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スカウト3 調布英梨花 前編

 昭和29年(1954年)東京。

 

 さすがは首都と言うべきか復興著しく、他の地方と異なり高層ビルが次々と建ち並ぶ姿に圧倒される。尤も、当時は関東大震災に伴う高さ規制があった時代で、21世紀と異なり地上からでもかなりの範囲が見渡せた。

 首都高も超高層ビル群もまだない、言わば高度成長期前夜。東京タワーさえなく、大都会でありながら何処か牧歌的でもあった。

 

 そんな東京に、後に世界を制することになる少女がいた。


「ああ~、この爆音とガソリンの匂いこそ、私にとってのオーケストラでありシャネルの五番なのよ~。早くレースウィークにならないかしら」

 緑に囲まれた東京の某所にある緑青の銅葺き屋根と赤レンガ張りの豪邸。日本人が思い浮かべる典型的な豪邸の一画で独白しながらバイクを弄っている少女がいた。

 彼女の名は、調布英梨花 (ちょうふ えりか)。この時14歳。緩やかなウェーブが掛かった栗色の髪に、同年代と比べ大人びた顔立ちでアンニュイな雰囲気が漂う少女であった。それは、まだ貧しかった日本にあって例外的に幼少から贅沢を全身に染み込ませてきたことを物語っている。

 また、学校には通っておらず家庭教師をつけて勉学に励む深窓の令嬢でもあった。戦後は貴賤問わず学校に通うのがほぼ当たり前なので、恐らく深窓の令嬢の最後の世代だろう。 

 戦前までは上流層は必ずしも学校に通っていた訳ではなかった。女子は取り分けその傾向が強く、彼女はその流れを受け継ぐ最後の世代ということになる。


 調布家は元華族であり、元貴族院議員から外交官、大学教授など、綺羅星の如くその名を連ねる華麗なる一族であり、戦前に比べ権勢は低下したものの、戦後の華族制度廃止後もその後の情勢を機敏に掴み隠然と日本に影響力を持ち続けていた。

 

 戦前は家ももっと大きかったのだが、それでも世間に言わせれば立派な豪邸には違いない。

 ガレージに鎮座している一際威厳を放つクラシック・ロールスロイスの正体は、戦前のフラッグシップであるファントムⅢであり、日本にはこの一台のみと言われている他、数台のロールスロイスが並ぶ辺りにどれ程の名家であるかが窺い知れよう。

 華族と言えば様々な嗜み事に熱中するのが当然であるように、英梨花もその流れを受け選んだのはバイクであった。


 バイクは叔父から受け継いだのだが、元々叔父と仲が良く、バイクを通じて意気投合し、長じると英梨花もバイクに乗り始め、やがてレースにも出場するようになった。

 調布家自体開明的な一族であることを誇りにしていることから、両親も娘がバイクに乗ることを認めてくれたなど、恵まれた環境が天性の才能を後押ししたのは間違いない。


 また、バイクのみならず深窓の令嬢らしくピアノ、乗馬、華道及び茶道をこよなく愛し、そして哲学書と詩集を手放さず持ち歩く教養人でもあり、英語、フランス語も堪能(後にイタリア語も習得)。更に中学生相当の年齢にして既に大学の工学書も熱読していた。

 工学書を読んでいたのは機械工学の知識がレースをする上で必要だったからだが、お嬢様らしからぬ点として理屈に耽溺することなく実践で時に油に塗れることも厭わないことだろうか。


 因みに工学書は大学教授をしている父からバイクを弄るのに一通り必要な書を厳選して譲ってもらった。

 自らエンジンやミッションなどを弄り、ライディングも含め思考しながら身体を張ってバイクの何たるかを独学で覚え込んでいった。無論叔父や両親などの理解なくしてこんなことは出来なかったが。

 

 この実践主義と機械工学に詳しいこと、更に外国語に堪能で教養人であることがメンバーきっての理論派として後にSSDへと加入した際に大いに役立つこととなる。

 確かに恵まれたバックボーンがあったのは事実とはいえ、そのバックボーンを最大限に活かして相応以上の努力も惜しまなかった。だからこそ典型的お嬢様として多少我儘な面はあったにせよ言っていること自体筋は通しており、それ故SSD内部でも大目に見られていたし、またそれが許されるような人徳もあった。

 一方でさり気ない気遣いに長けている人格者でもあったという証言も少なくない。


 そんな英梨花だが、戦前生まれであることからも分かるように、戦時中は壮絶な経験もしている。

 それは、東京大空襲であった。因みに日本での正式な本来の名称は東京大焼殺である。尚、アメリカではミーティングハウス2号作戦と呼んでいる。


 昭和20年(1945年)3月10日。東京は首都だったこともあり終戦の玉音放送直前まで計106回にも及ぶ執拗な空襲を受けたが、陸軍記念日のこの日は取り分け激しく、その悲惨さでも世界史に残る。

 325機に及ぶB-29の空襲により犠牲者は分かっているだけで8万人以上、実際には10万人以上は確実であり、100万人以上が被災、多数の戦災孤児を生んだ。犠牲者には著名人も少なくなく、無論単独の空襲としては原爆投下を除き、今尚世界最大規模の被害である。


 空襲に加え、この日の冬型の気圧配置という不運な悪条件も重なり、地上は地獄という表現すら生ぬるい、ここには書けないような想像を絶する凄惨な光景が各所で展開され、実はかなり充実していた東京の消防システムも想定をはるかに超えていたため、あっという間に機能不全に陥ったことも被害を拡大させた。この空襲で125人の消防士が殉職している。


 防空壕に逃げても火災旋風は扉の隙間から容赦なく噴き込み、川に飛び込んでも火災が追いかけてきたという生き残りの証言もある。実は防空壕程危険な場所もなかった。何しろ内部は逃げ場がない。

 当時日本の住宅街は木造建築が主流だったことが火災を拡大させたのは無論、燃えにくく比較的安全とされていた鉄筋コンクリートの建物に逃げ込んでも火災旋風によって酸欠に陥り窒息した犠牲者も多かった。

 鉄筋コンクリート造の学校に逃げて犠牲となった者も少なくなかったことから尾鰭がついてトイレに逃げ込むも閉じ込められた子供が犠牲となったという都市伝説が生まれ、トイレの花子さんのルーツの一つとも言われている。


 更に季節の上では春とはいえまだ冬が終わったばかりの3月。気温の低さ故、川に飛び込んで体温を奪われ凍死、或いは溺死した犠牲者も多く、特に隅田川や荒川放水路はそうした犠牲者で溢れかえったという。

 まさに無間地獄すらここまでじゃないだろ。という他なかった。

 あまり語ることはないが、あの時の光景は英梨花の脳裏に強烈に焼き付いている。そして、幼少の砌故に家族と一緒に手を繋いで泣きじゃくって逃げ惑っていたことや、同年代の子供が泣き叫ぶ声も覚えていた。

 余談だが、東京大空襲に限らず各地で空襲を経験した生き残りで当時3歳くらいであってもその時の光景などをはっきり思い出す人は少なくないという。

 

 この大空襲を生き延びた要素は文字通り運に他ならない。当時5歳だった英梨花もその幸運な一人だったと言える。

 実は、英梨花と一家は火から逃れるため水を求め逃げ惑った結果多くの犠牲者を出した沿岸部ではなく別荘に避難するため日光街道に沿って内陸部に逃げたことで難を逃れた。実際、日光街道の他、東武伊勢崎線沿いに春日部や古河などの内陸側に逃げた人には生存者が多かった。

 別荘に逃れることを決めたのは、さすがに避暑地である鄙びた田舎に空襲はないだろうという判断と、いざという時のため缶詰などの非常食の備蓄を始め、生活拠点として一定の機能を有していたからである。

 また、父は空襲について分析していて、まず川沿いに焼夷弾を降らせて退路を塞ぎ、逃げ惑う人が集まったところへ更に爆弾や焼夷弾が投下される空襲パターンを掴んでいたことから沿岸部より内陸に逃げた方が助かる可能性が高いと判断していたのも幸いした。

 

 しかし、何とか逃げ延びたものの暫くして戻ってみたら豪邸は跡形もなく焼失、往時の権勢も含め何もかも失った。

 加えて、英梨花はあの日の恐怖の光景を境に、自分の中で恐い物が無くなってしまったと後に語っている。恐怖に対して不感症になってしまったのだろう。それがレースというスリルを求めることに繋がっているのかもしれないと自己分析もしていた。

 自己分析出来るほど聡明な当人なので、危険は十分察知できたし、表向きそれで苦しむことは特になかったが、それでも内心冷静なのか無神経なのか悩むことはあったようである。

 

 結局一時別荘で疎開生活をしていたが終戦から一年後、ウチに来ないかと誘われ親戚の家に身を寄せることとなり、言わば居候の身なのだが、困った時はお互い様と周囲は色々助けてくれた。現在は総合病院の院長兼サナトリウムの所長をしている叔父一家と両親の他、二人の兄に妹一人で暮らしている。叔父夫婦は子供に恵まれなかったのもあり、英梨花たち兄妹を非常に可愛がった。

 そして、ギリギリで財閥指定や公職追放を免れたのも幸いして父は大学教授の地位を保ったのもあり、戦後も華麗なる一族であることに変わりはなかった。

 居候生活も気が付けば9年が過ぎ、今や家族も同然となっていた。


 時系列は再び昭和29年に戻る。

 

 豪邸の一画にあった半地下のガレージでの整備も最終段階に入ろうとしていた。

「あとは、コレを装着すれば完成ね」

 それは、当時日本ではまだ珍しかった所謂カウルであり、これを取り付けることによって銀色に輝く鉄の優駿へと変身するのである。その姿はまさにシルバービューティーといったところか。

「う~ん、やはりイタリアの駿馬は一味も二味も違うなあ」

 そう言って遠目に見てその美しさに見惚れる英梨花。それも無理はない。実は、1951年にマン島グループSを制したロメックスのマシンをそのまま取り寄せたものなのである。

 全身を流線型のカウルで被った仕様であり、ストリームライナーの別名で知られていた。この時既に3年落ちであったが、国内のレースを戦うには十分すぎた。


 このロメックスで来週レースを戦うのだ。傍らにはイタリアらしく当時としてはスタイリッシュなAGVのフルフェイスヘルメットも用意していた他、コートハンガーにはカジタニの特注のツナギがぶら下がっており、ロメックスにマーキングされていた青・黒・赤のラインとコーディネートして青・黒・赤のトリコロールカラーでキメていた。当時黒のライダースーツが主流だった中、非常に目立ったのは言うまでもない。

 因みにカジタニは日本のブランドなのだが、輸入国産に対する拘りはなかった。あくまでその時の最良の製品を選んでいたのである。その意味では英梨花はモノを見る目は確かだった。


 と、整備を終えた完璧な姿に見惚れているとお手伝いさんが夕食の準備が出来たことを告げに来た。で、案の定というか英梨花の顔を見て呆れ顔になる。

 お手伝いさんの表情から何か付いてるなと思い、傍らの姿見に自分の顔を映すと顔が真っ黒になっていた。整備に夢中になっている時にはよくあることだ。

「あらら、いつの間に油が付いちゃったのよ」

 と言いつつ破顔しお手伝いさんも吊られて笑う。

 

 ここで後に日本を代表するライディングギアブランドとなっていくカジタニについて説明しておこう。

 カジタニは静岡は浜松に拠点を置く、戦前から乗馬用具を始め様々な革製品を製作していた老舗のクラフト集団で、軍も重要な顧客であり、それ故か戦時中にあっても職人は若手も含め誰一人招集されなかったという。


 バイク用革製品も戦前から手掛けており、海外の情報収集も怠らず戦後間もなく洋書のレース中の写真などを参考に試しにツナギを作ってみたところ、これが思いの外好評を博し、そして調布家は古参の上得意様且つパトロンだったのもあり、英梨花のワガママで当時黒一色が主流だった中にあってトリコロールカラーのツナギを特注で製作してもらっていた。


 英梨花の提案で戦前から用いていた富士山を意匠化したロゴマークと英文字のブランド名が入れられたのだが、後に他のライダーも入れるようになって定着していった。

 また、当時編み上げ式やボタン留めが主流だった中にあってカジタニでは早くから簡単且つ確実なファスナーを採用し、更に今回英梨花のグローブやブーツには面ファスナーことマジックテープを試験導入していた。これによって任意の位置で固定できるので英梨花には好評だったのは言うまでもない。


 カジタニは新素材及び新技術導入にも積極的で、その上主流の国産牛革は非常に柔らかく且つ丈夫であり、仕立ても確かで、当時はコケればツナギは穴が開くのが普通だった中(それ故ライダーは掠り傷を負うことが珍しくなかった。このためツナギに継接ぎは当たり前)、それがなく、更にブーツも爪先は擦れる内にやはり穴が開いて指が見えたりするのも当たり前だったのだが(このためテープ等で補修しているのが確認できたりする)、グッドイヤーウエルト製法を採用していたカジタニのブーツは穴が開くこともなく安心して使えた。


 こうしたカジタニの当時の常識を超えた着心地と丈夫さ故、SSDの知名度上昇と共に海外のレーサーの間でも評判になっていく。そして、イタリアのダイネーゼと共にライディングギアで世界の二大ブランドへと成長していくことになるのだ。

 戦後に入り成り行きで経営者が交代、妻が会長、息子が社長となり、レーサーへの採寸はカジタニ夫人が自ら行った。


 そして迎えたレース当日。

 

 関東ライダーズクラブ主催で今回のレースの舞台は茨城県筑波郡にある谷田部自動車試験場を利用してパイロンなどで仕切ったコンクリート舗装のコースである。

 前身は陸軍自動車試験場で、ここで軍用車両に関する様々な評価試験が行われており、数少ない舗装路に加え、ダートコースもある他、近くには筑波飛行場の滑走路も並走しており、現在は米軍と自衛隊が共同で使用しているが、自動車試験場の方は通産省に管理権が移行しており、自動車産業の積極育成策もあってレース開催にも協力的であった。因みに直接管轄しているのは通産省の傘下組織の一つである日本自動車研究所である。


 エントリーした面々がレース場に続々と集まって来る。関東ライダーズクラブは全国でも屈指のレベルの高さで知られており、英梨花の他に海外製の高性能マシンが多数見られた。

「相変わらず素晴らしい光景ね」

 この日、関東ライダーズクラブには打倒英梨花を合言葉に海外製の高性能マシンやハイチューンを施したマシンが勢揃いしていた。そう、英梨花は関東ではその名を知られたトップライダーの一人であり、確かに当時最強クラスのロメックスに乗っていたとはいえ、しばしばチェッカーを受けていた辺り、やはり並の腕前ではないことは確かで、女子ライダーの後塵を拝し続けるのは面目丸潰れだと暗黙の裡に打倒英梨花と相成った訳である。

 エントリーしているレーサーには米軍の所謂進駐組もいた。

 

 しかし、英梨花は全く動じていなかった。

「このシルキー6の敵じゃないわ」

 当時最強メーカーだったロメックス、ビュガティは共に6気筒を採用していた。バイクに搭載するにはエンジンが嵩張るのが欠点だが、それを補って余りあるメリットが6気筒にはあった。

 

 エンジンで常に問題となるのが振動であり、その内一次振動、二次振動、そして偶力振動の三つが二輪四輪問わず設計者にとっては悩みの種である。この他に三次振動、四次振動もあるが、直接的な影響は殆どないので問題となるのは先述の三つとなる。

 6気筒はその三つとも理論上完全にキャンセルすることが可能で、バランサーシャフトも必要ない。振動が極限まで抑えられるので、振動に耐えうるようにするため重量増加の原因となる余計な剛性確保も必要ない。


 非常に理想的であり、特に四輪では歴史に名を残す6気筒エンジンは多い。かの名門ロールスロイスが極初期モデルと初期の8気筒車であるレガリミット、戦後に僅か18台しか生産されず、全て国家元首に納車された直列8気筒のファントムⅣを除き、1955年に登場するシルバークラウドが8気筒を採用するまで6気筒に拘り続けたのもそれが理由である。ファントムⅢは12気筒だが、6気筒をダブルで組み合わせたと解釈するなら6気筒シリーズの姉妹車と言えなくもない。


 因みに6気筒を二列組み合わせた12気筒も特性は同じで所謂完全バランスエンジンとなる。12気筒も歴史に残るエンジンは多いが、取り分けフェラーリやランボルギーニが好んだ形式である。

 尚、同じ6気筒でも水平対向は直6を左右に3気筒ずつ寝かせて配置しているような構造なので完全バランスとなるが、左右でクランクピンを共有するV型6気筒は理論上3気筒をダブルで組み合わせた構造なので完全バランスにはならない。


 ロメックス、ビュガティはそのメリットを生かすために様々な技術的難題に挑み克服に成功したと言える。特に水冷を採用することによってシリンダーピッチを狭めコンパクト化、その他軽合金や軽量構造の採用などにより最強のメーカーとして君臨したのだ。

 

 バイクでも水冷エンジンそのものの歴史は意外と古く、内燃機関黎明期から既に存在はしていた。しかし、水冷エンジンは高価であり、更にラジエターなどの冷却装置が必要なため重量が嵩むことやスペースにあまり余裕がないバイクでは戦前は普及しなかった。

 更にラジエターは二輪の場合走行抵抗が増加することも水冷エンジン普及の妨げとなった。

 加えて構造が複雑になる分故障リスクが増えることも嫌われた要因であろう。故障のみで済めばいいが、漏れた冷却水がタイヤに掛かってスピン転倒ともなれば最悪命に関わる可能性もある。


 だが、技術とは進化と克服の歴史でもあり、そうした難題に挑むメーカーが出てくるのもまた必然と言えよう。その代表格がロメックス、ビュガティだった。

 そして、共に空冷が主流の時代に水冷エンジンを採用するメリットがある程に信頼性が確保されコンパクト化と軽量化が進んでいた程高度な技術力を有しているということになり、最強の名を恣にしたのも当然と言えよう。


 ただ、水冷エンジンは本格的に普及が始まる前夜であり、ノウハウの蓄積も浅いことから冷却系トラブルも多く、総合性能でも他のメーカーとそんなに極端に差があった訳ではなかった。

 当然のことながら最強の座に君臨するにはエンジン以外の要素も絡んでいる。

 当時は技術的過渡期にありがちな典型として水冷空冷どちらに将来性があるかで悩んでいた技術者も少なくなかったようである。二輪には四輪とはまた違った難しさがあった。

 

 そんな中にあって、英梨花の見解は違っていた。この先特に高性能マシンは間違いなく水冷が主流になっていくと確信していた。

 ライバルの視線を全方位から否応なく感じる中、英梨花は腕を組んで余裕の構えである。と、気になる一台が英梨花の視界に入った。


「あの赤いマシン、見たことないわね」

「SSDっていう国産車だそうですよ。この間ブラジルのレースに出場して世界のトップメーカー相手に奇跡的に8位入賞を果たしたとか」

 同行していたメカニックの説明に、SSDと聞いて、以前見たニュース映画を思い出す英梨花。

「確か、有力チームから次々脱落車が出る予想外の展開の中、しぶとく完走した結果ビリだけど完走が僅か8台しかなかったお陰で上位入賞になったレースだったわね」

 英梨花は、その赤いマシンであるSSDが今回の最大の脅威となるであろうことを女の勘で察していた。


 一日目及び二日目は各クラスの予選が行われ、一級車では大方の予想通り英梨花が予選1位。そして、2位には何とあのSSDがつけていた。

 二日間に渡って行われる決勝を明日に控えた前夜、夕食会は和気藹々としたもので、コンチネンタルサーカスを彷彿とさせる。英梨花も今回のために同行していたお抱え料理人に腕を振るわせた。といっても形式ばったものではなく手軽さを重視した内容で周囲にも概ね好評だった。

 レースでは苦々しい程に手ごわい存在の英梨花だが、周囲の受けは悪くなく、当人の人徳もあるのか誰もが気さくに接してくれる。


 そんな中、レース仲間の一人に英梨花はさり気なくSSDについて探りを入れた。

「ねえ、あのSSDについて何か分かってることはあるかしら?」

「実はオレもよく分からないんだ。ていうか、今回急遽エントリーを決めた感じで情報も殆どないし。ただ、トラック二台で来てる上にテントの規模からして、もしかしたらワークスかもしれない」

 そう聞いて慄然とする英梨花。

「なっ……も、もしもそうならヤバいじゃない。いくら最強のロメックスとはいえプライベーターとワークスじゃ分が悪すぎるわ」

 そう、英梨花の言う通り、ロメックスとはいえあくまでプライベーターに過ぎない自分と、まだまだ外国車には及ばない国産車とはいえワークスが正体を隠してエントリーしているとなればかなりの脅威である。何しろワークスともなれば機材も人材のレベルも桁が違う。


 レースとはマシンは無論だが、マシンを支える体制の方がそれ以上に勝敗を左右すると言っても過言ではない。そのことを英梨花は理解していたからこそSSDを脅威視していたのである。

 因みに前にも書いたが、メーカーが有力プライベーターを密かに支援する、或いはプライベーターの名を借り正体を隠してワークス体制を組んでしばしば公認以外のレースに出場することが当時はよくあった。

 メーカーがそうするのは二輪はレースの成績が売り上げに直結するのは無論だが、特に日本のメーカーはその多くが新興メーカーであり経験が浅く、草レースと言えども貴重な実戦データ集めの側面もあったのだ。


 そして、SSDを意識した状態で決勝レースを迎えることとなった……


 


 







 

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― 新着の感想 ―
[良い点] たった一戦、80キロ走っただけでこうなるとは……。 当時の国内と海外の技術差は凄かったんですね。 でもそれでも諦めない久恵夫人は立派ですね! そして深窓の令嬢のバイク乗り。 これまた面白い…
[気になる点] この時代のバイクだと体格と体重が無いと曲がらなかったりしないだろうか? 重心を無理矢理上に上げた? バンク角は稼げそうだが操縦特性が異様にピーキーになりそうだが。
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