幕間 進む魔王と追う世界
ぺらり、と紙が捲れる音が響いた。それはあまりにも微細な音だが、それさえ目立ってしまうほどの静寂がある。静寂という音が聞こえてくるような無音で、一人の男が両手を上げて背筋を伸ばした。うーん、と一つ年寄り臭い声を上げた男は、後ろに仰け反り過ぎて、座っていた椅子ごと倒れそうになる。
「わぶっ……ふう」
うまく体勢を整えた男は、一つ大きなため息を吐いて、目の前の本を見た。先程までの読み込む姿勢を取り除き、小物を眺めるような目線だ。男の机の上には、幾つもの本があった。本といっても、千差万別である。雑誌のように薄っぺらい本、辞書のように分厚い本、革で閉じられた本、厚紙で閉じられた本。ただ、そのどれもに共通しているのは、本の表紙に金色で題名が書かれていることだ。
さして広くない木製の机にそんな本達が並び、積まれているが、内容が読めるように開かれているのは一冊のみである。
その本は、傷んだ革で閉じられていた。中の紙は古く、頁の隅が虫食いになっていることもあった。書いてある文字も乱雑で、時折別の行に被っている。とてもではないが、本としての体裁を保っているようには見えなかった。
男はそんな本を見て目を細め、ちらりと部屋を見回す。男の居る部屋はほとんど真っ暗で、机の上に一つだけある燭台の炎で僅かにだけ物の輪郭が見えた。
部屋は陰鬱としており、埃っぽく淀んだ空気をしている。男は、そんな暗闇の奥をじっと見ていた。
「……」
ゆっくりと男が席を立ち、暗闇へ歩く。常人では目が慣れなければ安心して歩けない暗闇を、男は危なげなく歩いた。そして、暗闇の奥で、輪郭だけを見せている“それ“に優しく指を触れさせる。
男が指を触れたのは――大きな本棚であった。何百冊と本をしまうことのできる本棚は男の背丈より大きく、そして大量の本を収めていた。男は部屋の更に奥を見る。部屋の奥には男が触れる本棚が、完全に目視の出来ない果てまで並んでいた。部屋の暗さや雰囲気も相まって、まるで、墓石が並んでいるかのような光景である。本棚達は当然最大まで本を収めており、この部屋が単なる書斎等では無いことが容易に理解できる。
何千冊……いや、何万冊という量の本の群れを眺め、男は小さくため息を吐いた。続けて、もう一度先程の椅子に座る。そして男は、小さく独り言を呟いた。
「……これでおおよそ四割か」
意味深なその言葉に答える存在は、当然居ない。男の独り言は本棚の間を通って、虚無に消えていく。男は開いていた本を一瞥して、机に積まれていた本の内、一番上にあった本を手に取った。それは綺麗な黒革の、手帳にも似た本である。男はそんな本の頁を幾つか捲って、また呟く。
「……さあ、どう転ぶだろうか」
悪い方には行かないといいんだが、と男は続けて、何冊か机の上の本を漁る。男はしばらく本を梯子して、最終的にまた、最初の本に戻った。
「……」
男はしばらくの間、固まったように動かなかった。じっと汚れた本を見て――そして、静かに後ろへ振り返った。
「……それ、怖いから止めてって前にも言った気がするけど?」
「ふむ、そうだったか? どちらにせよ私の接近など簡単に察知できるのだろうと思っているからか、毎度失念してしまう」
「理解はできる。確かに私は君を察知できるからね。でも、君が背後に居ることを感じながら振り返るというプロセスがあまり好きではないんだ」
男が振り返った先には、一人の女が佇んでいた。女は見事な金色の長髪を腰まで伸ばしており、瞳は空のように青かった。意志の強そうなくっきりとした目鼻立ちで、老若男女誰が見ても美しいと声を漏らす美貌を持っていた。
ただ、そんな女は、右手に一つの槍を持っていた。真っ白な、太陽から差し込む光を編んだような槍だ。身の丈よりも更に大きな槍を地面につく女の姿は美しいというより最早神々しく、人々は我を忘れて五体投地をしてしまうだろう。そんな女に対して、男は大きくため息を吐いた。
「……それはまあ、いいとしよう。――それで、わざわざ何しにここへ来たんだい?」
男がそう言うと、女は眩しいほどの美貌に少しだけ影を入れて、こう答えた。続く声色は真剣で、驚くほどその見た目に似合っていた。
「“計画“の進捗はどうなっているのか、確かめに来た」
「……態々ここまで来なくても、何度か手紙を出して教えていたはずなんだけど……」
「手紙よりも、こうして顔を会わせて話した方が伝わることがあるだろう?」
「それ言われると私の存在意義が危ぶまれるね……」
「ふふ、そうだな」
二人は気軽に幾つかの言葉を交わして、続けて黙った。しばらくの沈黙の後に、女が男に目線で催促をする。それで? といった意味合いが大きい。それを受けた男は少し悩むような顔をした後に、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、今のところ計画に支障は無いと言えるよ。……でも、これからはどうなるか分からない。『彼』を殺せるかについては、これから分かっていくさ」
「……」
男の言葉に、女は黙りこくった。女はしばらく何かを考え、そしてため息を吐いた。
「……私は正直、反対なんだがな。あまりにも賭け事のような話だろう? 普段は円卓に顔すら見せない君が、妙に気負って提案したことだから受け入れているが……」
「……確かに君は賭け事が嫌いだし、真っ正面から向き合うのが得意なのかもしれない。……でも、それじゃあきっと駄目だと私は思うんだ」
「……」
「『彼』は私たちをとことん嫌っている。自分の道を歩くことを是としている。何より……『彼』を殺すことが出来るのは、私たちではない。それだけは君も分かっているだろう?」
男の言葉に、女は少しだけ不服そうな顔をしながら頷いた。その表情や仕草さえ絵になる女へ、男がくすりと笑う。男の笑みの理由が分からない女は、男の不審な笑顔に訝しげな顔をした。
「ああいや……アスタニシアの信者に面白い子が居てね……それを思い出したんだ。本当に面白い子だったよ」
「面白い子だと……?」
「いや、彼女の為に詳しいことは言えないね。私は片目をつぶっているんだ」
言葉と共に小さく笑い、同時に片目を閉じた男に対して、女は不満そうな顔をした。続けて、女は右手に持っていた光の槍を軽く握り直し、小さくため息を吐いた。
「ベゥノナキアは一度口を閉じると決して話をしてくれないからな……諦めるとする」
それから二人はしばらく他愛のない話をして、アスタニシアが何かを思い出したような顔をした。
「ああ、そういえば……バウサヘキィナが私を呼んでいたな。忘れていた」
「君、色々と忘れすぎじゃないかい?」
「どうにも私は一つのことに集中しすぎるきらいがあるらしい。出来れば直したい所だ」
「そう言っている内は治らないって言うけれど…………ああ、確かに上でバウサヘキィナが君を探しているね」
「……怒っているか?」
「いや? バウサヘキィナは結構奔放だし、あんまり気にしてないと思うよ」
男の言葉に女は安堵し、「それでは、よろしく頼んだぞ」と言葉を残して上を向いた。続けて形の良い唇が何かを呟き……次の瞬間には、その姿を霞のように消してしまった。男の言った『上』へ向かったのだろう。
部屋には再び静寂が満ちて、男は小さくため息を吐いた。続けてもう一度机に向かい合い、汚れた本を見る。吐いたため息で蝋燭が揺れて、暖色の光が微かにうねった。
「……さて」
男は小さく呟いた。続いて目の前の粗悪な本を手に取る。継ぎ接ぎの革表紙を持つ本はさして分厚くなく、平均的な厚さだった。男は静かに表紙に指を這わせ、くすんだ金色の題名に触れた。
「――『ヴァチェスタ・ディエ・コルベルト』」
金色の文字は、確かにそんな並びをしていた。続けて見た本の題名には、『エスト・ウィル・バストロス』や『リサ』の文字がある。蝋燭が照らす本の名前は全て、誰かの名前になっていた。
それらを眺めながら、男は呟く。
「私たちは……君を看過できない。君を……金色の魔王を――殺さなくてはいけないんだ」
その結末だけは、どうしても譲れない、と男は言った。言葉と共に、青白い手がヴァチェスタの頁を一つ捲る。男は言葉を続けた。
「君は暴れすぎた。殺しすぎた。そして、壊しすぎたんだ。自他を含め、すべてを不幸にした。君の結末には、須く悲劇しかない」
男は一瞬だけ悲しそうに目を細めて、頁に目を落とした。相変わらずに乱雑で、乱れた文字だ。だが……気のせいだろうか。僅かに丁寧さが見える。文字の上下が合わさっているように見える。
それらへ静かに指を這わせた男――本の神ベゥノナキアは、詩の一説を謳うように、「だから」と語った。
「だから、嗚呼……ありきたりな話を綴ろう。見飽きたお話を描こう。暴虐を尽くした魔王を殺すーー陳腐で王道な物語を」
君の行く先に、願わくば劇的な死があらんことを。
その言葉を最後に、すべての音が消えた。静寂が息を飲む。始めからそうであったように、始めと何ら変わらなかったように……そうやって、ヴァチェスタの知らぬ神々の書斎に、粛々とした静謐が満ちた。




