マッド・ジューン その1
およそ一か月前に現地入りし、その間スーザンの御厚意で散々しごかれ、その甲斐あってマン島マウンテン・コースの走り方は掴めてきており、コースも完璧に覚えた。さすがに息切れはしなくなった。
そんな中、5月も中旬に入ると、マン島に上陸する観光客が増え始める。しかも大半がバイクを伴って。それは、年に一度の世界最大のライダーの祭典、マッド・ジューンの始まりであった。
スケジュール的には5月最後の土日を使ってクラブマンレースであるマンクス・グランプリが行われ、6月第一週と第二週の土日に各クラス男女別のGP決勝が行われることになっている。
尚、マン島に限り予選はクラブマン、GP共にブランズハッチで行われる。マン島はあくまで生活道路なので6月を除き閉鎖は出来ない(史実と異なる)。
マッド・ジューンの始まる一週間前には人口9万の島はバイクによる轟音に包まれ、日本のカミナリ族も真っ青。何しろ事実上速度無制限なのもあって、それはもう道路はスピードの狂乱の宴と化す。だが、その代償としてこのマン島で人生の最後を迎える一般ライダーも少なくない。
当時、マッド・ジューンにマン島を訪れる観光客は60万人以上。一時的にマン島の人口は70万人近くまで膨れ上がるのだ。その大半がライダーで、当然各種宿泊施設はキャパシティ・オーバー。そもそも予約自体なかなか取れないため、多くのライダーがテント及び炊事用具食糧持参である。地産地消がマナーなのかもしれないが、これだけの観光客が一斉に食品を買い求めた日にはマン島の物価が一時的とはいえ上昇し地元民に迷惑が掛かる恐れがあるので紳士協定というやつでマッド・ジューンにやって来るライダーの間で暗黙の了解となっていた。
「こ、こんなに観光客が来るのって、予想外だったわ」
英梨花は宿泊しているホテル内のパブから外の様子を窺い、その光景に圧倒される他なかった。
「その上、峠でも聞いたことがないような爆音が響き渡ってるし」
翔馬も数多くのバイクが路上を走ることで生じる爆音に唖然としていた。そう、上陸早々道路に繰り出すライダーも多いのだ。女子選手権も開催される影響か、ライダーには女性の姿も目立つ。案の定というか、そんな女性に声を掛ける、所謂ナンパもそこかしこで発生していた。
まさにお祭り騒ぎ。マッド・ジューンの前夜祭は既に始まっているのだ。一週間後には予選を終えてGPチームが大挙上陸してくる。主催者も心得たもので、前のGPからこのマン島開催までは二週間のインターバルを設けており、その間GPチームはファンサービスなどに明け暮れ、コンチネンタルサーカスの面目躍如といったところか。
その光景に、うずうずしてる者が一人。
「ああ~、こういうのを見てると走りたくてしょうがねえぜ」
それは雪代なのだが、京都と言えばお祭りは外せない。厳かなイメージのある京都だが、実は全国有数の祭りの都としても知られている。京都生まれの雪代も、大阪や東京程ではないにせよ、お祭り騒ぎは大好きだった。
「へえ~、雪代さんもお祭りは大好きなんだ。私の地元もねぶたやナマハゲやさくら祭りがあるから気持ちは分かるわ」
そう、佳奈の地元、青森も祭りは賑やかそのもの。尚、来年のマッド・ジューンにはナマハゲにコスプレしてバイクで繰り出そうかと考えていたり。尚、翌年の初出場ではさすがに憚られたが、コンチネンタルサーカスの一員として認知されるようになった2シーズン目以降からは本当にやって、以降引退までマッド・ジューンを彩るパフォーマンスとして有名になる。その後は後輩に受け継がれ、SSDの名物パフォーマンスに昇華していくことに。
「もしもさあ、来年以降肝心の決勝日に雨が降らないように、あるおまじないをしようか」
お祭り騒ぎを眺めながらそう言っているのはマライソム。
「へえ~、どんなお祭りなんだよ」
「それは来年まで内緒だよ」
しかし、勘の鋭いエイミーは、
「あ、わかった。ロイクラトンやるつもりでしょ」
「ばらさないでってば」
そう言って口を尖らせるマライソム。それを見て一同呵々大笑。
ロイクラトンとは、タイで雨季明けとなる陰暦の12月、新暦の10月中旬から11月中旬の満月に行われるお祭りで、日本語に訳すと灯篭流しである。日本だとお盆に行われることが多いが、広島や長崎では原爆慰霊にも行われるため、翔馬や紗代にはあまり良いイメージがないものの、それは文化の違いであることも理解していたので敢えて言わない。因みに長崎では万灯流しと呼ばれている。
尚、最近では河川や海の汚染に繋がりかねないとして中止する地域も多い。自治体によっては放流を禁止していることもあるため、その場合は狭い範囲で行い予め回収できるようにしているのが一般的だ。
マライソムがロイクラトンを提案したのは、それ以降雨がぱったり降らなくなるため。尤も、開催時期のマン島は比較的降水量が少なく、レースに雨を心配する必要はあまりないのだが、まあ願掛けの一種である。
暫くすると、メンバーが宿泊しているホテルのパブにも観光客が押し寄せ、あっという間に満席になって騒がしくなる。このホテルではパブで軽食も提供しており、無論評判は上々。ライダーの国籍は様々であるが、それだけに各国の言葉が飛び交うものの、バイクで盛り上がっているのは間違いない。
そう、バイクはライダーにとって国境の壁を越える共通のツールといってもいいだろう。外を見ると、クラブマンレーサー風や、当時徐々に流行の兆しを見せ始めていたカフェレーサーの姿もある。今見ると随分クラシックな光景だが、旧車マニアにとっては堪らない光景だろう。
カフェレーサーとは、50年代後半頃から60年代に掛けて(史実よりやや早い)台頭してきた改造マシンのバリエーションで、外観上は快適性や利便性を切り捨て性能重視に全振りしたような、当時のレーサーを模倣したのが最大の特徴だった。歴史的流れとしては、当時ロンドンのカフェで唯一24時間営業だったエースカフェに改造した愛車を自慢し、公道レースで速く、カッコよくを競い合うためライダーが集まったのが発端とされている。当時このカフェに集まるライダーはロッカーズとも呼ばれていた。
ロッカーズの間ではカフェのジュークボックスにコインを入れて曲が始まると同時にスタート、曲が終わるまでに店に戻って来るという公道レースが流行しており、当初はそうしたロッカーズをカフェレーサーと呼んでいたのだが、時代が下るにつれ彼らの改造スタイルを指すようになる。
ベースとなったのは当時のBSAやノートン、トライアンフなどのネイキッドが多かったが、中には当時1ドル=360円の超円安の恩恵で性能の割に格安だったホンダ、ヤマハ、更にSSDといった日本のクラブマンレーサー仕様も少数ながら出回っていた。後には日本のメーカーが世界のレースで向かうところ敵なしとなっていくと、寧ろこちらが主流となるのだが、開発陣には海外のバイク文化に対する理解が深かった者も多かったようで、そうしたモデルを意図的に発表し、ロッカーズが狂喜乱舞したのは言うまでもない。
案の定というか、ホテルの外にはそうしたカフェレーサーに混じって、何とホンダ及びSSDのクラブマンレーサーを改造した仕様も並んでいた。
「へえ~、まさか私たちのマシンをここで見るとは思わなかったなあ」
その様子を少し離れたところで見ていた久恵夫人は、沈黙しながらも内心感動していた。認めてくれる人は認めているのだと。
「それにしても、何でホンダのマシンまでこんな所に!?それどころかよく見るとメグロもいるじゃん」
翔馬の疑問をよそに、パブの扉が開き、そこには見知った顔が。
「も、もしかして、まさか……!?」




