第九十一話 第二王女と白い鬼
大白狼のルゥドゥール……全くもって聞き覚えがない。百年を生きた魔物となれば、それなりの力を持っている。が、記憶に引っ掛かるところはなかった。我の中にあるルゥドゥールの印象は、カトラスに聞いた通り、白くて巨大な狼である。言葉を話せる知能がある、というのが厄介だが、それ以上に面倒そうなのは白狼に共通しているらしい素早さだろう。
吹雪の止まぬ森の中で真っ白な狼と対峙するというだけで面倒極まりないが、更に言えばそいつは欠片を持っている。剛力を持っていれば我の鱗を貫けるだけ強かになり、魔力を持っていれば凄まじい魔法を扱う怪物となる。どうか無難な所で逆鱗か角を持っていて欲しいが、神がそれほど都合の良いことをしてくれるとは思えぬ。
考え込む我に、カトラスが声を掛けてきた。
「……やはり、君はルゥドゥールを狩りに行くのか?」
「北、針葉樹、吹雪、そして強力な魔物とくれば、恐らく欠片の位置は間違いではない。そして、我の目標は力を取り戻すことだ。言い換えれば、そのルゥドゥール某を討つことである」
我の言葉に、カトラスは渋い顔になった。理由は分からぬが、待てば出てくるだろう。我は少しばかり凝ってきた肩を軽く回しながら、カトラスの言葉を待った。
「……君の目的は理解した。目的に対する理由も、それが生半可なものではないことも理解できた。――だが、私は少しばかり無理があるように思う」
「……」
「喩え君が魔王であったとして、今の君はどうだ? ヴァストラに捕まるようでは、到底ルゥドゥールを討てるとは思えんぞ」
言いたくは無いが、死ぬだろう、とカトラスは言った。まあ、確かにそうである。無策に突っ込めば、命の危険があるだろう。我は雪だとか砂漠だとかの環境を、これまでは魔王で何とかしてきた。故に、砂漠で戦った経験は無かったし、雪の上で戦うことも、そもそも吹雪の中に入ったことも無い。
我は温度変化に弱い。特に、冷たさに関しては致命的である。思考や視界がぼやけて、運動能力が恐ろしく下がる。冷血である我には体温を保持する力が無いのだ。
だが、カトラスが言ったように、これはこれは生半可な問題ではない。我は絶対に力を取り戻さねばならない。命を賭けてそれが罷り通るのならば、堂々と命を賭けるべき事柄なのだ。
「……確かに、そのルゥドゥールとやらとの戦いは、我の命を大きく脅かすだろう。だが、我は自らの命惜しさに逃げ出せるような状況にはいない。我が死ぬか、それとも狼が死ぬか。そういう話なのだ」
そこに諦めるという選択肢は無い。我は進み続けなくてはならない。海の向こうの大陸の、更に果てに……我の命よりも大切なものがある。今さら死ぬかどうかなど怖くはない。ただ、どうやって狼を狩るか。それだけである。
我の目からそういった意志が伝わったのか、カトラスは柔らかく息を吐いて、苦笑を浮かべた。
「随分、生き急いでいるな。弾けるような若さを感じる。……そういった人間は、往々に何か大きな事を為すと相場が決まっているものだ」
カトラスはそう言うと、片膝を叩いて大きく笑った。
「よし、ヴァチェスタ。一つ良いことを伝えよう。その若さへの餞別だと思えばいい。……ここから北に、白狼の出る森があり、その果てにルゥドゥールは潜んでいる。奴の住む音無の雪渓は、常に吹雪いている。熟練の白伐ちでさえ白狼を見失ってしまう故、危険すぎると禁足の地になった」
我は吹雪に揉まれたことは無いが、遠目に見たことはある。一面が真っ白になるような、人一人など簡単に吹き飛ばされて埋もれるような有り様である。そんな中で、雪と見紛う狼を狩るというのは……恐ろしく難しいだろう。人間にはできた所業ではない。
続きを促す我の目を受けて、カトラスが口髭を揺らした。
「――だが、そんな禁足地で白狼を伐つ男が居る。恐ろしく腕の立つ白伐ちだが……正確に言えば、腕が立つどころではない」
「……どういうことだ?」
「彼はこの四十年近くを、禁足地で過ごしている。一晩としてそこを離れること無く――たった一人、吹雪の中で白を斬っている。彼の来歴については不確定な部分も多いが、最年少で白伐ちとなったこと、記録上最も白狼を伐ったこと……そして、それらを全てを一人で為したこと。どれを取っても尋常ではない」
たった一人で、だと? 我は耳を疑った。脳裏に、吹雪の中で佇む一人の剣士の姿が浮かんだ。驚きに眉を上げる我に、カトラスは同感だと言わんばかりに一つ頷いた。
「……本来、白狼は二人一組で伐つものだ。互いが互いの背中を守り、周囲に目を凝らす。だが、その男はたった一人で白狼を斬ってるのだ。たった一人で、来る日も来る日も、彼はひたすらに白狼を斬り続けていた。三年前に春が来たのも、その前の春が来たのも、その男のお陰だ」
「……白伐ち達がその男と協力をすれば、簡単とは言わずともルゥドゥールを狩ることは出来るのではないか?」
我が疑問を素直に吐くと、カトラスは首を左右に振った。そうは出来ない事情があるらしい。
「ルゥドゥールは狡猾な狼だ。少しでも己に危機をもたらすものがあれば、正面からは向かっていかない。すぐに尻尾を撒くなりして、そもそも顔を出さない」
「……面倒であるな」
「全くだ。……だが、男はひたすらに狼を斬って、ルゥドゥールを捜している。三十年は前……いや、もしかすればそれよりも前から、彼は吹雪を歩いている。故に、ルゥドゥールが前に出てくることはない。彼は一人でルゥドゥールを抑え込んでいる訳だ」
そう言って、カトラスは歯痒い、といった顔をした。大方その男に何も出来ない事が申し訳ないのだろう。アルベスタにおける戦力の騎士団は、雪原で戦うにはあまりにも遅い。恐らく物的な面で支援はしているのだろうが、それでも一個人に背負わせるには重すぎる役割である。
カトラスは顔を上げて、蒼い瞳を我に向けた。……ああ、分かっている。そういうことだろう。
「魔王ヴァチェスタ。君が本気でルゥドゥールを伐つと言うのならば、彼の力を借りるべきだ。白伐ち達から『白い鬼』と呼ばれる男――トーヴを頼れ」
白い鬼、トーヴ……か。続けて耳に覚えのない名だ。だが、覚えていて損はないだろう。問題はそのトーヴとやらが居る場所まで歩くことさえ今の我には困難だという事だが……それについては早めに対策を取らねばならぬな。
我は一先ず「覚えておこう」と言って、理解を示した。今回の戦いにもまた、ミルドラーゼのように仲間を募る必要がある。そのための伝手は……まあ、冒険者として働くことで見つけていくとしよう。面倒ではあるが、我一人では相手にさえならぬだろう。
我に一頻り情報を伝えたカトラスは、ほう、と小さく息を吐き、続けて何かを思い出したような顔をした。それが明るい話題ならば良かったが、顔からしてそうではないようである。
「……魔王ヴァチェスタ。最後に一つ質問がある。我が娘、エリーズについてだ」
「……何だ」
「……君は、エリーズがどうして城を抜け出したか、知っているか?」
「……」
「エリーズは……どうしてか、理由を話してくれない。私にもザリルにも、姉にも妹にも話してはくれないのだ。私達に何か悪いところがあったのならば、直したい。だが、それさえも分からないのだ」
……そんなもの、我が聞きたい位である。エリーズは常に笑顔で、何の悩みも無さそうであり、その癖我ら三人の中で最も複雑な事情を抱えていた。その全容は、家族であるカトラス達にさえ分かっていない。
家庭の事情だというのは分かるのだが、家庭の何なのかがさっぱりである。どう考えても逃げたしたいと思う環境ではない。
今もこうして我に質問を投げ掛けるカトラスの目には真剣な色があり、何とかエリーズに向かい合おうとする意思を感じる。そんな目を見たことも向けられたこともない我は少しばかり居心地が悪くなった。
「……それを答える前に一つ、聞かねばならぬ事がある」
「うむ……言ってみよ」
「カトラス……お前は何故、エリーズを連れ戻そうとしなかった。お前は一国の王である。それも小国ではなく、北西に列挙される国の王だ。捜そうと思えば国を跨いでも捜すことは出来た筈だ。――だが、お前はそうしなかった。それは何故だ?」
本当にエリーズを大切に思っているのならば、エリーズが消えたときに取り乱し、すぐにでも捜そうとする筈である。それが普通であり、最適解だ。だが、カトラスは違った。
エリーズは三年という月日を南の砂漠で過ごし、その間に国が揺れることはなかった。我はカトラスの決断の理由を知りたいと思った。
エリーズは……奴は、やはり自分は出来損ないだからだ、と空虚に笑っていた。そうでないという答えを、我は求めていたのだ。我の質問にカトラスは真剣な面持ちでこう答えた。
「……それが、エリーズの為であると思ったからだ」
「……」
「エリーズは優しく、真面目な子だ。責任感も正義感も、人並み以上にある。そんなエリーズが、ある日ぱたりと城を出た。置き手紙には、『すみません』と『ごめんなさい』とだけ書いてあった。最初こそ、私は国をひっくり返してでも見つけようとした。だが、数日が過ぎて、こう思ったのだ」
――エリーズを連れ戻して、私はどうするのか、と。
カトラスの顔には、似合わぬ迷いの顔があった。いくら一国の王であるとはいえ、子育てに関しては人並みであったのだろう。初めからすべてを知っていて、完璧に行動できる者など居ない。カトラスは娘の家出という事態に戸惑って、一つの結論に至ったのだろう。
「……これは、他ならないエリーズの問題だ。あの子の心の中にある問題に違いない。余程、この場所が嫌だったのだろう。そうでなければ抜け出したりはしない筈だ。そんな場所に連れ戻して……それで私はどうすればいい? 私達自身が問題の種であったら、あの子を連れ戻して理由を問いただすのは、あまりに冷酷というものだ」
カトラスはため息を吐いて、言葉を続けた。
「……だから私は――私は、あの子に全てを委ねることにした。あの子が自分で自分の答えを捜すにせよ、この城から離れるにせよ……その全てをエリーズに委ねるつもりだった。あの子は決して馬鹿ではない。時間さえあれば、自分なりな答えを見つけられる子だと、私は信じている。もし……その答えが、この場所に戻らないというものだったら、それを受け入れるつもりでもいた」
「……」
「私はきっと、国王としても人間としても、間違った決断をしたのかもしれない。だが、あの子には……いや、娘達には、自分の人生を歩んで欲しい。王家に生まれたからと、理由もなく義務を背負わないで欲しいのだ。だから私は、エリーズを探さなかった。あの子を信じて待つつもりだった」
「……途中で死ぬとは思わなかったのか。外の世界は、王室育ちの王女には残酷である。一人生身で少女が歩いて、ろくな目に遭うわけがない」
我がそう言うと、カトラスは神妙に一つ頷いた。
「うむ。間違いないことだ。外はあの子には広すぎる。……だが、それでもだ。あの子は私の娘だ。そう生半可な子ではないし、緩い育て方をしたつもりもない。それに、あの子もそういう『覚悟』をした筈だろう。この先がどうなるかについて、あの子は自分で自分の責任を持った。それならば、どういった結末を迎えるかもあの子の責任だ」
「……随分と放任であるな」
「それを言われればなんとも言えないが……甲斐甲斐しく世話を焼く事では無いと思っている」
つまるところ、カトラスはエリーズに選択肢と時間を投げたのだ。悩みを振り切って城へ戻り、王族として生きるのか。それとも、王族としての役目を捨て、自分らしく生きるのか。帰ってこないというのならば、それもまた選択だとカトラスは言った。
実際、エリーズは我が来なければミルドラーゼで日々を過ごしていただろう。
それが何の因果かねじ曲がり、そうしてエリーズはここにいる。それを迎えたカトラスはきっとこう思ったのだろう。エリーズは王族として生きる事を選んだのか、と。だが、そういう訳ではない。エリーズは未だに問題に向き合うことが出来ず、なし崩し的に国へ戻っただけだ。
流石のエリーズも、帰ってきて早々に『南で約束をしてしまったから何とかしてくれ』とは言えぬだろう。その上、家出の理由も話せない。それが事態の把握を途轍もなく難しいものにしているのだ。
我は大きくため息を吐いた。取りあえず、カトラス側の事情と思惑は分かった。カトラスの質問に答えるとしよう。
「こちらの質問は答えてもらった。お前の質問にも答えよう。……残念だが、我もエリーズの家出の理由を知ってはいない。奴はその手の話題を振らない上、振ったとしても話さぬだろう」
「……そうか。答えにくい質問をすまないな」
「うむ。……ああ、だが……一つだけエリーズが言っていた事がある」
「何だ? 言ってくれ」
「……奴は、自分を出来損ないだと常々言っていた。三年も責務を放棄しているから、ということも考えられるが、もしかすれば理由の一つなのかもしれぬ」
「出来損ない……だと……?」
我の言葉に、カトラスは非常に衝撃を受けた顔をした。驚きと共に悲しみが湧いて、続けて冷静な思考が素早く戻ったのか、半分思案の顔になった。どうやら記憶の底から手当たり次第に取っ掛かりを探しているらしい。
それを見ながら、我はどうしたものかと思っていた。ようやく欠片の所在と持ち主が判明し、有力な協力者の存在も明らかになった。だが、続いて謎と問題が増えている。
我はエリーズを王家から引っ張り出すと言ってしまったのだ。この王家から、である。
我は目の前で難しい顔をするカトラスを見て、続けて王家の顔ぶれを脳裏に描き、最後に不機嫌な顔のヴァストラが見えた。……なんともまあ、面倒である。だが、やると決めたのならばやるしかあるまい。いずれ王女が戻ったことを喜ぶ王室が、またまた王女を失うことになるのだ。
それはつまるところ、王家と対立することを示している。……取り戻した欠片が有用なものでなければ、相当に難しい話になるだろうな。
我は未だに考えるカトラスを前にして、二つある目標に対し、憂いを込めた一息を吐いた。




