ルナ過去・中
いつも通りの時間に校門をくぐり、校舎の方へ向かう。私が学園に到着するのは、他の生徒たちより少し早いくらいの時間。早くに登校するのは嫌いでは無かったし、いつも校舎には少し遠回りをしているから。だからこのくらいの時間に登校するのが丁度良かった。
何故、わざわざ遠回りをしているのかといえば、ひとえにその道中には女神像があるから。人を見下したような微笑を浮かべる、その像の前を通ることが私には我慢ならなかった。
この日は穏やかな朝日を浴びて気分が良かったこともあって、女神の像の前を通ってやってもいいかな、という気分になっていた。気づけば私は普段とは異なる道を歩くことを選択していた。
件の女神の像の前に差し掛かるころ、その前に一人の女生徒がいるのが見えた。人が近づいてくる気配を感じたのだろうか、こちらを少し伺うと足早に去っていった。日傘に見え隠れする、朝日を反射した、輝く白い髪が印象的だった。
彼女との再開の時は早々に訪れた。その日の講義が終わり、図書館で本を読んでいる時のことだ。ふと、人の気配を感じ視線をあげると朝に見かけた女生徒が近くを通りかかっているのが目に入った。朝に見かけたときは距離があったので気づかなかったが、相当な美人だ。真白の髪に、太陽のような金の瞳。私以外の者ならば、彼女の美貌に気後れするだろう。
普段ならば話したことも無い相手に、自分から声をかけることなど絶対にしない。けれど彼女の姿を目にしたらどういう訳か、話しかけずにはいられなかった。
「ごきげんよう」
彼女がこちらを振り向く。
「はじめまして。私はルナ・ノワールと申します。貴女、今朝女神像の前でお見掛けした方でしょう?」
彼女は見知らぬ私に声を掛けられ少し驚いた様子ではあったが、すぐに気を取り直したらしく、
「ええ、確かに覚えがあります。あの時は離れておりましたので、まさか私のことをお気づきになっておられるとは存ぜず、失礼な真似を致したようで申し訳ありません。私はリュシエンヌ・ブラン。ブラン侯爵の次女です。ルナ様のお噂はかねがね、王太子殿下の婚約者様にお声がけいただけるとは光栄にございます」
そう彼女が返答をしたところで、はて? と疑問を覚える。ブラン侯爵のことは知らない筈がない。取り立てて何らかの魔力に優れている訳ではないにも関わらず、王宮で力を持っている人物の一人である。ひとえに、彼の政治手腕が優れているからだと思われる。魔術の腕ばかりが優れているノワール家とは、ある意味で真逆とも言えるあり方をしている家だ。
しかし、ブラン家に私の同年代の娘がいると言う話は聞いたことが無い。かと言って、彼女は嘘をついている様子でもないことから、恐らく事実なのだろう。何らかの複雑な事情でもあるのだろうが……。初対面の私が気にすることでもなかったか。
もう一つ気になったことと言えば彼女の口調だ。
「あなたは侯爵家のご令嬢なのでしょう? そこまでへりくだる必要はないのではありませんか?」
私は必要以上にへりくだってくる者たちを遠ざける傾向にあったのだが、彼女の場合だとどう言う訳か不快にはならなかったのだ。こう聞きはしたものの、特別嫌だったわけではない。彼女にこう尋ねた理由を強いて挙げるとすれば、私はありのままの彼女と話してみたかったのだろう。
「どんな風に話したらいいのかしら……? そうね、ルナ様はそういうの煩わしそうにしたから、ただの一生徒として話すことにしましょう。それで、ルナ様はどうして私に話しかけたの? 自身の噂について存じないかも知れないけれど、貴女は他人を寄せ付けないことで有名よ?」
突然口調が軽くなった、これが本来の彼女の話し方なのかも知れない。初対面の私と話すにしては些か軽すぎる気がしないでもないが、悪感情は湧いていない。むしろ好ましいとさえ感じているから自分自身に驚きを感じているくらいだった。
自分の噂に関しては知らない筈もない。それに他ならぬ自分自身が他者からそう思われる振舞いをしている自覚くらいは持っている。
だが、彼女に話しかけた理由だけは自分でも分からない。どんな風に表現することが正しいだろうか? どんなに言葉を繕おうと正しく表現出来る気はしなかった。それならば自分の思ったままを告げることにしよう。
「自分でも分からないのよ。強いて言うなら気になったから、かしらね?」
私がそう言うと、彼女は「え?」と声を漏らして、予想外の答えを聞いたと言うように目を丸くする。そこまで驚くことでも無いだろうに……。この様子だともう一度告げる必要があるだろうか?
「ですから、リュシエンヌ様のことが気になったから話しかけたと言ったのよ」
彼女は今度は「ふふっ」と言っておかしそうに笑った。これには流石に抗議したい。先程の曖昧な反応ならばまだ良い。ただ私の言ったことが意外だったと言うだけの事なのだから。しかし、こんな風に笑われてはたまらない。こちらはいたって真面目に返答しているのだから。だから私は「笑ったわね?」と少し圧を込めて、そう聞いた。
「だって、おかしくって。気になったから話しかけたなんて、まるで殿方のナンパみたいで……。でも、良い経験をさせてもらいました。今まで一度もそんな経験がなかったものですから」
そう言ってころころと笑っている。それにしても殿方のようとは……。抗議の意味も込めて「ナンパじゃないわよ、失礼ね……」と言うと彼女は、「ごめんなさい」と先ず謝罪を口にしたところで、
「でも気になったからなんて理由で話しかけられたのはとても新鮮な感じで、なんだか嬉しかったの」
と真実嬉しいと言った様子で私にそう告げてくる。向けられた笑顔が眩しくて、つい目を背けてしまいたくなるほどに。ただ
「私は王太子殿下の婚約者であることが周知されているから、殿方からそうした類のお誘いを受けることはないのだけれど、リュシエンヌ様はそんなに綺麗なのに殿方から話しかけられることはなかったの?」
思ったままの本心を告げた。彼女の見目は私に勝るとも劣らなかった。自惚れているようだが、これはれっきとした事実でもある。私はこの容姿だったが故に王太子の婚約者なんかにならざるを得なかったのだから。
「ふふっ、ありがとうございます。けど私は体が弱くって、世継ぎが見込めない可能性が高いのにお近づきになろうとする、もの好きな方はこの学園にはいないのよ。市井の中にはそんな人が居るのかも知れないけど、平民となると勝手が分からないから少し怖いわね。それに父は私を自由にするつもりはないみたいだから、私が歩き回れるのは侯爵家とこの学園の中だけなの、必然的に私と関わる殿方の候補なんていないも同然なの」
彼女の言葉で、先程までの疑問が解消された。この見目でありながら、公の場では見かけた覚えがないことを不思議には思っていたのだが、体が弱かったのならば頷けるというもの。それでいて彼女の虚弱さについて知っていたからこそ、同年代の子息たちは彼女にアプローチを掛けなかったのだろう。
しかし、知らなかったとは言え、気まずい話題を振ってしまった。こんなところで他人との関わりを拒絶していた弊害が出るとは……。
「なんだか悪いことを聞いてしまったみたい。話を変えましょうか。リュシアンヌ様はよく図書館にはおいでになるの?」
そう聞くと彼女は「ええ」と頷いてから、私に説明を続ける。
「週に二、三度は来ていると思うわ。こんな体ですから外にはあまり出られないのだけれど、本の世界ならば自由でしょう? 手当たり次第に読んでみては、その世界に浸っているの。あら? せっかく話を変えて貰ったのに、また元の話題に戻ってしまったみたい。ごめんなさい」
「いいのよ、本を読んで現実逃避しているのは私も同じだわ」
私の言葉に、彼女は「ルナ様も?」と聞いて来る。
「ええ、あまり大きな声では言えないけれどね。王太子の婚約者というのは実に大変なのよ。気晴らしくらいはしないと」
「お互いままならないものね」
本当にそうだ。しかし不思議なものである。初対面の相手にプライベートな内容の話をしてしまった。彼女を前にするとつい口が軽くなってしまうらしい。気を引き締めなくては……。
「そろそろ帰るわ、家の者が迎えに来る時間なの。今度はゆっくり話せると嬉しいわ」
「ええ、必ず。ごきげんよう、リュシエンヌ様」
「……リュシー」
「え?」
「リュシーって呼んで? 私はルナと呼ぶから」
つい先刻知り合った人物といきなり愛称で呼び合う。不思議な感覚だった。
私が他人と親蜜になることが少ないのは、心に壁を作っているから。容易に近づけさせないために。別に私に限った話ではないと思う。程度の差はあれど、誰しも自分の心に他人がずけずけと入ってきてほしくないものである。私は他人より少しばかり壁が高くて厚いだけの話なのだ。
貴族の、さらに言うならば王太子の婚約者などという立場にいるのだから、近づく人間に注意するのはむしろ当然のことと言える。
しかし、リュシアンヌはその壁をたやすく壊した。違うか、彼女が壊したのではなく、私が壊して欲しかったのだ。彼女という存在を知った瞬間から。私が声を掛けたその瞬間から。心の中に小さく芽生えた、今までになかった感情に戸惑いつつ、リュシアンヌからルナと呼ばれることを想像してみたが、嫌だと言う感情は生まれなかった。
「分かったわ、リュシーまたね」
「ふふっ。またね、ルナ。ごきげんよう」
彼女がふり返り、図書館を後にする。帰り際見えたトパーズの瞳がどこか名残惜しそうに見えた。
それから、私達は図書館でしばしば会うようになった。話す内容は時によって様々だ。魔術のこと、歴史や勉学のこと、家のこと、本のこと。しかし、実際のところそんなのはどうでもよかった。リュシーと同じ空間にいるだけで、私は束の間の安らぎを得られ、それが図書館に通う何よりの目的であったからだ。
彼女との関係はよく分からない。友人と言えば否定できないけれど、なんとなくその言葉に反発してしまいたくなる自分がいた。思い込みと言えばそれまでだが、私と話している時の彼女も私と同じく、いつも楽しそうにしていた。私が彼女から安らぎを与えられているように、彼女も同様に私から安らぎを得ているのならば嬉しく思う。この感情を友情と言うには些か無理があるように思えた。
彼女と知り合ってから、同じ季節を過ごして、時間はあっという間に過ぎていった。
◇◇◇
「ルナ一緒に街へ行ってみない?」
私たちの卒業を丁度一年後に控えた頃、唐突にリュシーからそう尋ねられた。私としては喜んでそうしたいのだが、むしろ私の方が外に出ても大丈夫なのかと尋ねたいところである。
「私は問題無いわ。けれど、リュシーの体調はどうなのかしら? こうして訪ねている以上は平気という事は何となく分かるわ。けれど、お父君は許さないのではなくって?」
聞いている話だと、リュシーの父は過保護と言って良いほどに自由を与えていないようだ。私は彼が彼女の虚弱さを心配して、そんな扱いをしているのだと推測する。しかし、彼女本人がどう思っているのかと言えば、父親は外聞を気にして自分を外に出さないのだと考えているらしい。外野が関わって良いこととも思えないので、私は余計な口出しはしていないのだが。
「ルナの言うように体調は平気よ。今日は私にとって良い天気だし、それに父からも許可は貰っているの」
「そうなの、良かった。ならば参りましょうか」
私たちは初めて一緒に街へ出かけた。付き添いの者はいたが、私達は気にしなかった。色々な店を見て回ったがリュシーと一緒だったことが何より楽しかった。
「私が初めてルナと会ったときのこと覚えてる? 私ルナの姿をチラリと見かけた後足早に去ったの」
「ええ、覚えているわ。声をかけるほどの距離ではなかったから、仕方ないのではなくて?」
彼女自身も、その後に図書室で話した時には確かにそう言い訳していたはずだ。
「そうじゃないの、あの時ルナを目にした瞬間、近づいてはいけない気がしたのよね」
「どういう意味なの? 具体的に言ってくれないと分からないわよ」
意味が分からない。近づいてはいけないとは何ともざっくりとしていて要領を得ない。それにその直感は外れているようだ。こうして彼女とは仲良くなっているのだから。無論これが私一人の思い込みでなければの話だが。
「だから、分からないのよ。こうして仲良くなれたのになんでそんな風に思ったのか」
「そう……」
そんな会話を経た後、花屋の前を通ったところで白い花が目に入った。
リュシーに似ている。白い花なんて星の数ほどあるのだが、何となくこれは彼女に似ているな、とそう思った。そんな理由もあってか目を離せずに暫くの間見ていると、
「その花、私に似てると思わない?」
彼女本人からもそう尋ねられる。
「……私も同じことを考えていたわ」
なんだかおかしくって二人で笑っていると、私たちの様子が気になったのか店の主人が声を掛けて来た。
「嬢ちゃんたちその花が気になるのかい?」
「ええ、この花が私に似ているなと二人で話していたの。何という名前なのかしら?」
「スイセイランと呼ばれてるね。原産地は魔大陸の方だから、知らなくても無理はないか」
「魔大陸……。一度行ってみたかったのだけれど」
「魔大陸に?」
ヒト族には珍しいことにリュシーは魔大陸に行ってみたいらしい。ただダスクのヒトにとっては行かない方が良い場所でもある。少なくとも女神教の影響が強い、大陸に住んでいる私達のことを、彼らは良く思っていないだろうから。それに、彼女の父親が絶対に行かせまいとするのは想像に難くない。
そんなことを考えていると、リュシーは、「店主さん、その花いただいてもよろしくて?」と話しかける。どうやら買うつもりのようだ。
「おっ、買ってくれるのかい? 毎度あり。嬢ちゃんはお貴族様みたいだね?」
「ええ、その通りよ。この場所に届けて貰えるかしら? 手荷物になるのは嫌だから」
「ああ、問題ない。あと、その花は育てるのが難しいから詳しい人に教えてもらいながら育てなよ?」
「分かったわ」
トントン拍子で会話が進んでいく。しかし、即断とは。気に入ったのだろうか? リュシーの好みからは少々外れている気もする。先程の会話から妙な縁でも感じたのだろうか? 実を言えば私の方も欲しかったりする。今更そんなことは言えないのだけれど……。
「リュシー、その花買うの?」
「気になったからね。育ててみることにするわ」
気になっていたのは二人とも同じという事だ。暫くしてから様子を尋ねることにしよう。
そんなことがありながらも、楽しかった時間は終わりを迎えた。
「じゃあそろそろ帰らなくては、ごきげんよう」
「またね、リュシー」
「さようなら、ルナ」
ふと、違和感を覚える。彼女の言葉の何かが引っかかるのだ。しかしそれが何であるかはっきりとは分からない。それに何かあれば、また次会う時に聞けば良いだろう。そう思っていた。
今になってから思う事がある。この時私は直ぐにでも彼女を呼び止めておくべきだったのかも知れないと。そうして、彼女に何を尋ねるのかと言えば、どうして彼女の外出を頑なに許さなかった彼女の父が外へ出ることを許したのか? もう一つは、いつも「またね」と言っている別れの挨拶が、この日に限っては「さようなら」であったのかと言う二つのことをだ。
しかし、尋ねていたからと言って、何かが変わったわけでも無いのだろうとも思う。彼女があの時何を感じていたのかくらいは知れたのだろうが、詰まるところ私達に待ち受けていたのは破滅以外になかったのだから。