頼みがあるのです」
「なんだ?」
「私は預言者である自分を捨てました。自分の足で歩くことを決めたからです。……ですがどうも、ティアルムという名前は世間に浸透しすぎていて、気になってしまうのです。だから――」
彼女はミルキーホワイトの髪を揺らしながら、楽しそうにヴィルフィの方へと近付いていく。
「――これから私は、”アール”と名乗りたいと思っているんです。いかがでしょう?」
預言者の肩書を捨てて、新しい自分として一から歩き出そうとする彼女に対して、ヴィルフィは口角を上げて笑った。
「良いと思うぜ。――よろしくな、”アール”」
アールの瞳の中には朝焼けのような、決意の焔が宿っていた。




