サンパウロ市政400年記念レース
昭和29年(1954年)1月下旬、一機の旅客機が羽田を飛び立った。その旅客機にはSSDの紗代、エントリーを決めたホンダ、メグロの男女各一人ずつ、計5名のライダーと、メカニックが乗り込んでいた。当然バイクを始め機材も一緒である。
向かう先は、ブラジル・サンパウロ。
因みに当時ブラジルまでの飛行機代は80万円はした。大卒サラリーマンの月給が大体2万円の時代である。
それ以前に、2年前のサンフランシスコ講和条約締結によってやっと一定の主権を回復した日本であったが、海外渡航に関しては未だ準占領下にあり、そう簡単には行えなかった。そもそも現在と異なり、カネ以前の問題として、旅券を発券してもらうのも容易ではなかった時代である。
その上1ドル360円の固定相場のために円が弱く、経済悪化の原因となる外貨持ち出しは厳しく制限されていた。
21世紀現在でも360円となれば超円安もいいところだが(執筆時歴史的円安であり、150~160円台)、当時の360円は、ざっと3600円。
そんな困難を乗り越えての今回の遠征である。
ことの経緯は昭和28年夏に遡る。
通産省車両課に、サンパウロモーターサイクル協会から市政400年記念レースが行われるのだが、日本のメーカーも参加してみてはどうだろうか?という招待状が来たことがそもそもの切っ掛けであった。
この招待状に、意外にも役人の反応は早く、即座に各メーカーへとこの情報が送付された。
そしてSSDは迷うことなくエントリーを決意。それに刺激されたのか、ホンダとメグロ(この時既に川崎重工の二輪ブランドとして吸収されていた)がエントリーを決める。
因みにこの年の7月27日、3月のスターリンの突然の訃報を切っ掛けとしてそれまで38度線で一進一退を繰り返していた朝鮮戦争が休戦状態に入り、同時に3年続いた朝鮮特需も終わりを迎え、結果製造業は仕事が減少、不況状態に入り、中小企業に倒産が相次いだのは無論、生き残った中小企業もその多くは親企業の傘下に入る、所謂下請化や系列化が進行していくことに。
労働争議も激しかった時代でもあり、それが倒産増加を煽った側面もある。
尚、この年には日本でテレビ放送が始まり、街頭テレビに大勢の人だかりが出来て力道山の空手チョップなどに夢中になっていた。今思えば、程なく訪れる高度成長期の予兆だったと言えなくもない、不況の中にも次の時代の到来を予感させる、明るい話題も散見された年でもあった。
この状況は昭和29年まで続くことになるのだが、この時点でいつまで不況が続くのか分からない以上、企業側としては危機感を抱くのは当然であり、より技術力を磨き、世界へと活路を見出さなければ不況で弱っている所へ外国の有力メーカーが相次いで日本に上陸した場合、このままでは勝負にならないのは自明の理で、サンパウロのレースにエントリーを決めたのは、世界のトップメーカーのレベルを肌で知ることと、同時に自分たちの製品が世界でどれだけ通用するかを見定めることにあった。
参加する企業にとっては、まさに生き残りを掛けたレースだったのである。
舞台となるサーキットの名はインテルラゴス。現地語で湖の間という意味であり、元々は著名な別荘地なのだが、サーキットのある場所は湖畔からも遠いため不動産業者が宅地開発には不向きと判断してサーキットを建設したことに始まる。
オープンは1940年5月12日で、当時サーキットとしては老舗という程でもないが、古くないとも言い切れなかった。
開設当初は鄙びた場所であったが、1960年代以降はブラジルの経済成長に伴い周辺の宅地化が進行、21世紀に入ると地下鉄などのインフラ整備が進んだのも手伝い、ブラジル有数のベッドタウンとなっている。
サーキットも現在は全長4.3㎞の様々なコーナーと勾配が特徴のテクニカルレイアウトであるが、当時は全長が8㎞にも及ぶ起伏に富んだロングコースでツイスティーなのが特徴であった。
共通しているのは改修前も改修後もレーサーにとってもマシンにとっても見た目以上にハードなコースであることだろう。
加えて今回開催時期が2月で南半球は最も暑くなる季節なので、北半球の寒さから南半球の暑さへと急激に環境が変わることもネックとなる。
だからこそ環境に慣れる意味で日本チームは早めに出発したのだった。しかし、それは海外の招待チームも同じことで、今回イタリア、フランス、イギリス、東西ドイツの各有力メーカーも早くから現地入りしていた。
サンパウロに到着したのは日本を出発して一週間後。肝心の機材は船便だとセッティングに掛かる時間などを考慮した場合時間通りに間に合うか分からないので非常に高価だと分かってても航空貨物を利用した。
それでも少しでも輸送費を浮かせるため手荷物レベルまでバラせるものはバラして持ち込んだのだが、SSDとメグロはともかく当時まだ中小企業レベルに毛の生えた程度の企業規模だったホンダは費用が足りず、こういう時は同志だしお互い様ということで宍戸重工と川崎重工が足りない分を出した。後にこのことをホンダは終生感謝し忘れなかったという。
現地入りすると、日系社会から大歓迎された。まるでこの歓待だけは超一流チーム並だったと誰もが回想している。
現地の料理は素朴だけど絶品で、シュラスコは特に人気があった。
因みに紗代はブラジル風海鮮シチューのムケッカとブラジル版粽と言えるパモーニャが大いに気に入った。
そして、超一流メーカーばかりが揃う中、日本メーカーはどうしても気後れしがちであった。
「うひゃ~、私たち、こんなのと渡り合う訳?今回は完走して貴重なデータを持ち帰ることが主目標だから、別段プレッシャーはないけど凹むなあ」
サーキットで早速練習走行に出ているヨーロッパのメーカーのバイクを見てそう思わずにはいられない紗代。
紗代がエントリーする750㏄クラスは今回日本チームでは最大排気量であり、同時に男女別対抗で重量級にエントリーする唯一の女子。750㏄はエントリーは少ないものの、以前仁八が密かに輸入して調査したことのあるイタリアのロメックス、フランスのビュガティがエントリーしていた。今年も共にWMGPに於いてグループSとXで鎬を削っている当時の最強チームであった。
テスト走行の様子でさえ、自分たちとは様子が違う。
「恐らく流しだろうけど、やはり速いわね」
紗代は指で四角いファインダーを作り、その中を駆け抜けていく二台を見比べていた。
最強チームらしくジュラルミンで成形された前輪まで蔽うカウルを装着し、共にスポンサーカラーで化粧していて洗練度も段違い。走りも見た目に比例していて、かなりのスピードでコーナーへと突っ込んでいるにも関わらず挙動は安定している。
素人目に見ても優勝候補は既にこの二台に絞られているといっても過言ではない。
やがて、レース当日。
レースは二日に渡って行われ、前半には125㏄と250㏄にホンダとメグロが出場した。結果はそれぞれ男子が13位と11位。女子が14位と9位。出場した選手はスターティングマネー75000円を手にした他、完走によって得られるマネー9万円も手にした。貴重な外貨である。
そして後半。重量級マシンがエントリーするのだが、紗代は750㏄女子で19台中予選は16位。殆ど後方からのスタートとなった。
レースは10周、合計80㎞で争う。
スタートを意味するブラジル国旗が振られ、飛び出していったのは予想通りロメックスとビュガティ。この二台に乗るエース同士の一騎打ちとなった。ロメックスは今年GPデビューが決まっている若干16歳のイタリアが誇るホープ、ビアンカ・ロッシ。ビュガティは前年グループSでチャンピオンとなったイギリス出身のジョリーナ・サーティースがここブラジルで鎬を削る。
紗代は意外にもコーナーでは度々上位を脅かす走りを見せるのだが、如何せんマシンの性能差がありすぎて直線で再び抜き返されてしまう。
それでもコーナーで健闘できたのは、これまでのレースで鍛えられた賜物であろう。また、紗代はまだこの時無自覚であったがマシンの内側に全身を大きく落とし込む所謂ハングオフスタイルで走り、更にマシンをスライドさせることによってコーナリングの時間を短縮していた。だからこそコーナーでのみとはいえ世界と互角に戦えたのである。
それにしてもツイスティーというか、ロングコーナーも多いが故にコーナリングの時間もその分長く、それが紗代を苦しめる。その上国内レースでは経験したことのないハイスピードに未熟な空力が相俟って紗代はしばしば首を振られる。
「どひ~、な、なんなのよこのサーキットは」
コーナーの度強烈なGにも見舞われ、紗代は首がちぎれそうな、マシンからも投げ出されそうな錯覚に陥る。何より、コーナーで健闘しているその実、マシンが踏ん張りが思うように利かずコーナーの度に振られ、サスペンションやフレーム剛性など見直すべき部分が多岐にわたるのは明らかであった。
その上、舗装路は当然最高速度も高くなり、経験したことのないハイスピードとその流れも紗代を苦しめた。
それでも根性で何とか完走せねばと踏ん張る紗代。
途中、有力チームのマシンがトラブルや、或いは転倒で脱落していく中、紗代は10周のレースをどうにか完走。最終的にエントリーした19台の内、何と8位。完走したのは8台しかいないという予想外のサバイバルレースとなってしまい、ビリではあったがそれでも完走してSSDに貴重なデータを齎した。
無事帰還した紗代は酷暑も重なり既にヘロヘロ。だが、マシンはそれ以上にヘロヘロであった。後にメカニックが子細に調べたところ、フレームはハードなコースに耐えかねて一部が破損、フロントサスペンションもテレスコを採用しながら剛性が不足しておりフォークが曲がっていた。
ブレーキはディスクだったにも関わらずサスと同様ヘタっており、エンジンもガスケットが吹き抜けもう一周続いていたらエンジンがダメになっているところだった。
何もかもが世界水準に対して完全に性能不足であり、同時に世界の洗礼は想像以上に強烈であった。
だが、自分たちには一体何が不足しているのかを肌で知った貴重な体験ともなった。
「と、取り敢えず、完走という約束は果たしたわ……」
そう言って紗代はマシンから降りて、そしてバタンキュー。その様子にメカニックは涙した。よくここまでやってくれたと。
全てのレースプログラム終了後、記念パーティーに於いて意外にも主催者から日本からのエントリーに対して特別賞が贈られることになった。実は、全車完走を果たしたのは意外にも日本チームのみだったのである。
紗代もこの受賞を前向きに捉えることにし、何より完走できるだけの実力があることは分かった。それだけでも貴重な収穫だった。
日本のマシンは当初から耐久性は高いことがこのレースで判明し、それは4年後にエントリーするマン島以降も日本製マシンの際立った特徴として有名になっていく。日本製マシンはとにかくしぶとい。それがこの時の偽らざる海外評であった。
日本チームの様子を遠巻きに見つめている者がいた。
「あれが、SSDか……近い内に再会することになりそうね」
ショートカットで大人びた雰囲気が漂う赤髪の女性。今回の招待レースで750㏄クラスにエントリーし、接戦を制して見事勝利したビアンカ・ロッシであった。
直後にWMGPグループXにてロメックスからデビューを果たし、その名に由来する白い稲妻の名を頂くことになる。やがて、グループXに於いて王者としてSSDの前に立ちはだかることに。
レースの翌日、日系社会から記念パーティーに招待され、日本チームは結果如何に関わらず英雄として熱狂的に歓迎された。やはり同胞にとってはおらが地元の三段目ということなのだろう。
しかし、このレースから僅か6年後、SSD以下日本メーカーは二輪レースに於いて向かうところ敵なし、嘗てのヨーロッパ勢に替わり王者として君臨していくことになるのだから世の中は分からないものである。
無論、日本メーカーが向かうところ敵なしとなってから、日系社会で二輪レースが更なる盛り上がりを見せたのは言うまでもない。
翌日、一行は飛行機で日本へと帰国し、マシンは船便で一か月後に帰還。僅か10周のレースでボロボロになってしまったマシンに技術陣は衝撃を受けたという。しかし、世界のレベルがどれ程のものであるかを肌で知り、何より完走によって得た収穫は大きかった。
紗代は子細な報告書をまとめ、それは実に細やかというか、内容はライディングギアなどの改善にまで及ぶが、全て後に戦う上で必要不可欠な要素ばかりであった。
昭和29年(1954年)に初めて海外レースにエントリーしたこのマシン、正式名称SSD R-1も、後にミュージアムに展示されている。それは、SSDが世界最強のメーカーとしての歴史を刻んでいくことになる記念碑的存在として。
こんにちは、yasukeでございます。
SFにせよ魔法と剣にせよ、所謂ファンタジーものが多数を占めるなろうに於いて、私の作品は昭和を舞台としている点でかなり珍しいのではないかと思いますが、個人的には昭和は一種の異世界ファンタジーであると解釈しております。