第七十七話 海を渡る魔王
第二章『大好きな貴方に』 開幕です。
我らが船に乗って数時間が経った。我らが案内された貴賓室は広々としており、リサの家には無かった便利な家具、丁寧な対応、寝心地の良い布団……果てには小さな浴槽すらあった。どういう原理かはさっぱりであるが、なんと湯が出る。暖かい湯が出るのだ。
そんな部屋が我ら三人別々に分け与えられているというので、もうなんと言うべきか分からない。
亡霊を倒した果てに我が唯一願った事がこれなので、相応の対価と言われればそれまでだが、それにしても良い待遇であった。なにやら我らの部屋がある階層には貴族などの賓客しか足を通せないと説明された。部屋の鍵になにやら金属の札のような物がついたものがあり、それを見せることでしかこの階に入ることが出来ないらしい。騒がしくなるだろう人間どもに対してどう対応をしようかと考えていた我にとっては、渡りに船である。
そんな待遇を受けたリサとエリーズは例のごとく縮み上がり、我は堂々と笑った。船旅は初めてであるが、どうにも快適な旅になるだろう。……そんな思いが災いを呼んだのだろうか。というより、我は幾度か経験しているが、調子の良いことを言った時に限って何か面倒が起きる。
問題が起こったのは、船が出航してすぐであった。
……船酔いである。
我はこれまで、船に乗ったことはない。移動するにも我は一人であるし、基本的に魔法で翼を生やせば竜と同程度で飛ぶことが出来る。最悪地上を走るだけでも風より素早い移動が可能なのだ。船など乗るわけがない。唯一、魔大陸から離れた海に居る魔族と会談するときは船を使う話も持ち上がったが……結局我は自分の周りに強力な風を纏い、無理矢理深海に突っ込んで会談をした。単純に色々準備をするのが面倒だったのである。
ちなみにその部族との交渉は決裂した。なにやら傲慢な一族で、魔王とて深海では我らに勝てぬだろうだのと言っていたが、一人ずつ顔面を殴って話を終わらせた。目的よりも良い条件で協定を結べたので、我としては上出来である。
そんなこんなで、我は船に乗らない。乗ったことがないので、船酔いをそもそも知らなかった。我は動き出した船の揺れに少しだけ驚き、まあこんなこともあるだろうと思っていた。だが、出航してからもそれは続く。部屋は左右に揺れ、カップの中の水も波立つ。これでも魔法による制御があるらしいが、どうにも気に入らなかった。
大きく揺れることはないが、まるで酔っぱらったように足元が揺れる。不定期に、不規則にである。どうやらこの辺りは風と海流が強いらしく、多少揺れるのが普通らしい。
最初こそは威風堂々としていた我であったが……だんだんと気分が悪くなってきた。逆鱗さえ所持していれば、あれは我に対するすべての異常を弾くので、恐らく船酔いにも効果がある……はずである。
だが、無い物ねだりをしてもしょうがない。我は船の揺れに気分を悪くし、リサやエリーズはそんな我を案じた。なぜ二人が平気なのかと、若干機嫌を悪くしながら問うと、どうやらリサも多少気分が良くないらしい。だが、我よりは状態が悪くなかった。馬車やラクダで乗り物に耐性があったらしい。言わずもがなエリーズは、客船と違って荒い運航をする貨物船の狭苦しく薄暗い倉庫の中を経験しているので、この程度は余裕であろう。
リサが甲板に出ることを進めてきたので、リサに連れられて甲板に出ると、そこには中々良い景色が広がっていた。青々とした海に、雲ひとつない空。船底が海を掻き分ける音と、何らかの鳥の鳴き声がする。広々とした甲板の上には真っ白な帆が膨らんでおり、我らと別に海を眺めて楽しむ人間たちの姿があった。
全員が全員、貴族だなんだというわけは当然無く、中には冒険者のように防具を取り付けた者や、魔法の杖を握りしめているものも居る。
その光景は実に心が休まり、暇ならば甲板で海を眺めるのも悪くはないな、と思った。思ったが……その時の我には難しかった。海の臭いである。塩のような、護謨のような、喉の奥で青臭く苦い臭い。それが甲板であるとどうにも強い。海の上である以上それは当然のようにあるわけだが、気分が悪い我にはかなり辛いものであった。
我は魔王として、常人の何十倍という五感を持っている。何キロと離れた場所の物を見て、石の天井で隔てた二階で呟かれた独り言を聞くことができる。味と触覚に関しては普段の生活であまり目立つところは無いが、触覚は亡霊との戦いで実に活躍をした。
それと同様に、嗅覚も並外れているのだ。別に、臭いが強くなるというわけではない。我もリサも、嗅いでいる臭いの大きさは同じなのだ。
そうではなくて、我は臭いをリサより正確に嗅ぐことができる。どんな臭いが混じっているか、その深さを全て知ることができる。その感覚は、五感の全てにある。つまるところ、我は甲板で更に気分を悪くした。
我はその旨を二人に伝え、足早に甲板を後にした。リサは特に気分を悪くした様子は無く、むしろ気分が良さそうであったので、我一人で戻るのが良いと判断したのである。
そうして船内に戻り、何度か船内の階段を下りて、我は自分の部屋の前まで戻った。度重なる気分の悪さは、胸と胃袋に砂を詰められたようである。流石に吐くような愚行は犯さぬが、吐きたい気分であることは事実であった。
そんな思いを持ちながら部屋の鍵を開けようとすると……横から声が掛かった。知らない女の声である。
「おぉ、兄ちゃん。中々別嬪さんやなぁ」
その声はなんとも気安く、喜色に富んだ声音をしていた。まるで子供の声のように若いものである。我は記憶の中の声と今の声に一致が無いことを確かめて、声の方を向いた。
そこには、一人の女が居た。まず初めに感じたのが、背が低い。次に胸が大きい、ということである。我がこの世界に来て出会った女の誰よりも大きい。そもそも出会った女の胸を我は一々見ないので確かめようがないが、見た感じで大きいという印象を受ける胸であった。
続けて、我は女の顔を見る。なにやらニヤニヤと笑う女の唇は愉快そうに吊り上がっており、顔立ちは幼いが生意気さがあった。童顔だが、客観的に見ればかなり整った顔の女である。
我は顔、背丈と見て女を子供のようだと思ったが、纏う雰囲気には幾ばくかの年の毛色がある。女は亜麻色の髪を肩に掛かるまで伸ばしており、茶褐色の瞳をしていた。童顔に相応しく大きな二重の瞳は、どうしてか笑っている。
「おやおやぁ、目線が下に行っとったなぁ。気になるんかぁ?」
「誰だお前は」
いきなり話を掛けてきたかと思えばこの言葉である。我は警戒を全面に出しながら女へそう言った。中々普通の対応だと思うが、我の言葉に女は驚いた顔をしている。
「え、あぁ……自己紹介がまだやったな。うちはバジル・オーガスタ。こんな見た目でも、北できっちり商人やってる女や」
「そうか。ではな」
我は部屋の鍵を開け、扉を開けようとした。だが、その前に女――バジルが声を上げる。
「ちょちょちょ、何話を終わらせようとしとんのや。まだうちはあんたの名前聞いてないで!」
「……そもそも、何故我に話を掛けた。他人だろうが」
「いやいや、他人だからって話掛けちゃいかんって、そんな道理はないやろ?」
確かに道理はないが……。言葉を止めた我に、バジルはふふんと満足げな顔をした。
「んで、あんたのお名前は?」
「……ヴァチェスタ・ディエ・コルベルト」
「うぉ、あんた王族か。 ……ってもまあ、納得できる風体しとるなぁ」
「それで?」
「うん?」
「何故我に話を掛けたのだ。質問の答えが無いぞ」
我がそう言うと、バジルは、にいっ、と歯を見せて笑った。なんだかその笑顔を我は見たことがあり、同時に嫌な予感がした。
「そりゃあ、なあ……こんな別嬪さんがおったらもう、話し掛けん訳にはいかんやろ。もうな、ビビッときた。うちの中のキューピッドが自分の心臓撃ち抜いたんや」
「……は?」
「いやいや、そんなこと言わんといてや。ホントにそれだけやって。うわぁ、顔好み、体良いやんの二拍子踏んで話し掛けたってことや」
……こいつはかなりヤバい相手である。我は有無を言わさず扉を開け、素早く閉めた。お? と遅れてバジルが言う。どう考えてもこいつと話すことで我に発生する利益は零である。むしろ面倒という不利益がある。無視が安定だろう。
「おーい?」
「……」
「むぅ、悪かったわ。がっつきすぎかもしれん」
出直すわ、とバジルは扉の向こうから言って、そそくさと退散した。我からすればまた顔を合わせるのは面倒極まりないが、この船に居る以上、そういう機会は必ず訪れるだろう。
……そういえばあの女は一応、北で商人をしていたと言っていたな。すさまじく面倒だが、向こうのことを考えれば……ああ、一応顔見知り程度にはなっておくべきか。
我の中に天秤が生まれ、手間と対価が競り合った。だが、対価が正確に理解できない以上、そもそも天秤は成立しえない。我は早々に天秤を放り捨てて、ベッドへ寝そべった。食事は食堂で摂れるが、我らは料理が部屋に運ばれるという。まさに至れり尽くせりである。……この吐き気さえなければな。
「……あぁ、脳が揺れる」
寝そべっていると、どうにも船の揺れを直接受けることになりそうだ。とはいえ、寝そべった状態の方が体調はマシであり……ああ、ここでも天秤か。
我は少し考えて、取りあえず寝そべることにした。眠ることができれば一番良いのだろうが、我にとってその選択は決して選びたくない。起きた瞬間に胃の中身が全て逆流しそうである。
というか、船に乗っている以上、これからこの吐き気と戦うことになるのか、と我は思った。それはまさしく最悪である。こんなものが続くのならば、この旅は地獄だ。
我は柔らかいベッドの上でため息を吐いた。しばらく何をするでもない時間が過ぎて、こんこん、と控えめに扉が叩かれた。一瞬あの女かと思ったが、あの叩き方はリサである。
一応扉に備え付けられた鎖のような物を使用して、扉を開ける。
「あ、金髪――え? なんでドアチェーン使ってるの?」
「それについては中で説明する。ここで話してもしょうがないだろう」
そう言って我は鎖を外し、扉を開けた。扉の前に立っていたのはリサで、後ろにエリーズが佇んでいた。それだけならばいつも通りだが、いつもとは違う点がひとつあった。二人はどうやら湯浴みをしたあとのようである。肌は艶やかに火照り、僅かに朱を帯びている。リサの髪は水を帯びてしっとりと重さを持っており、エリーズの長い黒髪は美しい艶を放っていた。それに加え、二人は若干薄着である。我らの部屋はバストロスの粋な計らいで隣り合っているので、大方寝巻きのままてくてくと歩いてきたのだろう。
我はそんな二人を一瞬だけ嗜める目で見て、部屋に入れた。
リサが我の部屋のテーブルに付いた椅子に座って、「で?」口を開く。エリーズがてくてくとその後を追って椅子に掛けた。
「まあ待て、面倒というか少し長くなるであろう話だ。お前の用件から言え」
「分かった。……まあ、用件って言っても大丈夫かって見に来ただけだから。あんた結構顔色悪かったし。……今のところは大丈夫みたいね」
「……リサが心配そうにしてたよ」
「……エリーズもでしょ」
リサがひきつった顔でエリーズに言った。肝心のエリーズは何故リサがそんな顔をしていることが面白いらしく、小さく笑った。リサは小心者な上で恥ずかしがり屋であるからな。そういったことを口に出されるのは好ましくないのだろう。
エリーズはリサの矛先から逃れるために、「甲板に出た後は髪を洗った方がいいよ」と甲板上での注意を告げた。
「髪がべたべたしちゃって大変だからね。でも、久々に暖かいお風呂に入れてすっきりしたよ」
「あたしはやっても水風呂だったから……正直驚いたわね。でも、髪が綺麗になったし、結構好きかも」
そんな話をしたリサは一拍間を置いて我を見た。どうやら話は終わりなようである。我は咳払いを一つに吐き気を向こう岸に追いやって、バジルについて話した。二人は最初こそ同じく驚いた顔をしていたが、最後まで語ると全く違った反応を見せた。
リサは呆れた顔で我を見て、エリーズは何か真剣そうである。
「あんた……それは良かったじゃない。見た目は馬鹿みたいにいいからね。ナンパの一つや二つ、簡単にされるわよ。……はぁ、心配して損した」
「……『オーガスタ』」
「ん?」
「……聞き覚えがあるのか?」
「……うん」
エリーズは少しだけ深刻そうな顔をしていた。……それだけの相手なのか? リサも旗色を変えて我とエリーズを交互に見ている。エリーズは顎に手を当てながら、小難しい顔で言った。
「……私の記憶と推察が間違ってなければ――アルベスタでも一、二を争う商会の人だよ。私、その人とあったことがあるもん」
「え」
「……冗談だろう?」
我は渇いた声を漏らした。あの女が、アルベスタ有数の商人だと? 我からすればただの変人でしか無いので、にわかには信じられない。我の言葉に、エリーズは「本当だよ」と返した。この船の貴賓室に居る以上、ただの女ではないと思っていたが……いや、未だに信じられん。
思い返しても、軽薄というか生意気な顔でニヤニヤとしている顔しか思い浮かばない。確かに常人にはない空気を纏ってはいたが……。
「それが三年前の話。だから多分……オーガスタさんは凄い商人さんになってるかもしれないよ。それこそ、世界規模とか」
「いや、え……ちょ、金髪」
「我に振るな。我は変な奴に絡まれただけである。歴とした被害者だ。空から降ってきた隕石に頭を撃ち抜かれて死んだ奴に、避けないのが悪いとは言わぬだろう」
「いや、それはそうだけど……」
バジルは出直す、と言った。つまるところ、また我と相対することになる。目的は一つ……我である。困惑する我に、エリーズが少しだけ不思議そうな顔をした。
「……うーん」
「どうした?」
「いや、オーガスタさんって、向こうで……えーと、色々言われてたから」
「色々?」
「オーガスタさんは凄く商売が上手な人で、お金も家も……っていうか、欲しいもののほとんどの物は持ってたと思うんだけど……男の人だけは居なかったから。その……い、行き遅れとか、面食いとかとかって結構言われてたし……それに対してオーガスタさんは、『男には興味が無い』って結構言い返してた気が……」
……それは確かに不思議である。自分の中のキューピッドが云々と言っていたので、どうにも惚れ性なのかと思ったのだが……。首を傾げる我に、エリーズが情報を求めた。
「えーと、オーガスタさんって、具体的にどんなこと言ってたのかな?」
我は少しだけ躊躇って、バジルの言葉の一つを取り出した。
「……『うわぁ、顔好み、体良いやんの二拍子踏んで話し掛けた』」
「……いや、男に興味無いって言ってるのにがっつりナンパじゃない」
「……一目惚れ?」
「何故我に聞くのだ」
確かに我は美しい。この世の美を集約したような顔をしている。我に比類できるとすれば……ああ、この三つを並べるのはなんだかムカつくが、光の神アスタニシアか、カヌス・アーデン。そして、アイン様ぐらいであろう。
その上肉体も隆々と引き締まっており、かつ肥大化していない。完璧な肉体美に沿った、美しい流線を我の体は描いているのだ。
冴えた金色の瞳、金と見紛う金色の髪。さらに、美の化身という他ない顔立ちをしている。まさに魔性の男、金色の魔王だ。
金色の魔王なのだが……この女二人はどうしてかさっぱりそれが通じない。我を見て未だに『人間じゃらし』や『人間マタタビ』と称している。何故だ。何故通じない。
それが原因で、我は一時期己が本当に美しいのか考えることになった。夜、鏡の前に立って何度も顔を見たが、その度に美しいと思い、首を傾げたのだ。今はもう正直諦めているが、謎と言えば謎である。
そんな我の美貌に、男に興味が無いと公言していたバジルも一目惚れをしたのだろう。……なんだか脳内でもこんな言葉を使いたく無かったな。
「……オーガスタさん、結構硬い人だったと思うんだけど……」
「金髪って顔はめちゃくちゃ良いからね。人間じゃらしにやられたんじゃない?」
「そうなのかなぁ」
「……おい、人間じゃらしはやめろ」
我がそう言うと、リサはくすりと笑った。それから二人は我と他愛のない雑談をして、そろそろ部屋に戻る、と言った。背伸びをして筋肉を伸ばしたリサが、「まあ」と言った。
「あんたなら大丈夫だと思うけど、一応気を付けてよ?」
「何をだ?」
「危ないことをされないようにすることと…………そのオーガスタさんって人を、本気にさせないように……って、あたしに何言わせてんの?」
「……気に留めておこう」
リサの言葉にエリーズが驚いた顔で「大胆」と言ったが、リサは「そんなんじゃないから」と声を上げた。それから色々と文句を口にしようとしたリサを、エリーズが、はいはい、といいながら引っ張っていった。扉がパタンと閉められ、我の部屋に静寂が満ちる。まるで嵐が去った後のような静けさが部屋にはあった。
「……」
我はどうしてか落ち着かなかった。また、少しだけ心臓が声を上げていた。それに隠れて、吐き気が無い。微かにあるが、微かである。慣れたのだろうか?
「分からぬ……」
消えた吐き気に喜ぶこともせず、我はまた、布団に寝そべった。そして、ごちゃごちゃした旅の始まりに整理をつけるように、大きくため息を吐く。なんだかどうにも、疲れるな。
そんなため息と共に、我の船旅の初日は過ぎていった。
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