第八十五話 金色の魔王と黒い森の魔女
「……」
我はゆっくりと本を閉じた。二日掛かって、本を読み終わったのである。船はギデオンの街にたどり着き、船の中は静けさを持っている。船乗り含め、乗客が買い物ついでの観光をしているのだ。恐らくリサも外に出ているだろう。
我は読み終わった本の裏表紙に指を触れ、静かにため息を吐いた。これ程までに長い本を読んだのは初めてである。一応これより長いものを手に取ったことはあるが……当然読めてはいない。飛ばし飛ばしというか、適当に雰囲気を読んでいたのだ。
我はかなりの枚数になった紙の束を集め、四隅を揃える。なんとなくだが、捨てるのは忍びなかった。かといって持っておく場所もない。次の港に着いたときは、鞄の一つでも頼んでみるか、と思いながら、我はゆっくり背もたれに体重を預ける。
時計は十三時を指しており、リサ曰く外は綺麗な快晴だという。
この二日、我は一度として外に出なかった。純粋に気乗りしなかっただけだが、その結果、この二日で起こったことは特に無い。敢えて特筆するとすれば……バジルが我の部屋を訪問したこと位だろうか。バジルは一緒にギデオンを観光しようと誘ってきたが、気分が乗らないと断った。粘られるだろうと思っていたが、バジルはあっさり手を引いた。
どうやら我がしつこい輩を嫌うことを理解しているらしい。段々と我の好みを埋めてくる感じがなんとも言えないが、我は特に何を言うことも無かった。
この船は午後6時までギデオンに停泊し、次の港町であるイーグルワースへ向かうとリサは言った。イーグルワースまでは大体8日かかり、そこから一週間でアルベスタへ到着するらしい。三週間船の中か、と最初は思っていたが、船に慣れようとしているうちに三分の一が過ぎようとしている。
我は咳払いをひとつして、目の前の本に意識を戻した。我は本当に本を読まないので、この本がどれだけ面白いかを正統に評価出来るか分からない。どれだけ話が理路整然としていて、文章が美しいのか分からない。だが、我の中にある絶対的な感性で評価をするのならば……面白いと思った。いい話だったとは言えぬが、元よりこの物語は子供を食う化け物を題材にした話である。それは覚悟の上だった。
……慌てて少年に告白をしてしまった娘はあまりの恥ずかしさにその場から逃げ出そうとした。だが、その手は他ならない少年に掴まれてしまう。どうしてだか分からない娘に、少年は自分も娘の事が気になっていたことを告白した。
娘は衝撃に固まったが、少年の目に嘘は無かった。なんと二人は、言葉一つ交わさずに同じ思いを抱えていたのだ。二人は見つめ合い、手を重ねて……そうして、初々しい口付けをした。
それから娘と少年との淡い恋が始まった。会えない日にお互いを思い、恋い焦がれながら、その距離が結ばれる度に互いの思いが確かになっていく。お互いへの愛が育っていく。そんな日々が続き、連なって……何年もの年月が過ぎた。
娘は女になり、少年は男になった。二人は遂に結ばれて、晴れて結婚をすることになった。ささやかな祝福を受けながら二人は幸せを享受し、穏やかな結婚生活を送った。
なんともありきたりというか……まあ、つまらない夢物語であると我は思っていた。どこに魔女が出てくるのだとそろそろ焦れてきたが、恐らくこの二人の生活が何かに脅かされるのだろうと予想していた。
娘が誰かしらに潰されるか、もしくは男が兵役で連れていかれ、戦死する等して女が取り乱し……そうして魔女が出てくるのだと。
――だが、違った。そうはならなかった。
……二人は幸せな結婚生活を送った。男が働き、娘が家を支えて、何不自由の無い生活が続いた。結婚から二年で子宝にも恵まれ、一人の男の子を得た。そんな順風満帆な日々は……結婚から五年を境に少しずつ腐っていった。
元々、二人の間には出会えぬ時間があって、大きな距離があった。越えられない壁があったのである。それが逆に二人の恋を燃え上がらせ、遂に二人は結ばれ、壁は消えた。
……そうすると、なんだか刺激が足りなくなる。燃え上がっていた恋は、下火になっていく。最後の壁を、越えられぬ試練を越えてしまったのだ。その果てには穏やかな凪の海だけがあった。最初こそはその凪を二人で見ることが何より幸せであったのだろうが、人間というのは常に刺激を求める。
足りなかったのだろう。お互いに。
あれだけ男を愛していた女は……いつしか、男が居ないうちに間男を家に招くようになっていた。そして男は、仕事と偽って、別の女と体を重ねるようになっていた。お互いにその事に気がつくことはなく、背徳感と緊張感に酔いしれて、強い刺激を求めていた。
勿論、お互いに愛がなかった訳ではない。物足りなかった。ただそれだけである。表面上は幸せな家庭であったが、その裏には黒いものが隠れていた。
だが、そんな二人を繋ぐものがあった。子供である。正真正銘、二人の愛の結晶であった。子供はすくすくと成長し、何も知らずに笑顔を振り撒いた。知らぬ男の来訪に笑い、父親からする知らない臭いに首をかしげた。子供は子供らしく、純粋で、純朴であったのだ。
その子供を介して、二人は確かに夫婦であった。……だが、そんな日々は脆く崩れ去ることになる。子供が五歳になり、夫婦の不倫が二年を越した時、子供があどけなく、母の不倫相手について言葉を漏らしたのだ。
それが、すべての終わりの言葉だった。同時に始まりの言葉でもある。子供の言葉に男は怒り狂い、母親は取り乱す。
そうして、全てが壊れたのである。娘は顔を赤くして叫び、男は娘の首を掴んで強かに殴った。二人は互いを激しく罵り、聞くに耐えない罵詈雑言を雨のように吐いた。
その果てで、遂に男は家から飛び出した。破局である。娘は顔から血を流しながら床に倒れた。そうして現れた沈黙に、娘はこう言った。
あんたが居なければ、と。そして、額の傷を優しく撫でる子供を強かに殴り付け、小さな体に馬乗りになった。そしてそのまま、子供の首に両手をかけ、ほっそりとした首を全力で締め上げ――
『――許せないッ……!!』
その言葉と共に、娘は後ろから何か鈍器のようなもので殴り付けられた。その一撃は強い怒りと憎悪が滲んでおり、あまりにも強いものだった。娘の頭蓋は砕かれ、一撃のもとに命を絶った。
娘を殺したのは……一人の黒髪の女だった。
女は、ずっと二人を見ていた。いや、ずっと少年を追っていた。娘よりも前に少年を知って、けれどもその臆病な性格ゆえに恋を告げる勇気さえなかった。だからずっと影から少年を見て、けれどもそんな自分が気持ち悪く、なんとか止めようとした。
そんな日が続いて、娘が現れたのである。流星のように現れて、そして女にとって本当に大切だった少年を……簡単に奪い去っていった。ずっと前から好きだったのに、勢いの告白に負けてしまった。女は物陰からそれを見ていた。自分の恋が破られ、好きであった少年が顔を赤くして娘への愛を告げ――そして、優しく口付けをするところを。
女は気が狂ってしまうかと思った。思ったが……女はバカではなかった。子供の頃から本ばかり読んでいて、理性的であった。そして、自分があまりにも奥手だから悪いということも、自分が声を上げる資格さえないことも充分知っていた。
だから、女は少年への恋を諦めた。何度も涙を流して、後悔して、それでも少年の幸せを願って、すべてを胸の内にしまいこんだ。
少年が嬉しそうな顔をして路地裏から出てくるところを偶然見かけても、楽しそうに娘と町を歩いているのとすれ違っても、女は心を殺して、むしろ微笑を浮かべていた。大丈夫だ。彼が幸せなら、それでいい。自分はそれで充分だと。
そうやって月日が巡って、巡って……そうして、この様だ。本当に偶然、市場から家に帰ろうとしていた女は、怒り心頭で走る男の姿を見た。男から距離を置いていた女だったが、彼の顔が幸せで無いことだけは簡単に理解できた。
胸騒ぎがして、女は男の家に向かった。男が建てた夫婦の家と女の家は近所で、女は正直当て付けかとイライラしていたが、ここにきてそれが役に立った。
そうして見たのは、あの女が彼との子供の子供を殴り、あまつさえ殺そうとする様子だった。女の堅い理性は、その瞬間に轟音を立てて崩れ落ちた。
許せない。許せない。理由なんてどうだっていい。彼の愛があって、彼との幸せな家庭があって、彼との大切な子供がいて……それだけ満たされていて、それなのにどうしてなんだ。
何が不満なんだ。
許せなかった。こんな女に、私は負けたのか。こんな女に、私は青春の全てを奪われたのか。
そうして娘を殺した女は、すぐに子供の心配をした。どれだけ悔しかろうと、それは彼の子供であった。そして、子供には罪がない。女は子供の首もとに手を添えて……そして固まった。
ああ――死んでいる。脈がない。体温もない。柔らかく、床に落とした布袋のように、子供は死んでいた。
あんまりな死に方であった。愛していた母親に首の骨を折られるなど、報われない。女は先程までの殺意や怒りを胸の中にぐっと押し込んで、優しく子供の亡骸を抱き締めた。子供は酷く歪んだ恐怖と苦痛の顔をしており、瞳は半分開いていた。
女は優しく子供を床に下ろすと、その瞳をそっと落とした。そして、もう返事の期待できない子供に対して、穏やかな声色でこう言った。
『……助けてあげられなくて、ごめんね』
女は強く拳を握って、続けた。
『……もう、させないから。君みたいに、可哀想な子供を産ませないから……絶対、絶対に』
無責任に産まれた子供を、親の罪で死ぬことになる子供を、女は認められなかった。そして、同時に思った。
――芽は、早い内に摘んでおくべきだった。
そうだ。最初にこのクソ女と彼が出会う前に、この女を殺しておくべきだった。不遇な出会いは最悪の結末しか呼ばない。ならば、出会いから壊すべきだ。歪んだ出会いは要らない。悲しい結末も要らない。でなければ、今目の前で冷たくなっていく子供のような子達が、何人も産まれることになる。
女はゆっくりと立ち上がって、そして玄関から出ていった。最後に一つ、この決心を固めるために、会いたい人がいたのだ。遠目で良いから見たい、大切な男の子がいたのだ。
やはり、悪い芽は出会いの段階から潰すべきだと、そう確信させてもらうために、沈痛に後悔をする優しい男の姿が見たかった。
……だが、その願いは歪んだ形で叶えられた。町中を駆け回った果てに女が見つけたのは、知らない家で知らない女の手を引く男だった。真夜中、暗い窓辺からそれを見た女は……女は、その時完璧に壊れてしまった。
女は発狂しながら夜の町を駆けて、駆けて……そうして、夜の森へとたどり着いた。そこから、彼女はほとんど獣のように生きた。幸い、彼女には魔法の才能があった。牙を剥く獣を殺して食らい、腹を下してはその隙を狙う獣をまた殺して……そうして数年が過ぎたとき、女はようやく正気を取り戻し、同時に一つの決断をした。
ああ――殺そう。殺して、食ってしまおう。悪い芽を、罪深い子供を。
願わくば、その芽が芽吹かない内に。
女は魔法で森を黒く塗った。緑の葉も、湿った大地も黒く塗った。幸い、それだけのことをする力が、この数年で養われていた。森を黒く塗った女は、続けて黒いローブを纏った。そして最後に、自分の顔を黒く塗る。
忘れない為だ。自分が何者なのか、何をしたいのか、何をされたのか。その全てを忘れないために、己を見失わないために――そして始まりの黒髪を……忘れてしまわない為に。
そうして女は子供を食らう。悪事を犯した子供を食らう。真っ黒の装いで夜を歩き、悪童を一呑みにしてしまう。
そんな女は忽ち噂になって町に、国に、世界に広まり……女は『黒い森の魔女』と呼ばれるようになったのだ。
「……初心者に薦める本にしては、中々難しいと思うのだが……」
我はため息を吐いた。そのため息で紙束が揺れて、我はあわててそれを押さえる。……やはりリサは当然として、エリーズも多少どれが簡単かを見失っていたのだろうか。元々エリーズは王族であるし、リサよりも深い教養がある。その上しっかりと本を読んでいたので、この本を簡単と言ってのけてしまうのも理解はできる。
……まあ、それ以前にこれ以上に簡単な本がない、という事がありうるのがあれだが……その場合はなんだか悲しくなってくる。そうは思わないでおこう。
まあとにかく、我は本を読むことができた。読破である。我は今一度、本の表紙に触れた。革の表紙には『黒い森の魔女が来る』の題名が刻まれていた。
なんともまあ……救いの無い話であった。誰も彼もが報われない。どこかで歯車が一つ噛み合ってさえいれば何も起こらなかった。そんな物語である。
我には恋だ愛だというのが分からぬし、女や娘のようにうじうじと悩む気持ちも、男のように他の女に目を向ける気持ちも分からぬ。さっぱりだ。
だが、その上で完璧に予想を裏切られた。本の半分を過ぎて、魔女が出てきてさえいなかったのだ。流石に予想できまい。ストンと腑に落ちて、何とも言えない読了感というやつに、一丁前に浸れる一冊だ。
なんにせよ、つまらなくはなかった。それで充分である。我は本から目を上げて、うんと背伸びをした。なんだかいい気分である。上機嫌とはまた違う……言うなれば、心の奥が軽くなったというか、一陣の風が吹いた感じである。
とにかく気分が良いので、適当に鍛練をしようと我は思った。鍛練をしたあとは適当に甲板の店にでも寄って……リサとエリーズに一つ自慢をしてやろう。特にエリーズとは最近顔を会わせていない。
この旅の大きな目標の一つとしてエリーズが居るのだから、顔を会わせぬのはなんとなく損である。二人と顔を合わせた後は……また、一冊借りてみるとしようか。
そんな事を思いながら、我は金色の尻尾を左右に振った。
ヴァチェスタの言った『エリーズの価値観が少しずれている』というのは不正解です。
ですが、これ以上簡単な本がない、という訳ではなく、これ以上適切な本が無いのです。
これ以上に簡単な本は基本童話調で、大体悪いドラゴンか魔王が出てきて……と、そういうことです。




