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勿忘草の花に祈る

作者: 高橋 耶那

 いつかこの物語の長編を書いてみたいです。

 彼は、ヒトの世で言う『伝説のイキモノ』だ。


 不老不死であり、不死身。要するに、殺しても死なない、ヒトのかたちをした海月(くらげ)みたいなものだ。


 どうやって産まれてきたのかは、覚えていないし、わからない。親がいたのか、それともどこかから勝手に発現したのか。それもわからない。


 昔──気が遠くなるほどの昔、その事で悩んだりもしたけれど、彼は結局こう結論付けた。


 私はきっと宇宙のようなものなのだろう、と。


 宇宙の始まりなど誰も知らない。いつか滅びるものなのかもわからない。


 そんな宇宙の有り様は、彼とよく似ていた。


 彼が幼子であった時期は、彼の記憶に存在していない。己を己だと認識したときには、既にヒトで言うところの15歳ほどの容姿をしていた。


 そこからずっと、彼は少年のままである。


 銀鼠(ぎんねず)色の艶やかな髪に、蛋白石のように淡く虹色にゆらめく美しい瞳。透き通るような滑らかな白い肌に、精巧につくられた陶器人形(ビスクドール)のように均整が整った顔と身体。


 彼は実に生きにくい容姿だった。彼を捕まえようと伸ばされる手から逃げるため、彼は何年も旅を続けた。


 けれど、そんな彼を、危険を承知で受け入れてくれるヒトがいた。



   *  *  *  *  *



「ミオ」


「…カラウメ」


 カラウメと呼ばれた艾年(がいねん)の女性は、大樹の太い枝に座っている少年を視界に入れると、木漏れ日に目を細めて柔らかく微笑む。


「昼食にしましょう、降りてらっしゃいな。気をつけてね」


 少年はふぅと軽く息を吐くと、地面から6メーターほども高さのある枝から飛び降りた。


「あっ」


 カラウメは焦ったような声をあげるが、


「大丈夫。いい加減慣れてよ」


 少年の飄々とした姿を見て、安堵したように溜め息を吐いた。


 少年の身体は、滅多なことでは傷つかないほど頑丈である。もし傷ついても、3秒もかからぬうちに、全て治ってしまうのだ。心配するのも無駄というものだった。実際、このような行動をするのは初めてではない。


 しかし少年がそう考えていても、カラウメはそうではないようだった。


「そうは言っても、やっぱり何度見ても肝が冷えるのだもの」


 カラウメは少年に歩み寄り、そのすべらかな頬に、老婆手前の皺の刻まれた手を添えた。


「こんなにきれいな身体だもの。大事にしなくちゃね」


 「綺麗な身体だから大事にしろ」と言われて不快にならないのは、彼女が『うつくしい』からだろう、と少年は思った。


 真実、カラウメは美しかった。ひとつに纏められた白髪まじりの黒髪も、優しく笑い皺が刻まれた一重の目元も、黒曜石のように深い色の瞳も、もうすぐ六十代に差し掛かるというのにしゃんと伸ばされた背筋も、何もかもが美しかった。正しく「貴婦人」であった。


 けれど、少年の言う『うつくしさ』は、外見のことではない。少年を愛したいと思うその心が、少年を心配して差し出された指先に溢れるその慈愛が、美しかったのだ。


 親というものを知らない少年にとって、それは何と言えば良いのかわからない心地よさだった。少年は春のような暖かさに包まれて、節くれだったカラウメの手に、そっと頭をすりつける。後になって、これが母親の愛と言うのだと知った。


「……カラウメは、『うつくしい』だな」


 カラウメをじっと見つめ、ふと少年の唇から漏れた言葉に、彼女は少しわざとらしく喜んで見せた。


「まあ、嬉しい。ありがとうね」


 そもそも、ヒトと関わらないせいで語彙の少なかった少年に言葉を教えたのは、カラウメだった。『うつくしい』もその内の一つだ。


 彼女は、美しい言葉を彼に与えた。「きれい」も、「すみわたる」も、「ただしい」も、「やさしい」も、「いとしい」も。さまざまな言葉を与えた。年はとっていても経験が少ない少年のその感情に、初めて名前をつけてくれたのが、カラウメだった。


 カラウメはだんだんと、少年の『母』になっていった。


「さあ、スープが冷めてしまうわ。早く戻りましょう、()()()()()()


 カラウメと出会ってから、『伝説のイキモノ』だった少年は、『ミオソティス』という名をつけられて、森の小さな箱庭の中で、彼女の『息子』になった。



   *  *  *  *  *



「カラウメ」


「あら、なあに?」


「今日は私が食事を作る」


「まあ、良いの?」


「ああ、カラウメは休んでいて」


「あらあら、ありがとうね。助かるわ」


「…うん」


 カラウメはミオソティスの小さな頭を、壊れ物を扱うようにそっと撫でた。











「カラウメ」


「なあに?」


「今日から私が洗濯をする」


「あら、最近やけにお手伝いに熱心になったわねえ」


「カラウメはもうおばあさんだから、私が助けなくてはいけない」


「まあ、ひどい。そんなに私は老けてしまったのかしら?」


「…そう。だからカラウメは休んでいて」


「……そうねえ、ならばお任せしようかしら。うふふ。ありがとう、ミオ」


 揺り椅子に座ったカラウメは、窓の外で洗濯物に四苦八苦している少年を見て、慈愛に濡れた瞳を細めた。











「…カラウメ」


「…ん? なあに?」


「買い物は、私が行くから、カラウメは眠っていて良い」


「けれど、ミオは…」


「大丈夫。しっかりフードを被って行くから」


「でも…心配だわ」


「大丈夫。お金のやり取りもちゃんと出来る」


「…そう、そうね。それじゃあ、頼むわね」


「ああ。行ってくる」


「気をつけてね」


「うん」


 ミオソティスを心配そうに見送った後、カラウメは柔らかいベッドに横になり、彼の今後を案じた。











「カラウメ」


「……な、ぁに?」


「……カラウメは、いつかいなくなってしまうの?」


「そうねえ…。ヒトは…皆いずれ、死に還って、土になってしまうから…」


「…………」


「あなたはやっぱり、出会ったときから……、変わらない、わね…」


「……そうだね、私はそういうイキモノだから」


「…あなたは、私を、置いていってしまうのね……」


「そう、なのかな……」


「…でも、私はきっと、いつまでも、あなたの傍にいるわ」


「本当……?」


「ふふ、ええ……。本当よ…」


「約束をしよう」


「……ええ、約束」


 二人は小指を絡めて、ミオソティスはうつむき、カラウメはそんな彼を見て微笑んだ。ミオソティスは、壊れ物を扱うように、カラウメの老いた頬にそっと触れた。











「カラウメ……」


「…………ん?」


「……ありがとう」


「ふふ、どう、したの、?」


「ありがとう…」


「……えぇ」


「カラウメ、何か、なにか、私に出来ることはない?」


「……そ、ぅねぇ…」


「カラウメがずっと傍にいてくれるなら、なんだってする。いつかの男が言っていた。私の血があれば、いつまでも生きていられると。私の血が必要なら、いくらでも…!」


「だぁめ。そんな、こと」


「……どうして?」


「ヒトには…………ヒト、の、領分…が、あるから…………」


「……踏み越えてしまっては、いけないの?」


「…えぇ……」


「……わかった」


「良い子ね……」


「……頭、撫でて」


「……手を、とって、くれる…?」


「…ん」


「……良い子、良い、子…」


「…やって欲しいことはある?」


「……そぅねぇ…」


「…………」


「……『おかあ、さん』」


「え?」


「『おかあさん』って、呼んで、欲しかった、なぁ」


「……おかあさん…」


「…ええ、」


「お、かあさん」


「ええ、」


「お、かあ、さっ」


「えぇ、っ」


「……う、」


「…………ミオ、」


「ぅあぁぁぁ…、おかあさんっ、おっ、かあさん……!」


「…ミオ」


「っこんなの、こんなの知らない…!」


「…うん、」


「心臓が痛いんだよ、なんだかわからないくらいっ、痛いんだ。あたまも、焼ききれてしまう。目から出てくる雫は、何っ? こんなの、おかあ、さんは、教えてくれなかった…!」


「……そう、ね…」


「おかぁさん…!」


「………ミオ、ぁなたは、きっ、と、この先、何度も、ひと、りになるわ…」


「ぐすっ…………うん」


「でも、忘れ、なぃでね…」


「…………」


「わた、しは、ずっと、そばに……」


「…………うん」


「ミオ、ソティス、」


「は、い」


「……──────………………………」






「………………………………………………………はい」





   *  *  *  *  *





 ミオソティスは、再び旅に出た。


 どこかにしばらく落ち着くときもあれば、移動し続けるときもあった。


 その永い永い旅の中で、ミオソティスは色々なことを知った。


 「かなしい」だとか、「さみしい」だとか、「はらがたつ」だとか、「うらやましい」だとか、「きもちわるい」だとか、とにかくたくさんのことを。目から出てくる雫を、「なみだ」と呼ぶことも知った。


 永い永い旅の中で、ミオソティスは色々なヒトに出会った。




 共に生きたいと願った少女。


 憧れた凛々しい男性。


 『おかあさん』を重ねた女性。


 ミオソティスを狙う怪しい研究者。


 感情を分かち合いたいと思った少年。


 世界の平和を願う僧侶。


 逃げ続ける殺人鬼。


 記憶を失い続ける老爺。


 家族を殺したがる復讐者。


 守りたいと思った幼い命。




 色々なヒトに会って、色々なことを話して、色々な『おわかれ』をした。


 旅立ちだとか、老衰だとか、処刑だとか、他殺だとか、事故だとか、自殺だとか。時にはミオソティスが自身の手で、相手を殺すこともあった。


 ミオソティスは、いつも見送る側だった。いつも、誰かを見送ってから、その場を旅立った。


 ミオソティスは、『おわかれ』の度に、苦しんだ。


 だって、おもったところで、にくんだところで、ねがったところで、いつかは皆、自分の傍から居なくなる。『約束』だって、守られることはない。それがわかる度に、絡めた小指がじくじくと痛んだ。


 けれど──




 けれど、それでもミオソティスがヒトと関わることをやめないのは、『おかあさん』の言葉があったからだった。


 あの『おわかれ』からずっと、ミオソティスの心臓を動かしている言葉。胸を掻き乱す言葉。やさしいヒトと出会う度、叫びだしたくなる言葉。それはミオソティスにとって、希望で、絶望で、自由で、楔で、どうしようもないものだった。


──『どうして君は、そんなに苦しんでまで、旅を続けるの?』


 いつだったか、誰かに訊かれたことがあった。


 ミオソティスは何と答えるか暫く悩んで、


──『()()()()()()から』


 と言った。


 ミオソティスは、ヒトを愛しているのだ。


 ヒトは、醜い。利己的で、我が儘で、感謝を伝える術を知らないイキモノ。


 ヒトのせいで酷い目に遭ったことも、少なくない。


 けれど、そんな不器用なイキモノを、ミオソティスはどうしようもなく『いとしい』と感じてしまうのだ。


 だって、ミオソティスにはカラウメがいたから。カラウメと出会って、彼女の息子になって、ヒトのやさしさを知った。あの春の陽気のような暖かい箱庭の日々を、ミオソティスは決して忘れない。



   *  *  *  *  *



「……ただいま帰りました。………おかあさん」


 ミオソティスは数千年ぶりに、カラウメの墓に手を合わせた。


 彼女の墓は雨に削られ、砂に埋もれ、草にまみれて、もうわからなくなっていた。


「…………………」


 ミオソティスは無言で、もう一度彼女の墓碑を建てた。建てられたそれは、以前のものと寸分たがわず、そこに腰をおろした。その足元には、ミオソティスが植えた勿忘草(わすれなぐさ)の白く可憐な花が、風に吹かれてゆれていた。


「……あなたは、私があなたを置いていってしまうと言ったけれど……、いつだって、私を置いていくのは、あなたたちヒトだよ」


 彼はその場に座り込み、墓碑に刻まれた文字を指先で優しくなぞる。少しだけ、その端整な顔を歪めた。


「『かなしい』、なぁ……」


 彼は胸のあたりをそっとおさえ、囁く。


「────でも、不思議と、もう『さみしい』はないんだよ」


 こつんと額を()()墓碑に当て、ふわりと幸せそうに微笑んだ。


「おかあさん、































──あいしてる



   *  *  *  *  *



 肉体は死して、滅び朽ちたとしても。


 その人の魂は、いつまでも、色鮮やかに。


 誰かの、


 ──あなたの、心に。

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