第3話「もう一つのプロローグ」(1)
「――ったまいてぇ、なんだよこれ」
整えた黒髪が崩れるように、少女は頭を抑えながら教室前の廊下を歩いていた。
校舎の窓の外には、ボールを追いかけている男子生徒たちが俯瞰して見える。体育でサッカーをしているのだろう、元気な野郎どもめと少女は悪態をつく。
その日の琴乃は、あまり体調が良くなかった。家で体温を測る習慣がない彼女は、微熱があったとしても体調が変化するまで気付かない。授業は可能であれば絶対に出席するという謎の信念が、余計に体調不良から意識を逸らせている。結果、体に異常がようやく出て、保健室へ向かっている所だった。
昼休み後の授業だから、可能であれば休みたくは無かったが、先生から直接保健室へ行けと言われてしまったので仕方がない。もし風邪だったら移すのも気持ちが悪く、コトノは保健室へと歩を進める。
「――うっ、うっ」
保健室がある一階へ降りようとしたところ、上の方から人の声がした。男子生徒の声だとは思うが、少し高かったので自信はない。
その声が気になったコトノは、保健室へ行くことを一旦後回しにして、声の正体を突き止めに階段を上がる。
「……お前、授業中に何やってんだ?」
声の正体はすぐに分かった。階段の踊り場の隅で一人、涙を流している少年がいたからだ。
少年はコトノの声に反応して、彼女の方を振り向く。瞳と鼻が赤くなっていて、随分泣いている事がわかった。地毛だろうか、やや茶がかった黒髪はコトノが羨むほどさらりとしており、中性的で少し幼い印象を受ける。
コトノは彼が履いている靴の色を見た。コトノが履いているものと同じ色だ。この学校は学年ごとに靴の色が分かれているため、コトノとこの少年は同学年ということになる。
「……誰、ですか?」
「お前と同じ学年の生徒だよ。コトノって呼べ、”さん”はいらねぇぞ」
コトノは少年の隣に座り、階段の踊り場にある窓から空を見上げる。五月の太陽は先月よりも高く、ちょうど二人の座る位置は影になっていて快適だった。
「コトノさんは、どうしてここに?」
「さんはいらねえってのに……まあ良いか。アタシは体調不良」
「なら保健室に行ったほうが……」
「保健室に行こうとしたらお前が泣いてた、お陰様で頭痛が吹き飛んだわ」
実際、コトノが感じる分には頭痛はかなり収まっていた。目の前に何か予想外の事が起きれば、自分の体調なんて変わるんだなぁと心の中でコトノは感心する。
「んで、最初の質問。お前はここで何やってんだ?」
コトノは少年の方へと向き直る。人を目の前にして涙は止まったようだが、表情の曇りは隠しきれていなかった。
「……僕、クラスでいじめられてるんです」
哀愁を漂わせながら、少年はそう呟く。
いじめはどの学校でも決して珍しいわけではない。コトノはいじめという存在が本当に嫌いだったが、喧嘩が決して強いわけではない学生風情の彼女が、どうこうして解決する問題は少なかった。
だからせめて共感してあげようと、コトノは気持ちを据えて話を聞く姿勢になる。
「どこのクラスだ?」
「C組です」
「ああ、だったらアイツらか。運悪く標的にされちまったんだな」
「分かるんですか?」
「ああ、有名なんだよ。去年も別のクラスでいじめを起こしてたらしい。アタシも実際に見たわけじゃないから、あくまで噂程度だけど」
「そうなんですか……ということは、今年の標的は、僕」
少年は自分の惨めさに嫌気が差しているのか、再び瞳を涙で濡らしていく。少しでも揺れることがあれば、流れてしまいそうだった。
コトノはもし自分がいじめの標的になってしまったらと考える。自分は別に腕っぷしが強いわけではないから、どれだけ悪いことだと分かっていても太刀打ち出来るかは微妙だ。でも殴られながらでも、口では言い返すだろう。
ただ、こいつには無理だろうな……少年の気弱そうな様子を見ながら、コトノはそう感じた。
「……まあなんとかするのは難しいかもしれねぇけどよ、アイツらは完全に悪者なんだ。そういう奴らはどこかで痛い目に遭うし、死んだら絶対地獄行きだ」
「そうですかね……」
「ってか、逆に考えてみろ。お前は弱者かもしれねぇけど、アイツらの弱みを握ってる事にもなる。スマホで録画か録音でもしとけ、アイツらが有名になった時にネットで晒しちまえばいいんだ」
「……すごいこと考えますね、コトノさんは」
少年の表情に少しだけ灯りがついた、コトノは素直にそう感じた。
「……コトノさんが羨ましいです。僕はそう前向きに考える事が出来ないですよ」
太陽の光が急に弱くなる。雲に隠れてしまったのだろう。それと同時に、少年の表情についた灯火はすぐに消えてしまった。
少年のことを口で励ますのは簡単だ。今のように少し前向きになれる言葉さえかけてあげられたら良い。
でもその場はそれで良くても、彼は下手をすれば一年間近く、いじめの標的にされるのだ。この場だけ繋いでも、いずれは潰れてしまうだろう。
コトノは心の中でとある決意をして、階段から立ち上がる。そして少年の目の前に立ち、腰に手を当てて口角を上げた。
「お前、名前は?」
「えっ?」
「アタシと友達になろう。いじめの愚痴でも何でも聞いてやる。アタシが好きな元気出るロックバンドとかも教えてやるよ」
コトノは少年へ手を伸ばす。雲に隠れていた太陽がまた顔を出したのか、階段の踊り場には光が灯っていった。
決して根本的な解決策を思いついたわけじゃない。彼を救うなんておこがましい事は言えないし、言うつもりもない。
でも、相談できる味方がいれば、”いじめ”に嫌悪感を抱いているコトノが味方になってあげられたら、目の前の少年は前を向いて歩けるようになると思うのだ。
少年の頬から一筋、涙が流れた。でもそれは悲しみの涙ではなく、目の前の少女から溢れ出る前向きさに、心を震わされたからだ。
少年はコトノに手を差し伸べ、立ち上がる。彼の柔らかな表情が、太陽の光に照らされて、コトノにもよく見えるようになった。
「……音陸って言います。よろしくお願いします、コトノさん」




