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デビュー それはほろ苦きものなり その10

 マシンが順調に周回を重ねている頃、ピットでは久恵夫人が腕を組んでレースを見守っていた。実は、あることを気にしていたのである。それは……

「思ったより気温が高いわね」

 この時季、マン島の最高気温は大体16℃くらい。二輪レースでは大体気温が18℃を超えると体力的な負担が大きくなるとされている。なので、マン島は時期的にはほぼギリギリだった。

 因みに湿度はこの時季マン島は比較的低く基本的には乾燥している。だが、今日は珍しくマン島にしてはまとわりつくような感覚であり、恐らく体感的に60%は超えていると久恵夫人は思った。生活でもだが、スポーツでも最適な湿度は概ね40%以上60%以下と言われている。日本人はこのくらいは割と慣れている方だが、不快には違いない。

 因みに、湿度とは1㎥の空気中に含まれる飽和水蒸気の量であり、気温30℃の時の1㎥の空気中に含まれる水蒸気の量が30.4gの時、湿度は100%となる。また、0℃の時は4.8gで湿度100%となる。

 なので、気温によって湿度の定義は大きく異なる。暑くなると同じ湿度でも水分量が増える分だけジメジメし、寒くなると水分量が減る分だけ同じ湿度でも乾燥しているように感じる理由でもあるのだが、どの気温でも概ね40~60%が快適に過ごせる範囲と思って間違いないだろう。


 久恵夫人が見つめる温度計は、19℃を指していた。たかが1度というなかれ、体感的には1度上がるだけでもスポーツ選手には大きな負担となって圧し掛かることがあるのだ。一般人でも夏場は一度上がるだけでもキツいと感じるくらいである。スポーツ選手はそれ以上に感度が高い。その上湿度も考慮せねばならない。

 当人も嘗てはレーサーだったし、日本国内は初夏と言えどもマン島と比べ暑く、その上湿度も高いため、悩まされた経験は少なくなかった。

 だからこそ気にしていたのである。また、久恵夫人は、特に翔馬のことが気になって仕方がなかった。というのも、去年夏に行われた地方のレースで翔馬の弱点が図らずも露呈してしまったのだ。決して姪だからという個人的感情だけではない。

 あの時、トップを走っていた翔馬であったが、コンディションは気温28℃、湿度は85%に達していた。気温は夏になると35℃を超えることもザラである現代からするとそんなに暑い方ではないかもしれないが、湿度85%というのは厳重警戒とされる90%手前であり、高齢者になると安静状態でもかなり危ない数値であることから、久恵夫人が危惧するのも当然だろう。

 その上、二輪レースでは例え暑いといっても転倒時のダメージ抑制のためにあの革ツナギ、もしくは最低でも革の上下を身に着け、そしてヘルメットを被ることが必須となっている。自分たちがカジタニに特別にオーダーして製作してもらったツナギには汗や熱気を逃がすためのパンチングメッシュを設けているとはいえ、暑さに強いウェアではないのだ。

 そんなレースで翔馬は最終ラップにフラツキを見せ、追い付かれる前に辛うじてチェッカーを受けたものの、すぐさまマシンをストップさせピットの死角へと走っていった。そして、ヘルメットを脱いで戻ってきた翔馬は涙目の上、肩で息をしており、明らかに憔悴状態で、何のために死角へ駆け込んだのかは誰もが察しつつも、女の子なので敢えて訊こうとはしなかった。

 メカニックが何が起こったのかをすぐに察して大急ぎでコーヒーを持っていった。それを取り上げるように一気飲みしたことからも、脱水症であったことは疑いがなかった。

 翔馬は他のメンバーと比べスタミナに劣ることが露呈してしまったのである。

 余談だが、SSDではライダー向けのコーヒーには僅かに塩を含んでいる。まだ世界初のスポーツ飲料であるゲーターレードもなかった時代だ。このため、SSDでは早くから独自に対策を打っていた。

 尚、コーヒーは利尿作用があるため、水分補給に適さないという意見もあるが、成分の大半が水分である以上、そんなに神経質になる必要はない。それに、現代と違い、コンディション管理にしても嗜好品に対しても全体に大らかな時代だった。

 尤も、ゲーターレードが世に出るとSSDはすぐさま導入し、後にポカリスウェットが登場するまで使うことになるのだが。

 あの時のレースは走行距離にして精々100㎞程度だった。しかし、マン島ではグループXはSと並んで6周、364.2㎞を走らねばならない。実質4倍近い走行距離である。

 そして、久恵夫人は、ある指示を出した。

「間もなく給油のためにピットインする頃よ。あと、コーヒーを準備しなさい」

 そう命じられ、まるで一つの生き物のように有機的且つ淀みのない動きを見せるピットクルー。そして、何故コーヒーを用意するよう命じたのかも当然分かっていた。無論ストローも抜かりない。

 4周目に入る頃、他のチームが次々とピットインする中、SSDもピットインが始まった。先に入って来たのは無論翔馬。給油の間、クルーの一人がコーヒーを手渡す。予想外の差し入れとはいえ戸惑うことなく飲み干す。バイザーを降ろしたままとはいえ、コーヒーによって充電完了元気100倍状態なのが手に取るように分かる。

 数秒のこととはいえ、オアシスで英気を養ったかの如くピットアウトしていく。無論、その後もエイミー、雪代とピットインが相次ぐ中、同じくコーヒーを手渡す。尚、エイミーの故国アイルランドはコーヒーより紅茶が主流で普段も紅茶が多いけど、無論コーヒーも問題ない。何しろアイリッシュコーヒーも時折飲んでいるので。尤も、当人はまだ未成年なのでアイリッシュ・ウイスキーは含まれてなかったが。

 因みにスコッチウイスキーを使うとゲーリックコーヒーとなる他、使うお酒によって名前が変わる。


「やはりね……」

 コーヒーを手に取った翔馬の様子から、疲労困憊の兆候が見え始めており、コーヒーを用意して正解だったと頷くが、未だ予断を許さない。

 既にこの時点で国内レースのほぼ倍を走っているというのに、これでもまだ半分しか消化していないのだ。


 レースは後半へ……

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私のツナギにも膝や腰にシャーリングは有りましたが、むしろ関節裏のパンチメッシュ部分の面積を拡げた方が可動域が広がりそうな感じでした。 ライディングポジション前提でしたから、当然猫背ガニ股肘曲がりっ放し…
[一言] とにかく転倒時ライダーを保護する為にはズレてはいけない。と云う考え方の時代でしたから。 実際何度もコケましたが大した怪我も無く済みました。 関節部に余裕を持たせる様になったのは昭和か平成かギ…
[一言] 昭和の終り頃上野でレース用のツナギを作りましたが、分厚くてキツキツでパンチメッシュなんかその部分しか外気はいらないし、夏は本当にきつかった。 なんで夏に耐久やるのかと。 コーヒー、砂糖とミ…
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