第八十二話 バジルを一つまみ
深々と緊張の空気が満ちる店内で、バジルがまた口を開いた。が、その前に白髪の男が咳払いをして、素早く席を立つ。
「す、すみません……ちょっと気分が悪くなったので……これ、お代です」
あまりにも急な男の行動に店員は目を丸くしていたが、男は構わずカウンターに銀貨を置くと、釣りも貰わず店から離れていった。残された我らはどうすることもできず、左端の男は未だに我に対して緊張を含めた目を送っている。
店員がぎこちない仕草でカウンターの銀貨を手に取るのを眺めたバジルは、苦笑いと共に後ろを振り返った。甲板の客の視線は我らに集中しているが、それはどうでもいい。
バジルの視線の先に、白髪の男の後ろ姿があった。男は鍛えられた体や気品などを捨て置いて、ただ足早にこの場から離れている。バジルがくすりと笑って、言った。
「あいつ、まだ引きずっとるんか」
「……何が何だかさっぱり分からぬ」
あの男は何者か。バジルと面識があるらしいが、どういった関係なのか。何を引きずっているというのか。我の中で絡まった疑問を察したらしいバジルが、苦笑いのまま口を開いた。
「……ヴァストラ・ジークレスト。アルベスタで騎士団の団長をやっとる子や」
「……」
あの男が……北の騎士団長だと? 道理で体が鍛えられていると思ったが、流石に予想外である。騎士団の長ともなれば、確実にエリーズと面識があるだろう。間違いなく顔を合わせれば最悪の事態が起こりかねない。そもそも何故そんな人間がこの船に乗っているのかさっぱりである。騎士団というのは余程暇なのか?
我は内心で驚愕と困惑を綯交ぜにしながら、続くバジルの言葉を待った。
「平民上がりやけど気品があって、顔も頭も良い。そのくせ金と権力には興味がないとか言ってまうような男や。んでまあ……一年くらい前にうちが振った男やな。流石に立ち直っとると思ったんやけど、あの様子だと――」
「――おい、待て」
「ん?」
先程から情報の量がおかしい。そのヴァストラとやらが世間一般で言うところの良い性格というやつだということは理解できた。だが、それに続く言葉があまりにも衝撃的過ぎる。この女が……騎士団長を振っただと? 我の制止を受けたバジルは、どうしたん? と呑気な顔をしていた。
「振った、というのは具体的にどういうことだ。理解が追い付かぬ」
「いや……そのままやけど。商売の話で結構顔合わす機会あったから、適当におちょくっとったら……求婚されてもたわ」
ま、振ったけどな、とバジルは続けた。……道筋は理解できる。バジルはエリーズ曰く、アルベスタでも有数の商会の女だという。王家と顔を会わせ、備品や騎士の装備を卸すことはあるのかもしれない。そこで王の側に控えていたヴァストラと顔を合わせたのであろう。
客観的に見れば、バジルはかなり顔が整っている。その方向性は美しい、ではなく可愛いらしいの方面に伸びているが、童顔に良く合う亜麻色の髪と、ぱっちりとした瞳がある。その癖体の方は豊満で、気安い性格をしている。
我にはとんと何も感じるところは無いが、そこらの男にとっては良く映るだろう。
我の脳裏で、バジルとヴァストラが並んだ。少し身長の差はあるが、かなり似合っていると言える。だというのに、バジルはヴァストラの求婚を退けたらしい。それを考えれば、先程のヴァストラの行動は納得というか、当然なのだろう。
奴は見た目には純朴そうであった。一年前と言っていたが、未だにバジルの事を引きずっていてもおかしくはない。止めにバジルの放った『あんたの部屋に行く時に限って』や『変な勘違いをするところだった』の台詞が刺さり、ヴァストラはこの場から立ち去ったのだろう。
そんな事を考えていると、何やらバジルがニマニマと生意気そうな顔をしていた。
「心配せんでも、今はあんたに首ったけや」
「は?」
「おぉう……結構冷たいなぁ」
なんとも空気の読めないバジルに本心からの言葉を放つと、うげえ、と萎れていた。そんなバジルに、我は少し考えた後にこう聞いた。
「……おい」
「ん?」
「どうしてヴァストラを振ったのだ。お前から聞いた話では、相当に良い人間なようだが……充分『買えない』男では無いのか?」
多少話しただけであるが、ヴァストラは実に普通の性格をしていると我は思う。見た目にそぐわず多少子供らしい所はあるが、言い換えれば純朴かつ純粋ということだ。他の女にうつつを抜かすようなことはしないだろう。
我の言葉にバジルは来たか、という顔になった。どうやら我の言葉を予想していたようである。バジルは少しだけ昔を懐かしむような顔をした。
「……確かに、あいつは良い男や。顔はあんたに負けとるけど、アルベスタで騎士団団長やれるだけの強さの男や。性格もまともやし、誠実やし、金も権力も責任感もあるくせして、一度も傲慢さらしたことは無いで」
でもな、とバジルは続けた。
「あいつは近くで見てみると、案外安い人間や。うちが手を振るだけで簡単に買えるくせして、特に惹かれる所なんて無い。酷い言い方ってのは百も承知やけど……犬みたいな奴なんよ。ヴァストラは」
「……犬?」
「そうや。あいつは騎士団長で、国のために生きてきた。団長の仕事を欠かしたことは絶対に無いし、必ず命令は守るし、嘘は絶対に言わんし……秘密を喋ることも無い」
それのどこが安いのだ、と我は思った。だが、バジルはそんな我に笑いかけながら、「だから、安い男なんよ」と言った。
「あいつは、騎士団長になる前から殆ど騎士の仕事を欠かした事がないんや。団長になってからは本当に酷くてな……確か、休暇全部捨てて七百連勤して、王様にブチギレられてたわ」
あんときのあいつ、相当に参ってたらしいで、とバジルは言った。
「仕事で体がっちゅう訳やない。仕事を休めって言われたことに参ってたんや。それからは王様が目ぇ光らして、毎年ヴァストラに休暇で海外に旅行させとるんよ」
「……この船に乗っているのも、それが原因か」
そうや、とバジルは言った。……正直、我はヴァストラに共感があった。我も、魔王として生きていた頃には同じような事をしていた。毎日を魔王としての職務に捧げ、魔族の為に生き……しかし働きが褒められることは一度としてなかった。
最後の一点を除いてだが、それが我とヴァストラとの共通点のように思われた。
そんな我の胸中を知らぬまま、バジルが続ける。
「ヴァストラはな……腕は強くても、心は弱い男なんよ。何かに寄っ掛かってないと、どうして良いか分からん男なんや。命令をいっつも待ってて、自分で動かない……犬みたいな奴や」
「……」
「だから、うちはあいつを振った。あいつには、あんたみたいに何か大きな事をしてくれるっていう何かが無かったんや。ずっと自分の周りを見てて、そこを護ることが一番だと思っとるからな」
まあ、友達付き合いするなら良い奴やけど、とバジルは苦笑いした。我はバジルにどう言葉を返したら良いか考えていた。ならば我には、何か大きな事をするという『何か』があったのか? 確かに我は多くの事を為してきた。だが、その力の源は我ではない。我は常にあの人の残像を追っている。そんな我が……買えない男なのだろうか。
そんな思いが我の心の中を巡って、回り、口からぬるりと零れ出た。
「……お前は、我に大きな事を為せると思っているのか」
口に出してすぐ、ハッとした。全くもって我らしくない。後ろ向き過ぎる言葉である。普段の我ならば決して吐かないその台詞に、バジルは目を丸くしていた。我はすぐに言葉を濁そうとした。言葉を撤回し、適当な……そうだ、あの鳥についての話をしよう。我は知らぬが、バジルは知っているかもしれぬ。
我は内心で焦りながら口を開こうとしたが――それよりも先にバジルが言った。
「当たり前やろ」
我は言葉を飲み込んだ。我の隣に座るバジルはニッ、と強気に笑っていた。その瞳には力があり、つり上がった唇には確信が秘められていた。その顔はまさしく商人然としていて、我は思わずたじろいでしまう。
「うちは商人や。それも一流のな。うちの眼には、確かにあんたの値段が映っとる。あんたは……今のうちじゃ買えん男や。世界中を巻き込む男や」
「……」
「超が付く一流の商人の言葉やで? あんた、胸張っときや。あんたが何考えてるのか分からんけど――もう少し、自分を信じたってええやろ」
な? とバジルは笑った。我はその言葉に固まってしまい、ろくに返事が出来なかった。自分を信じる、か。どれだけ思考を取り繕おうと、我の根底には劣等感がある。蜥蜴の記憶が根付いている。だとしても、その上で……今の自分を信じても、いいのだろうか。
無言の我に、バジルは困った顔をした。
「いや、なんか言ってくれんと、うちが恥ずかしいだけやないか」
「すまぬ」
続けて我は何かを言おうとして、それを飲み込んだ。そして少し考えて、もう一度言葉を吐く。なんとも面倒だと思っていたこの女に対して、我は初めて微笑を向けていた。
「助かった。その言葉、少しの間借りておく」
「…………ぉお、おう」
「どうした?」
「いや、急に笑うの止めぇや。心臓に悪い」
「は?」
何を言っているのだ。バジルの顔色は商人らしく変わらないが、どうしてか心臓を押さえる仕草をしていた。急に体調が悪くなったのかと思ったので、急に笑うな、という言葉に疑問符が浮いていた。
我は少し考えて……そして理解した。
「そうか。我が美しすぎるのか」
「……なんか嫌やな。否定できんっちゅうのは」
「ふむ。気を付けるとしよう」
「化粧してんのか知らんけど昨日よりキラキラしとるし、それが悪いわ」
「これが我の素だが?」
我の言葉に、バジルは「うっそやろ」と返した。我は……というより魔族は基本化粧をしない。強さが魅力になっているのと、化粧は返り血で簡単に落ちるからである。我もこれまでに血の化粧以外はしたことがない。
そんなことを思っていると、おずおずと我らに声が掛けられた。正確にはバジルに向かって、である。
「あーっと……お客さん、何か注文とかは?」
「お、忘れとったわ。すまんな兄ちゃん。あんたもなんか飲むか? うちが奢ったるでー?」
そうである。ここは店だ。我らは注文もせずに駄弁っていたに他ならない。ちらりと周りを見ると、甲板の殆どが我らを見ていた。なんとも不躾であるが、仕方があるまい。流石に会話の内容までは聞き取られていないだろうし、気にはしないことにしよう。そういえば、左端の男はどうしているのだろう。見てみれば、未だに猫背で席に着いていた。が、どうにも膝の揺れが速い。
と、ここで我の左肘がちょんちょんとつつかれる。見れば先程まで自信に溢れた顔をしていたバジルが、少しばかり不満そうな顔で我をつついていた。
「あんた、聞いとったか?」
「……正直な話、何の話か分からぬ」
我が素直にそう言うと、バジルは項垂れた。
「うち、そんなに魅力無かったんかなぁ。結構顔も胸も良いと思うんやけど……」
「……我は外見で人間を見ていない」
「うげえ、一番信じられんやつやん」
本当である。我にとって人間の見た目はどうでもいい。興味がない。……だが、その中身には多少惹かれる物が無いとも言えない、ような気もする。とにかく、我は人間の外見など見ていないのだ。
バジルは手早く店員に「オススメ二つ頼むで」と言い、硬貨を一つカウンターに置いた。……当然の如く金貨である。我らが懸命に働いて得られる報酬をさらりと払われたことに、我は微妙な顔をした。
ついでに、我の意思を置いて二人で飲むことが決まっている。その点に関しては、元々時間を潰すためにここに来ているので不満はない……が、我には少しばかり眠気があった。先程の一杯で眠気が死んだかと思ったが、そう簡単には散らないらしい。
相変わらず微妙な顔の我に、バジルがさてさてと笑みを浮かべた。
「酒が無いのは残念やけど、その分飲めそうやな」
「そうか」
素っ気無い我の返事にバジルは唇を尖らせ、続けてニヤリと笑った。よく表情の変わる女である。
「あんた、好みの女のタイプとかあるん?」
「……そうだな。まず、五月蝿くない奴である」
「うぇ、こりゃ痛い」
バジルの言葉に応えるように、カウンターへグラスが置かれた。店員が控えめにごゆっくりと言って、そそそ、と我らから離れる。客観的に見て、我らは王族と大商人である。いくら気安い店員とはいえ、距離を置くのも無理はない。
我は咳払いをして、バジルを見た。何故だか知らぬが生き生きしている。これは先が長そうだ、と思いながら、我はグラスに手を伸ばした。




