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我々は挑戦者 その9

 ライディングギア追求の手は、インナーにも及んだ。言わばライディング用の下着なのだが、これがかなり重要な役目を果たす。


 何故なら、ライディングギアの装着感を向上させ、且つ脱ぎ着刷る時も楽になるのと、更に内部で発生する静電気が意外とバカにならないのだ。


 このために開発されたのが、股引とシャツを一体化させたワンピースタイプのインナーである。


 バイクに乗っている人は分かると思うが、冬など寒い日に乗ると、厚着をしていても内部へ容赦なく冷気が入り込んで寒い思いをした方は少なくないだろう。

 そうした対策のため、防寒用のワンピースタイプ、もしくはツーピースタイプのインナーが売られているが、普通に乗っているなら問題は特にないものの、レースとなるとこのインナーは膨大な静電気を発生させる。

 尤も、この静電気によって空気が温められることで内部が暖かく保たれる側面もあるのだが、レースではこの静電気は無視できない。


 このため、材質には麻とクレバネットの混紡を用い、縫製糸はカーボン。そして、手縫いによって縫い目は均等にされている。

 更に、マチ、袖や足などのつなぎ目は特に静電気が多く発生するので、ある対策が施されていた。それは、植物カーボンをあてがうことである。

 また、植物カーボンといっても、樹脂はベークライト、更に使う植物は何と、絹糸を織り込んだ。しかも紬だ。


 そして、麻とクレバネットの混紡なのは静電気対策もだが、もう一つ、保温性と吸湿性、速乾性を併せ持ち、これによって一時的に内部で体温が上がることにより内圧が上昇、それによってツナギのハンプに設けられた厚手の麻の布地を介して熱気が逃げるようになっていた。

 ツナギにパンチングメッシュを打ち込んだ仕様も検討されたが、それでは大量の静電気が内部に発生するとして、内圧を高めることで圧力が高い場所から低い場所へ逃げる性質を利用することで快適性を担保した。

 また、雨のレースではその保温性がライダーの疲労を抑える。


 因みに、クレバネットは日本軍の飛行服にも使われており、絹との混紡であったが、軽くて暖かく着心地も良いという特徴があり、この構造は後のジェット時代のパイロットスーツの原型にもなっている。

 しかし、非常に高価な素材でもあり、日常用途での需要が極端に少なく、戦後、日本軍が解体されると需要が激減。日本国内でクレバネットを生産している工場は、極僅かしか残らなかった。

 工業用途での需要は多いのだが、やはり日常用途には敵わない。

 忘れられた技術にSSDが着目したことで、廃業寸前だった零細工場は、生き延びることが出来た。大手に頼むことも出来たが、SSDの要求水準は非常に高く、それを満たせるのが零細工場しかなかったという事情も重なっている。


 尚、インナーや、ツナギなどの内張りも黒染が最も望ましいのだが、それだと熱を吸収し過ぎてライダーが危険なのと、要求水準は十分満たしていることから、敢えて見送った。


 雨対策には靴下とインナーグローブも用意された。ブーツやグローブなどは雨に対応する時は、ミンクオイルを塗って対処した。

 尚、ツナギは牛乳を塗っている。これが最も雨に対して有効なことが分かったからである。実は、雨では導電性よりも帯電性が求められるのだが、ミンクオイルや牛乳を塗布すると、一時的にせよその効果が得られる。

 これは後で洗い流す必要もなく、放っておけば自然に高価は消滅するので特に問題ない。効力は大体24時間だという。

 嘗てケニー・ロバーツは、中に皿洗い用のビニール手袋を嵌め、爪先にはゴミ袋に使う黒ナイロンを巻いて臨んでいたそうだが、防寒のみならず実は意外にも理に適っている。


 着る時は、一旦全て脱いで着用せねばならないのだが、その際女性特有の問題が。それは、久恵夫人や静馬に依頼した。

 仁八にとって、それは禁断の領域だったから。というよりは聖域である(笑)。

 その対策として意外にも身近な物が有効だった。それは、当時一部の産院で用いられていた母乳対応パッドと、生理用ナプキンである。しかも、材質には改良を加える必要がなく、激しいライディングに耐えられる改良が必要なだけで済んだ。この改良も、メーカーにとっては大したことはなかった。

 更に、墨汁と膠を用いて黒染とした。膠を使うのは定着のためで、黒染の多くに使われている。


 そして、インナーには、これらを提供してくれたメーカーのロゴが密かにプリントされていた。


 ここまで来ると、殆ど宇宙服状態である。余談ながら、ガガーリンが地球を飛び出し、『地球は青かった』の名言が誕生するのは、僅か2年後のことだ。


 こうして出来上がったインナーを含めライディングギア一式で150万円に上った。現在の価値に換算すると、実に1500万円。宍戸重工にとっても、安い投資ではなかったし、世界的にもここまで高価なライディングギアは後にも先もこれだけであろう。

 これがどれだけ高価であるかは、2年後に発表されるスカイライン・スポーツがクーペで185万円、コンバーチブルで195万円であり、ほぼこれに近い額であることからも明らかだろう。

 何しろマイカー時代前夜であり、当時日本に於いて自動車の保有はおよそ100人に1台だった頃である。初任給が高卒で2万円前後だった時代だ。

 因みに、コンバーチブルは後に雪代の愛車となった。


 その上、ツナギ一式だけで一人につき消耗も考え10着は必要であった。つまり、SSDではライダー一人につき、今の額で2億円近い投資をしていたのである。

 なので、結果を出してもらわないと割に合わないというのが経理の本音であった。つまり、経理が頭を痛める程の投資だったのである。

 尤も、経理が仮に必要経費だと認識していたとしても、それでもケチりたくなるのは当然であり、また、経理屋はそうでなければならない。

 何故なら放漫財政もまた経営を危うくするのが道理であり、経理と揉めるのは、どんな組織でも宿命であることを覚悟せねばならない。

 

 話を戻して、日本の着物の世界では、帯だけで当時数百万円とかザラなだけに、日本の感覚からすれば、有り得ない話ではない。

 だが、未来を見据えれば、先行投資と考え後のためのデータを得るためには必要不可欠であり、更に仁八はこの先経済成長によって投資額は更に高騰していくと予測しており、それを考えれば安くはないが、大した額ではなかった。


 更に、改革はそれだけではなかった。この一年、GPを戦ってきたことで見えて来た問題点や不備を、ここで一挙に改善に踏み切った。

 といっても、殆どイメージアップであったが、西洋社会に於いてこれが如何に重要であるかを仁八は熟知していた。

 何しろドレスコードには非常にうるさい場所である。機能性だけでは許されないのが、西洋社会なのだ。それに、WMGPは当時モータースポーツの頂点としとて、一種の社交界でもあり、スタッフと言えどもそれなりの出で立ちや立居振舞が求められる。


 このために、チーム内でイメージカラーのトレーナーやジャケットなどの作業着が新たに製作され、材質は麻と綿の混紡、縫製糸はカーボンを使い、撥水加工もと思ったが、これは火災リスクがあるとして却下となった。

 というのも、撥水加工とは樹脂を吹き付けることであり、これが万一の火災で火が付く恐れ、更に帯電性が高くなるため、それによる静電気が火災を引き起こす可能性が懸念されたのである。

 その一方、夏用には麻100%の仕様も用意されていた。麻は染色が弱いのが欠点だが、天然染料を高圧含侵すれば鮮やかな発色となるので問題なかった。


 当時、数少ない高圧含侵技術を持っていた宍戸重工の為せる業でもあるのだが、仕立ては、ある作業着店に依頼していた。

 それは、オキタセンイ。戦後間もなく設立され、実は、ここも高圧含侵技術を持っており、後に様々な分野でこの技術を応用することを思いつく切っ掛けともなった企業でもある。


 他にも、作業時の小物についてもイメージカラーで統一し、そして今回、ある機械が新開発された。それは、燃料濾過機である。

 尤も、内部は単純で、単に濾過材を入れているだけなのだが、その濾過材とは何と、コーヒー粉末。中でもリベリカ種が最高なのだが、欧米の需要が優先で日本に出回ることは殆どないため、次善で当時日本で主流だったロブスタ種を使うことにしたのだが、実はこれ、廃物利用だった。寧ろその方が好都合でもあったのだが。

 出口にはペーパードリップ用のフィルターを貼り付けており、これは何回か使用したら取り換えるようになっていた。


 抽出した後のコーヒーの粉をそのまま放り込み (乾燥させた後でも良い)、そこへ燃料を流し込むと、不純物や有害物質がほぼ取り除かれ、且つ鉛による保護も不要になる。

 実は、コーヒーの粉を通る過程でガソリンが化学反応を起こし、4エチル鉛を添加したのとほぼ同じ保護作用を持つのだ。特に、抽出後の水分を含んだ粉は、更に効果的であった。

 また、これによって何とオクタン価が上がる。オクタン価は100の場合、100/108くらいになる。尤も、SSDでは100オクタンの、所謂ハイオクより、敢えて無鉛90オクタン仕様を所望した。

 供給元である出光も、意図を察したようでこれをあっさり了承してくれた。


 実は、エンジンにとって最も望ましいのは、90オクタン前後なのである。というのも、100オクタンになると確かに爆発力は上がり、対ノッキング性能なども向上するが、エンジンへの負荷は大きく、更に当時の有鉛ハイオクガソリンだと、バルブシートに鉛が蓄積するため、レース用途ではこれの剥離が重労働なのだ。

 SSDには女性スタッフも多いため、この剥離作業から解放したかった。また、剥離作業自体が有害且つ危険を伴う。それはどの関係者も同意見であった。

 そう、意外かもしれないが、ガソリン無鉛化を最も望んでいたのがモータースポーツなのである。


 また、100オクタンともなると、エンジンへの汚れの蓄積がハンパない。オクタン価が上がると、石油特有の清浄作用が低下してしまう。これの解決法としては、ベンゼンなどのアルコール系燃料を添加する方法があるのだが、爆発性も高まるリスクがあるため、SSDとしては使いたくなかった。

 インディーのように100%アルコールとする方法もあるが (当時はまだガソリンで、そうなるのは1969年から)、アルコールの管理は思った以上に大変で、実はガソリンの方が管理は容易だ。


 確かに揮発性が高いという問題はあるが、アルコールは常温でも蒸発し、且つ気密性の高い容器からでも容易に浸透蒸発してしまうのである。火災の危険性は低いものの、何処から蒸発しているか分からない物は使いたくなかった。

 これは、お酒を飲んでいる方なら誰でも思い当たるだろう。また、料理にお酒を使うことの多い方も思い当たるフシは多い筈である。

 そしてもう一つ、アルコールは燃えていても炎の色が薄いために見えにくく、火災が発生していることに気付くのが遅れるリスクが何より恐ろしい。


 なので、SSDでの解決法は、総合的な観点から、敢えて90オクタンを採用し(逆にこれ以下でもエンジンにはよろしくない)、長年の研究で得た成果をここで試そうと考えた。

 元は濾過ばかりを研究していた社員の報告書なのだが、当初は仁八もまさかという思いだった。しかし、事実であり、これはイケると考えたものの、それでも慎重にデータを取って検証を続け、漸くGOサインを出したのである。


 それにしても、まさかコーヒーの粉を通すだけで、無鉛でも有鉛ガソリンと同じような作用が得られるというのは予想外であり、望外の朗報でもあった。そして、実を言うと燃焼力自体は90オクタンでも100オクタンと然程変わらない。変わるとすれば対ノッキング性能であり、それも得られることが分かった。


 尚、この研究者は他にも麦茶のダシガラも試しており、その場合更なる高性能燃料と化すことが分かっていた。性能指標で言うと、125/155だという。

 だが、当時麦茶は日本にしかないし、これをいちいち空輸する訳にもいかず、何より世界中で入手できるものでないと、レギュレーションで規制されれば目も当てられない、更にここまで来ると、エンジンがさすがにもたないということでお蔵入りとなった。

 尤も、この燃料は別の用途に活用されることに。


 更に、石炭の粉を通すと最強なのだが、ここまで来ると最早爆薬に等しく、ある用途へと見出されるまで封印となった。尚、こちらは原油でも可能だし、アスファルトのような、所謂カスでも可能であった。


 尚、125/155とは、正式にはパフォーマンスナンバーと言い、実のところ、ガソリンのオクタン価は100が上限なのである。この場合、前者の125/155とは、ノーマル状態で出力がスペックより25%上昇、ブースト状態で55%上昇することを意味する。

 なので、コーヒーの粉で濾過するだけでもスーパーチャージャーを採用しているSSDの場合、8%出力が上昇することを意味していた。グループX仕様のニューマシンで250馬力だから、何と20馬力もの上昇となる。

 航空燃料ではレシプロエンジン用に、今でも115/145、更に、100/108が生産されている。前者はハイオクガソリンに4エチル鉛を添加したものだ。


 航空機は、自動車とは事情が異なるので生産が続けられている。


 そして、マシンと異なり、ライディングギアとスタッフウェアは次の開催地、アルスターへと即座に空輸された。

 この濾過装置はアッセンに送る予定で、マシンは、まだテストと熟成、細部の改修が残っていた。何処までも慎重なSSDである。何故なら、前の仕様でさえ、まだ問題点が完全に洗い出されていないと判断されていたのだ。

 

 だが、この改良型は、イタリアGPには必ず送るつもりでいた。

 

 

 続く……

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― 新着の感想 ―
実際には革ツナギを改造する程のお金が無かっただけではあります。 今で云う立体裁断みたいにしたり、薄いスポンジクッションを帯状に追加して通気を良くしてみたり。 転倒時に皮膚を持っていかれるのを恐れて布地…
インナー、結構重要ですよね。 私は最後までリーンイン変則だったのでそれ程でもなかったのですが、動きの大きな乗り方をしていた友人は、何度も仕立屋さんに持ち込んで変な顔されながら改造を繰り返していました。
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