衝撃の広島観光 前編
年末を目前にし、宍戸重工は師走に更に拍車が掛かることとなった。
そして、一年半ぶりの故国で、のんびり過ごす予定であったSSDのメンバーも、当然その巻き添え。一部からは、仁八を恨む声もあったのだが、久恵夫人が嗜めてその場は丸く収めた。
著名人としての有名税として諦めろと。
それでも翔馬以外は一旦故郷に戻り、束の間の団欒を楽しんだのだが、WMGPでの彼女たちの活躍は既に全国に知れ渡っており、のんびりできたのは一日程度だった。
何しろ地元メディアからの取材はあるわ、周囲からも歓迎されるわ。無理もない話で、彼女たちは最早地元では世界的な英雄なのである。
無論、この背景にはモーター月報の暗躍があったのは言うまでもない。何しろモーター月報は上流層の出身者が多いだけに、メディアを始め各界にも顔が利く。
その結果、SSDの活躍はニュース映画にもなっており、映画館でも上映されていた他、テレビに番組との間のつなぎとして5分程度の短編ニュースでも流されていたため、知る人は多かった。
当時、視聴の主流が映画からテレビへと移行する過渡期にあったとはいえ、映画人口もまだまだ多かった時代である。ニュース映画で知ったという人も当然少なくない。
そして、彼女たちの活躍を見て最も影響を受けていたのが、他ならぬ同世代及びそれより後の世代の女の子であった。
無論、このことを好ましく思わない親世代も多かった訳だが、彼らがいくら怪しからんと言ったところでその流れを押さえ込める筈もなく、女版カミナリ族ならぬカシマシ族が増えて、休日になると山中に爆音が轟き、更にオシャレの一環として大通りなどをスーパーカブをカスタムして乗り回す者も現れた。
これは、言うなればモッズスタイルの日本版と言えなくもない。そんな彼女たちは、モッズとレディーを組み合わせた造語、レディッズと呼ばれることに。
因みにスーパーカブが多く用いられたのは、かのモッズと理由は同じで、エンジン剥き出しのバイクでは折角キメたファッションがオイルや排ガスで汚れるためである。その意味でモッズの拘り度は、渋谷スタイルの比ではない。
彼らがベスパなどのスクーターを愛用したのもこのためだ。
また、バタバタも多かったのだが、それは後輪を補助駆動するエンジンが後ろにあるお陰でファッションが汚れないためであった。
この頃のバタバタは、後輪近くにエンジンをマウントしていたのである。そのため好都合だったのだ。レディッズの間では、特に赤や黄色が好まれた。加えて、所謂ママチャリスタイルだったのも、レディッズ増加を後押しした言える。
仁八にしてみれば、取り敢えず安全策は施していたが、あくまで戦後の一時期を凌ぐための窮余の策であって、元々そのような前提で設計されていない自転車をこのような用途で使うことに反対であり、早期廃止を願ったのだが、皮肉にも日本の国情にマッチし過ぎていて、その上使い勝手も良好だった所為で、高度成長期に入っても嘗てよりは減ったものの一定の定着をみており、結果、普及させてしまった責任として、本格的な補助動力付自転車、即ちモペットの設計に取り掛からざるをえなくなることに。
無論、デザインは彼女たちがユーザーとなることを最初から想定していたものの、後に一時受注停止に陥る程の大ヒットとなるのであった。
つまり、女性の間で二輪に関して二極化が生じていた訳だが、根っこを辿ればSSDの活躍が原点だったのである。
また、こうした社会現象を背景に創刊されることになるのが、あの『Ride Life』なのであった。
SSDの活躍に憧れ、山中へと繰り出し、更にレーサーを志すカシマシ族、オシャレに乗りこなし街中を走り回るモッズならぬレディッズ。
それは、高度成長期にあって、日本が文字通り戦争の焼野原と困窮を脱した象徴的光景として、現代に語り継がれていくことになる。
前置きが随分長くなってしまったが、翔馬も年末年始は一年半振りの実家で家族水入らずで過ごしたものの、地元メディアからの取材は無論、町内会からも引っ張りだこ、愛友商店街にも挨拶に行った際には新たな手拭をいただき、これはもう、ヘタなマネは出来ないなと高まるプレッシャーに泣きそうになった。
それ以上に大変だったのが、仁八の音頭でやってきたWMGP関係者への対応である。
当初、国賓級の客ということもあり、広島に点在するホテルや旅館などに宿泊してもらおうと考えていたのだが、何処で情報を仕入れたのか、流川にある旅館に滞在したいと多くの関係者が申し出た。
これには当然仁八も戸惑う。そう、いくら気骨ある日本人であった仁八と言えども、さすがに見せてはならない物くらいあって当たり前だ。
今もそれ程変わってはいないが、流川は治安は比較的よかったものの、雑然とした場所で有名で、加えて当時は迷路であった。
そして何より、隣の薬研堀周辺には赤線もまだ残っていたのである。前年赤線防止法が施行されたばかりであったが、法的にはほぼ死文化しており、単に地下へ潜っただけであった。
赤線が何なのかについては、各自で調べていただきたい。
尤も、親しみやすい方ばかりであったのが、まあ救いと言えば救いだったのだが。
実は、さしもの仁八も予想していないことがあった。
二輪レーサー及びその関係者は、意外とセレブリティな場所より庶民的な場所を好む者が多いのだ。それは、FIMの関係者とて例外ではない。
元々二輪自体が世界的に反抗の象徴と見做され、その上社会から見ればはみ出し者的存在も少なくない。それ故、セレブに対して潜在的に敵対心を抱いていた者も多かったのだ。
そもそも翔馬も雪代もカミナリ族出身である。生粋のお嬢様である英梨花にしても、日本の社交界とは距離を置いていた。
それにしても、一体何処から情報を仕入れていたのか。実は、去年の大惨事で横川の永崎病院に長期入院していたマリアンヌである。
リハビリとして、積極的に歩き回ることを奨励されていたため、最初はスポーツドクターの案内で回っていた場所に、いつの間にか一人で行くようになると、その足で文字通り探検に出た。
彼女はフランス語のみならず英語も堪能だったし、実は中心街は嘗て進駐軍が大勢闊歩していた影響から、初歩的ながら英語が通じる人も多かった。なので意外にも不自由はなかった。
このため、スラム街並に雑然としていた場所も、さすがに最初は恐かったが、意外と一人で歩いていても安心できる場所であることを知ると、足繁く通った。特に、流川はお気に入りの場所となる。
因みに、はだしのゲンでも、後半になるとそれなりに商売に成功していたのもあって、レストランなどに出入りする光景も散見されるが、何処であると作者は明記はしていないものの、流川周辺とみて間違いないだろう。そして、その頃からの老舗も今尚多い。
余談だが、この頃は映画『仁義なき戦い』で知られるように、広島は別名広島ヤクザ戦争と呼ばれていた最中で抗争事件が相次いでいたが、映画で見られる程治安は悪くなかったことを御断りしておく。
映画とは特定の部分のみを凝縮しているため、そのように見えてしまいがちなことには注意が必要である。その上、映画の影響は今も引きずっており、国内にさえ広島に対して治安が悪いというイメージを抱く方がいるのだ。
まさにメディアの功罪の典型と言えよう。
尤も、分かってはいても、映画や番組のイメージにはどうしても引きずられがちではあるのだが、広島は戦後の一時期を除き、そこまで治安の悪い都市ではなかった。これだけは、断固として断言させていただこう。
そして、マリアンヌが抱いた感想はというと、
「ナニこれ。確かに歩いてる人はみすぼらしいけど、フランスより全然自由だし、戦争で焼野原になったのって、信じられないわ」
であった。
しかし、その後、気になっていた禁断の場所へと足を運んだ。そう、平和資料館である。尚、医師からは、あそこには行ってはいけないと忠告されていた。
平和公園に足を踏み入れると、空気は一変した。決して重苦しい空気が流れていた訳ではない。だが、ここだけは静かに過ごさねばならないと感じた。
実際、どんなに騒がしい人間でも、ここで騒ぐことは絶対ないと断言してもいい。
そして、平和資料館で見た物は、想像を絶する衝撃の光景であった。
内部は当時の重苦しい空気が流れており、見る物全てが衝撃の連続だった。それでも目を逸らすことができない。
ましてやマリアンヌも戦争経験者であり、空襲も体験している。実は幼少期、親戚を頼ってブレストにいたのだ。故郷クレルモンフェランは当時治安が悪化していたからである。
ドイツの支配下にあった当時、ブレストはドイツ海軍の潜水艦隊の一大拠点だったことから連合軍から執拗な空襲に曝され、恐らくはフランスで最も大きな被害を蒙った。
その時の地獄の光景が、原爆の惨状と重なる。
展示資料も衝撃的であったが、所狭しと並ぶ写真も凄まじかった。被爆者もだが、そこにあったのは、間違いなく焼野原というより、灰となった広島の風景であった。
それからまだ15年も経っていないとは、あの光景を見ていると信じられなかった。何しろ入院中に見た光景でさえそうだった。
まるで戦争などなかったかのように皆闊達だった。確かにクルマを見掛ける機会は少なく、貧乏くさくはあったけど、そこに展開していたのは、故国に劣らぬ活き活きした日常であった。
平和資料館を出ると、そこに展開していたのは、間違いなく新たな風景へと生まれ変わった広島の中心部である。
まるでタイムスリップしたかのような錯覚を覚え、一瞬認識障害になったかと思う程だった。しかし14年前、広島は確かに灰となったのだ。それは紛れもない事実である。
だが、マリアンヌをして、日本に来たなら絶対一見の価値ある場所であるという。
そして、あの翔馬は想像を絶する地獄を生き延びてきたのだと知った。しかし、翔馬がそれを口にしたことは、記憶をどう探しても見つからない。
それだけじゃない、長崎にも原爆が落ちていた筈で、紗代も地獄を生き延びているのである。だが、彼女もそれについて語った記憶がない。
そればかりか、日本人ライダーから、戦争に纏わる話は聞いたことがないことに気付いた。
というのも、この頃走っていたレーサーは、皆戦争経験者であり、話し込んでいると端々にそういうのが入り込むことは避けられなかったからである。
だが、彼女たちが戦争の記憶について語らないのは何故なのかも気になる。ましてや、日本はどの国よりも痛めつけられていることを、父から聞いて知っていたからだ。
尤も、当人とてそう聞いてはいたものの、さすがに実感はなかった。ましてや日本の空襲に関する記録など、当時の欧州には殆どない。
平和資料館で見た物は、父の証言を裏付けることになった。
その後、去年のシンガポールで打ち上げに現れた時、日本の様子はコゼットに伝わり、そこから口コミで伝わると、誰もが行ってみたいと渇望するように。
ましてやマリアンヌもフランスでは生粋のお嬢様の一人。それだけに説得力が違う。欧州は基本的に階級社会であり、階級と社会的信用度は比例関係にある。
そして、広島観光で一行が見たものは、別の意味で衝撃的な光景であった……




