第八十六話 アルベスタへ
我が部屋で尻尾を鍛えていると、扉が三度叩かれた。音から察するにリサである。エリーズはもう少し控えめであるし、バジルはもう少し遠慮がない。一応尻尾を隠して扉を開けると、予想通りリサであった。時間から察するに、買い物を終えて帰ってきたのだろう。
なんだか少し不機嫌なリサを家に迎え入れて、我らはテーブルに座った。我は適当に水を用意して、リサの前に置く。
「ん。ありがと」
リサが水を飲み干したのを見計らって、我は口を開いた。
「……どうだった」
「ん? あぁ、ギデオンね。……んー、面白い所だと思ったわ」
面白い、か。恐らく南から出た事がないリサにとって、西は確かに面白い所だろう。西には雄大な自然があり、混ざりあった文化があって……そして、さまざまな種族の坩堝になっている。
有翼種、長耳、妖精、矮人、巨人……他にも居るが、大まかなのはこのくらいだろう。多くの種族が街中で歩き回っているのは、まあ、見る分には面白い。
だが……どうにも住みにくいというか、取っつきにくいとも言える。リサも同じことを思ったのだろう。苦笑いでこう続けた。
「けど……長居したいかって言われると……微妙かも」
西は多くの種族が居るので、法律や規律がかなり緩い。それぞれの種族がそれぞれの問題を抱えているので、一概に絶対の法律を作るのは難しいのだ。当然、窃盗や殺人を冒すべからず、と基本的な法はあれど、種族の違いによる諍いや揉め事はあまり正されることがない。
西には具体的な王も居らぬし、それぞれの種族が独自で動いているような形なのだ。
そんな西の光景は、リサにとって少しばかり刺激が強かったらしい。苦笑いのリサに、我はそういえば、と切り出した。本のことである。テーブルの端で鎮座していた一冊の本を手にとって、我はリサに向けて差し出した。
「この本は読み終わった。面白い話であった」
「え、ちょ……も、もう?」
「ふん。我は魔王級の頭脳と暗記力を持っている。この程度造作もない」
正直な事を言うとこの難易度でもかなりギリギリというか、これ以上難しいものを叩き込まれでもすれば表情筋と脳細胞が死ぬが、ここは堂々と笑うに限る。我の笑みにリサは大きく驚き、取り乱した言葉を吐いた。ふはは、何とも気味が良い。この様子を見るだけで価値があるというものだ。
鼻を高くする我に……リサが少しだけ残念な顔をした。我は途端にその表情を不思議に思った。だが、こういったことはすぐに説明がある。我は大きくリサの言葉を待った。
少しして、リサはおずおずとなにかをテーブルの上に置いた。それは薄く、長方形で、透明な――栞であった。透明な栞は中に金色の針金のようなものを挟んでおり、それは繊細な羽の模様を象っている。
我は驚いてリサの顔を見た。リサは相変わらずに強気な顔であったが、その唇に僅かばかりの緊張があることは簡単に洞察できた。
「……安かったから、買ってきた。無いと不便だし……何買えば良いか分からなかったから」
「うむ……助かる」
我の言葉に、リサは「もう読み終わっちゃったみたいだけど」と付け加えた。我はその言葉にはっとして、続けて言った。
「……もう一冊、貸してくれぬか」
「……また読むの?」
「当然である。アルベスタまであと二週間はあるのだ。暇を潰すには本が最適である」
我の言葉にリサは目を丸くしていた。我が次を読もうとするとは思わなかったのだろうか。確かに本は、一冊を読むのに多大な時間が掛かる上、集中力を奪われる。だが、一冊を読み終えた時の達成感はそれらに勝り、暇や集中力などいくらでも有り余っているのだ。
我が淡々とそう説明すると、リサは困ったように笑って、「また本を選ばないとね」と言った。その言葉に、我は「なるべく簡単な物を頼む」と返した。無理に難しい本に挑戦すると、恐らく大変な事になる。普段ならば不敵に『我に敵はない』と言い放つのだが、これは今回ばかりは相手が悪い。
我の言葉に、リサはふぅん、と何やら変な笑みを浮かべた。……嫌な予感がするな。それから我とリサは幾らか話をして、リサは自分の部屋に帰っていった。夜にまた本を渡しに来るらしい。
リサを送った部屋は静けさを取り戻し、我は小さくため息を吐いた。船が再び動き始めて、何だか変な気分である。
気分が悪いという程でもないが、先程まで停泊していたのが悪かったのかもしれぬ。ずっと揺れているよりも、停止と前進を繰り返す方が体に障るようだ。
まあ、少しすれば慣れるであろう。その間に鍛練でも……と思っていると、また扉が叩かれた。リサが何か忘れ物をしたのかと一瞬思ったが、違う。これはバジルの音である。
その上なんとなく不機嫌さを感じさせる音であった。我は嫌な予感がしたが、リサが出ていってからの時間から察するに、バジルはリサが我の部屋から出た所を見たに違いない。居留守は無理がある。我は諦めて、扉の方へ向かった。
我は扉の前で少し深呼吸をする。なんというか……浮気がバレるというのはこんな感じなのだろうか。我は別にリサと恋仲ではないし、バジルと交際をしているわけでもない。どちらとも、我にとっての適当を意識して対応しているつもりだ。
そんな言い訳染みた事を胸の中で思って、扉の鍵を開けた。一息に扉を開くと、そこには予想通りバジルが居た。だが、顔はいつも通りである。良く分からぬ紙袋を手から提げており、若干の微笑と共に我を見上げている。
その様子に不機嫌さは欠片ほども見えなかったが、我は身を構えたまま、何だ、と聞いた。
「いやあ、ギデオンでええ土産買ったんで、あんたに渡したろうと思って」
「……そうか」
土産というのは恐らく、バジルの手元の紙袋だろう。……だが、バジルが土産を我に渡す素振りは一向に無い。その様子に我が口を開こうとする前に、バジルが言った。
「一つ、聞いてええか?」
「……何だ」
「さっきの女、あんたの恋人だったりするんか?」
「いや」
そういうわけではない、と我は続け、そして固まった。どう説明したらいいものかと思ったのだ。顔見知りでは縁が遠すぎる。友人というのも何か違う。同業者というのも他人行儀だ。我は散々迷った挙げ句、どこか曖昧な言葉を吐いた。
「……あの女は、仲間である」
「……成る程。分かったわ」
何が分かったというのだ。我はバジルの言葉に疑問符を浮かべたが、それはバジルの目を見ることで簡単に打ち消された。答えが出た、というわけではない。そんな疑問など、ちっぽけに思えるものがそこにあったのだ。
ぱっちりとした茶褐色の瞳には、確かな笑みが浮かんでいた。口の端は勝ち気につり上がっていて、双眸は我を射抜いている。
「まあ、誰が居ても関係無いわ。別にあんたが誰と話そうと、誰と付き合おうと、それはあんたの勝手や。うちがどうこう言う義理なんて無い」
でもな、とバジルは言った。
「誰が相手でも、譲るつもりは無いで。うちは全力で……あんたにぶつかるだけや」
「……勝手にしろ」
我はバジルにどういった言葉を返せばいいのか分からず、諦めてそう言った。実際、この言葉以外の事を言ったとて、何一つバジルは変わらないだろう。こいつは自分の責任を自分で取れる女だ。結末がどうあろうと、その過程を止めることはしないだろう。
バジルは我の言葉にきょとんとした顔になって、「言質は取ったで」と笑った。続けて、紙袋を我に押し付けると、ほな、と言って去っていった。
残された我は間抜けにも放心しており、旋風のようにバジルが立ち去った後にようやく、重いため息を吐いた。問題を解決するために北へ向かっているつもりが、どうしてか問題を増やしている気がする。
扉を閉めて、我は紙袋の中身を見た。紙袋の中には、何やら白い箱がある。この時点で我はあまり良い予感が無かったが、意を決して箱を取り出し、開いてみた。
「……これは、財布……なのか?」
恐らく、革で出来た財布である。しっかりとした作りをしており、機能性にも優れている……ような気がする。見た目には高級そうであり、中々な値段がしそうだ。なぜ財布を、と思ったが……ああ、あの時か。夜の店で寝惚けた我が会計をしようとして、布の財布を取り出したことはあった。
布の財布を使っている我を気にして、こうした物を送ってきたのだろう。商人に相応しい観察眼と、物を選ぶ眼である。間違いなく、普通に受けとれば嬉しいに違いない……が、我はあまり喜べなかった。
第一に、高級過ぎる。受け取った財布には、良くわからん『ブランド』とかいうやつの刻印がされている。縫い目はしっかりとしており、見た目も我に相応しい高級感に満ち溢れていた。……が、如何せん取り回しというものが効かない。これまで布の財布を扱っていた者に対して、いきなり高級品の財布を渡されても、持て余してしまうのだ。
現状にたいした不満があるわけでもなく、逆に使いづらいというか……うむ、高級過ぎて使うのに困ってしまう。我は財布というものに高級さ等求めたことがないし、取り回しさえ良ければそれで良いと思っている。純粋に好みの問題である。
そして第二に……我が仮にこの財布を使っている所をリサかエリーズに見られれば、それはそれは面倒な事態になるだろう。我は頭が良いので、簡単に想像がつく。絶対に厄介事を呼ぶに違いない。
そういうわけで、我は財布としばらくにらみ合いをした後に……静かに箱へ戻した。悪いが、土産としてはあまり好みではない。与えられた側が何を言っていると言われるかも知れぬが、特段我が欲しいと言った訳でもない。勝手に与えられたのだから、それについて何を思おうと我の勝手である。
我は財布の入った紙袋をベッドの傍らに置いて、鍛練を再開することにした。アルベスタまではあと二週間である。向こうに着いたら……まあ、最悪の状況は免れまい。そのときに体が鈍っていては困るのである。多少は自衛できなければ、魔王として立つ瀬が無い。
加えて、リサも同じく騒ぎに巻き込まれるだろう。最悪我と共に独房にぶちこまれるかもしれぬ。
我は尻尾を鍛えながら、遠い北の国での立ち振舞いを演算していた。エリーズには遠く及ばないだろうが、我とて魔王だ。交渉にはかなりの自信がある。交渉の場にさえついてしまえば……確実に仕留められる。
その場までの遠さが問題点だが、そこは気合いと機転で乗り切るしかあるまい。
問答無用で死刑に処されるだとか、王に話が全く通じないとかでなければ……恐らく死にはしない。どちらにせよ尻尾を得た我は餓死でもなければ死なぬし、餓死にしても丸二ヶ月は掛かる。拷問が追加されれば当然短くなるが、二ヶ月もあればどうとでもなるのだ。独房から出れぬ程度では、開拓班で生き抜くことなど不可能である。
演算に演算を重ねて、我は尻尾を振った。なんにせよ、失敗は決して許されぬ。やり直しは利かないのだ。ならば、持てる全力を尽くすのみ。そんな我の決意を乗せて……船は前へ進んでいく。
―――――――――――――――
ギデオンを出航した船は快調に海を進み、次の港街であるイーグルワースへと向かった。何やら海流と風が船に対して追うように流れているらしく、予定より一日早い到着となった。その七日に起きたは大して無かった。
いや、一日一日に絞れば、それはバジルが我を夜の店に引っ張り出して云々や、エリーズの部屋に訪ねて本の自慢を云々と言えるが、それはやはりちんまりとした出来事だ。
そもそも船の上で毎日毎日珍事が起きても困るのだが、意外にも穏やかな日々が過ぎていった。
上記のようにバジルに引っ付かれ、エリーズは何やら手紙のような物を書いているが見せてはくれない。リサの渡してきた本は前よりも高い難易度で我を苦しめた。文章自体は非常に素直だが、『神々を冒涜する言葉を吐いた結果、その日に喋った文字の数だけ主人公の寿命が削れる』という設定のせいで、恐ろしく会話文が無い。なので、殆どが主人公の心情か情景なのである。
喋ることが出来ないことで生まれる周囲との亀裂や、主人公の孤独、絶望。それでも主人公を信じる恋人等々面白い要素に事欠かなかったが、如何せん凄まじい。我は度々リサの部屋に訪ねて、悔しくも文章を教わることになった。流石に一人では限界があったのである。
バジルはそんな我を引っ張り回しては甲板へ誘い、仲を深めようとしてきた。が、我が財布を使っていないこととその理由を聞いた時には、かなり凹んでいた。どうやらバジルはあの財布を選ぶまでに何軒も店を梯子したらしい。
何度も何度も我への土産を考え、そうして選んだ一品だったのだが……どうやら男性経験の少なさが致命的な一助となったらしい。
その日は萎れたバジルというなんとも珍しい姿を見ることができた一日であった。
また、店には良くヴァストラと猫背の男が居たが、ヴァストラは我らの姿を見るなり直ぐに帰ってしまうし、猫背の男に関しては全く何者なのか分からない。ヴァストラに関しては若干申し訳なさがあるが、謝りはしない。
奴とはこの一週間の間に一度だけ廊下ですれ違う時があった。その時我は特に何もしなかったが、あろうことかヴァストラは、我の事を睨んできたのである。
そちらの事情は知っているつもりだが、だからといって子供の癇癪に付き合う義理はない。その一件から、我とヴァストラの間には大いなる壁が生まれたように感じている。
そんな一週間が過ぎ、イーグルワースへたどり着いたが……ここでは多少の出来事があった。正直我はイーグルワースへ降りていない。甲板からちらりと西の大地を見ただけである。見覚えしかない山々と湖、空を飛ぶ良く分からない生き物と遠くを飛ぶ亜竜らしき影。フナノリガラスが空を飛び、色とりどりの街には同じく十人十色の人々が住んでいた。
我はそれを渋い顔で見つめ、そうして部屋に戻った。あれをまるごと消し飛ばしたと思うと、何だかまともに相対することが出来ない。魔王らしくもない逃げであるが、この問題と向き合うには、もう少し時間が必要であった。
そんな暗い思案をしていた我に、例の時間がやって来た。リサやバジルが帰ってきたのだ。
リサはイーグルワースの土産に、何やらクッキー菓子を持ってきた。どうやらイーグルワース伝統のもの、というわけではないらしいが、それが逆に良かった。そうであったら気まずくて味が鈍る。適当な菓子屋で買ってきたそのクッキーは、我に合わせてビターな味付けになっており、我はその味に舌鼓を打った。
リサは我のそんな顔を満足げに見つめていたので、何だか変な気分であったが、旨いことには変わりない。
続けてリサの後にやって来たバジルが持ってきた土産は……砂時計であった。訝しむ我であったが、どうやらただの砂時計ではないらしい。バジル曰く、魔道具なのだという。またそんな高級なものを、と呆れる我であったが、その呆れは直ぐに打ち破られる事になった。
なんとその砂時計は、ひっくり返す前に聞いた最後の言葉を、砂時計が落ちきると同時にもう一度喋るのだ。大体五分の差を空けて、砂時計が言葉を繰り返す。何の役に立つのかと思ったが、それ以前に砂時計の機能が思った以上にしょぼく、あまりにも下らないものなので、我は真相を知ると共に思わず笑ってしまった。
悔しいが、我はそういった馬鹿な笑いに弱いらしい。意味不明な置物に対する我の笑いを、バジルは感動の眼差しで見ていた。何だかムカつくが、ここで機嫌を悪くするのは空気が読めていないだろう。我は配慮の塊のような男なので、諦めてバジルから砂時計を受け取った。
そうして、我らは更に次の目的地へと出航した。次の目的地――それは、この旅の到着地点であるアルベスタである。アルベスタはイーグルワースから近く、5日でたどり着けるという話だ。我は何となく実感が湧かなかったが、バジルに連れられて甲板へ出る度に、確かに寒さを感じる。遠くに見える島々に、何か白いものがあるのを見たときさえあった。
空を飛ぶフナノリガラスは六匹から三匹に数を減らし、寒々とした空を平気で飛んでいる。甲板へ出ている人間の装いも厚着が目立ち、寒さに弱い我も少しばかり厚着になった。
しかし砂漠の服は肌を守る長袖になっていても、空気を通しやすい布で出来ている。我の体を暖めることは出来ない。だが、その点に関してはリサが根を回していた。流石に北へ向かうということで、防寒具を買っていたらしい。
我は人生で初めてもこもことした手袋やマフラーを纏い、分厚い上着を着ることになった。その姿を見たバジルは何やら『ギャップありすぎやろ』と意味不明に興奮していたが、我は防寒具を存外気に入っていた。
それを口に出すと、バジルは砂時計と一緒に買っておくべきだった、と悔しがっていた。貰えれば嬉しかったかもしれないが、何となくどちらを着るかで悩む事になったかもしれぬ。
そんな風に我らは海を進み、ついに我は例の本を読破した。難敵というか、強敵であった。9日にも渡る解読により、ようやく沈んだのである。
世界を救うために何百文字もある呪文を詠唱し、血を吐きながら己の生きる意味を悟る場面や、最後の五文字を恋人への『あいしてる』で締め括ったり、そんな主人公を神々が赦したりと、面白い場面には事欠かなかったが……とにかく読むのが難しく、いい話だったというよりも、やっと読み終わったという気持ちの方が強かった。
もうしばらく活字は御免だという気持ちにさえなったのだ。読み終わった夜は、リサから貰った栞をようやく本から離して、我はベッドへ倒れ込んでしまった。当然悪夢を見る羽目になったが、前回があまりにも酷すぎたのか、もしくは精神状態が安定したいたのかは知らぬが、どうにか耐えることはできた。
我が命乞いをする人間の群れを殺す悪夢であったが、目覚めさえしてしまえば怖くはない。汗を拭って、その日は静かに過ごすことが出来た。
リサに文字を習い、エリーズに北の情報を聞き、バジルに引っ張り回されて、ヴァストラとすれ違い、バーの店員の名前が『ラジ』だと初めて聞いて、猫背の男をちらりと目で追って……そうやって、我らの日々は過ぎていった。船は海を進んでいった。
ゆらりゆらりと北へ向かって、穏やかに一日を噛み締めて……そうして我らはたどり着いた。
ミルドラーゼから発って、良くわからん女に絡まれ、二つの街を抜け、何人か顔見知りを作って……そうして、船旅の終点へとたどり着いたのである。
魔王の欠片が眠る地にして、エリーズの故郷。遠くからでも良く見える、雪の降りしきる国――アルベスタへと。




