第10話
『小倅には近付くな』
ティリスは走りながら、誰かがそう言っていたのを思い出していた。
それは、主治医のヴォルフラム博士だったかもしれない。
あの男に関わると碌な目に合わないし、外に沢山女がいる。だらしのない男だと、彼は言っていた様な覚えがある。
ティリスはずっと、話し半分くらいで聞き流していたが、今の事を見る限りそれは現実のようだ。
「でも、恋人という可能性も……」
振り切れたのか、彼の追う姿が見えなくなり、ティリスは足を緩めた。
女性の影が一つあったからといって、沢山とは言えない。
彼女が恋人であるのであれば、何も問題はない。そもそもが、彼の恋人でも何でもないティリスが、とやかく言う権利などないのである。
「綺麗な人だったな」
ティリスはポツリと呟いた。
少ししか見えなかったが髪は茶色で長く、彼と並んでも見劣りしないスラリとした体型だった。
彼女の背丈は背の高い彼と並ぶと、釣り合いも取れていて、140cm程の自分より遥かにお似合いだった。
それが、ティリスには羨ましくも悲しい事実だった。
自身もこんな姿に生まれて来なかったら、皆のように普通に生活出来たのだろうか?
普通に街に出たり、普通に友達と買い物したり、普通に恋をしたり……考えても仕方がない事なのだと分かったっていても、考えずにはいられなかった。
「おい」
俯くティリスの手首を、誰かが後ろに強く引っ張った。
その瞬間、ティリスのフードがパサリと落ち、聖女と騒がれる所以の一つである銀蒼の髪が風に靡いた。
「……っ!」
ティリスは、その靡いた風を肌に感じた一瞬で、現実世界に引き戻された。
そうだった、自分は拐われる可能性もある人間なのだと。
だが、そう恐怖を感じたのは僅かの間だった。顔を上げ、誰が手首を引いたのかを確認すると、見知った人物だった事への安堵。
それと同時に、シーウォング社から出た罪悪感、バレた事への叱責の怯えが胸を打つ。
「こんな所で……いや、どうやって出た!?」
ティリスを捕まえた彼は、彼女の存在を確認し驚愕している様だった。
彼女が、1人で街や外部に出れる訳がないのだ。
何故ならば、ティリスの住むシーウォング社の敷地には、外部の人間が許可なく入れぬように、要塞の様な高い壁があるからだ。
出入り口には、許可証や社員証がなければ一切通れない。強行したとしても、警備隊がすぐに飛んで来る。
身元不明の人間は、ただ1人も入れない。それが、シーウォング社である。
ましてや、神の子と崇め称されるティリスが、たった1人で外に出れる訳がないのだ。
「お前は、自分の置かれている立場が分かっているのか!?」
俯いたまま沈黙しているティリスに、アルフォードは堪らず怒鳴ってしまった。
たまたま、自分が先に見つけたから良いものの、これが悪人だったらと想像すると憤りを感じたのだ。
自分はいつも誰かに狙われている事を知っているハズなのに、何故こんな無謀な事をしているのか、問わずには得られなかったのだ。
「……ご、ごめんなさい」
アルフォードの剣幕に、ティリスは萎縮してしまった。
確かに危険は承知の上だ。だが、普段から危険と隣り合わせで生活していると、何が危険で平気なのか麻痺してくるが事実だった。
「熱は、体調は戻ったのか?」
ビクビクと自分に怯えるティリスを見て、アルフォードはまだ言いたりない溜飲を飲み込んだ。
彼女を泣かせたい訳ではないのだ。
アルフォードは躊躇いながら、ティリスの額にそっと手をあてた。
「……」
「どうやって出た?」
熱はなさそうだと安堵をすれば、アルフォードは今度は優しく訊ねた。
あのセキュリティの中、どうやって "外" へ出たのか謎だったからだ。
「ティリス」
「ごめんなさい。外の風を感じたかったの」
その言葉は、彼の求めていた言葉ではなかった。
だが、警備隊を庇って口を割らないのだろうと、アルフォードは察した。
何処からと言えば、そこは何をしていたのだとアルフォードは責めるだろう。自分のせいで警備隊に非はないのだと、ティリスは口を噤んでいるに違いなかった。
こうなれば、口を割らせるのは難しい。なら、彼女には聞かず、自分で調査し厳重に注意するしかなかった。
「次からはしないと誓ってくれ」
「うん」
アルフォードの悲痛な叫びが聞こえた様で、ティリスは小さく頷いたのであった。
アルフォードも立場上、命を狙われる事はある。
だが、自身の身は自分で護れる。そのため、比較的自由な行動が出来る。しかし、彼女は違う。
完全な自由はないのだ。
確かにシーウォング社の敷地は実に広く、運動施設やショッピング出来る設備もある。公園もあるので、小さな街の中にいる様だろう。
でも、彼女にとってそれは壁という名の檻。
本当の自由ではないのである。
アルフォードとて、自由にさせたいのは山々である。
しかし、世間がそうはさせないのだ。
彼女はこの世界で唯一無二である "聖" の魔法が使える。
不治の病が治せる可能性があり、完治不可能と言われる怪我も治癒出来る存在だ。
それだけでも、人々は手に入れたがっているのに、外見がまた目立つのである。
銀蒼という稀な髪色。透き通る様な美しい肌。そして、類い稀な美貌。魔法の力を欲する者。その容姿を商売として欲する者。
その理由は様々だが、人々は彼女を手に入れたがっていたのだ。
それ故に、シーウォングという会社の敷地外には、出れないのである。
可哀想であるが、彼女は一切鍛えていないし、ひ弱で身体も弱い。大人でなくとも、数人いたら子供でも攫えるだろう。
悪意から護るために、決して出さない様に注意を払っていたのであった。
「この先に、小さな公園がある。そこまで行ったら帰るぞ」
アルフォードはそう言って、ティリスの頭を優しく撫でた。
自由に出来ないもどかしさは、1番分かるつもりだ。なら、今この瞬間を楽しませてあげようと、頭を切り替えたのである。
「うん!!」
無理矢理連れ戻せる権利はあるのに、そうしないでくれたアルフォードにティリスは、嬉しそうに笑ったのであった。




