第七十六話 金色の魔王と砂漠の都
乾杯から二時間ほどが過ぎて、我らは酒を交わしていた。ちらりと見たリサとエリーズはグラスをカウンターに置いて、何やら話題に花を咲かせていた。断片から察するに、船旅で必要な物と、旅を期にリサの家で気になっていた事をエリーズが聞いているらしい。ソファーの下の落書きってリサの? とエリーズが聞いて、リサが苦笑いをする、といった具合だ。
ちらりと視線を前に戻すと、もうすっかり出来上がってしまったライゼンが愚痴をたらたらと吐いていた。
「ぬぁー……やってらんねーぜ」
「……悪いとは思っているが、元々決まっていた事である」
「知ってるけどよ……また力ってやつを探しに行くんだろ?」
「そうだ」
ライゼンの言葉にそう返すと、ライゼンは少しだけ心配そうな顔をした。大方、我が次にすることになる欠片の主との戦いを想像しているのだろう。
「あんたぁ強いが、筋力が無いのが致命的だな。それがありゃ、一人でも亡霊を倒せてただろうから、俺と会うことはなかっただろうが……」
「……そうだろうな」
力があれば、我は容易く力を取り戻していた。だが……それでは決してリサやエリーズに会うことはなかった。ミルドラーゼで暮らすことはあれど、バストロスや店主、アーカムと出会うことも無かった。そそくさと欠片の方へ向かい、一人で亡霊を伸していただろう。そしてそのまま魔王としての態度を改めることもなく、この世界が過去だということも悟らず、人間を心の奥で軽蔑し、もしかすれば何人かを殺していたのかもしれない。
それを思えば……力を失ったこの生活は堪らなく不便だが、なんというか……そうだな。悪くは……無かったのかも知れぬ。ほんの少しだけ、楽しいと思うときもあったのかもしれない。
我は少しだけ感傷的な気分になり、酒を一口に呷った。微かに喉の奥で焼けるような感覚があって、舌の根に心地よい後味がある。我の飲み方にライゼンは少し目を丸くした。
「……何だ。何か作法を間違えたか?」
「いんや。むしろ逆だな」
「逆?」
「なんつうか、すげえ良い顔して呑んでたからよ。少しびっくりしたんだわ」
「……」
「あんたも、そんな顔できんだなって思ってよ」
「……その言い方は何だか意味合いが違うのではないか?」
少しだけ失礼というか、不躾である。我の言葉にライゼンは、そうか? と笑って酒をグラスに注いだ。ちらりと左に視線を傾けると、四人組が例のごとく酔っている。流石に水割りの酒で悪酔いはしなかったらしいが、逆に悪酔い以外をあまりしないのか、慣れない酔い方に四人は困惑していた。なんというか……頭の悪い表現だが、ぽわぽわとしている。
丸三日寝ていない……いや、逆であるな。丸三日寝通した後の目覚めのような顔である。
「うおー……俺今酔ってるぞ」
「凄いっすね……なんていうか、ふわふわします」
「酒を飲んでも吐き気が来ないっつうのは、なんとも不思議でさぁ」
「はは、良い気分だな。気分が上がる」
「……」
四人の前に佇んでいた店主が少しだけ、成し遂げた、といった風味を顔に乗せている。どうやら、この四人が上手く酔える度数を局所的に撃ち抜いたのだろう。流石の腕前である。
そんな店主がちらりと我を見た。我は多少酔ってはいるのだろうが、ほろ酔い程度である。体の奥が少しだけ暖かい。結構な度数の酒を飲んでいた筈だが、意外にも我の体は酒に抗っていた。
まあ、魔族の体は人間と異なり、内蔵が幾つか多い場合もかなりあるので、種族的に酒に強いのだろう。……とはいえ、それに続けて『蜥蜴は酒に強いのだろうか』と間抜けなことを考えている以上、完璧に酔っていないとは言えない。
ライゼンが酒を呷り、四人が明るく我らに話を振り、店主が悪酔いしそうなライゼンを嗜め、リサとエリーズが話の内容にくすりと笑みを漏らす。そんな平穏な酒の席がしばらく続いて……そうして、終わりに近づいた。四人組は幸せそうな顔でカウンターに突っ伏し、遂に酒を店主に止められたライゼンも眠そうである。外を見れば、夕日が見えていた。
我も多少、意識が陶酔しているかもしれない。体への影響はあまり無いが、思考の揺れがある。そんな我らを見て、店主が静かに席の終わりを宣告した。
「……そろそろ満足したか、ライゼン」
「んぁ? ……まあな。本当は足りねえ位だが、酔ったジジイにべたべたされても、困るだろうしよ」
ライゼンが大きくため息を吐いた。我は店主が音もなく置いたグラスの水を静かに飲み干し、小さく息を吐いた。ライゼンが多少口をまごつかせて、そうして言った。
「……あぁ、コルベルト。……これでしばらくのお別れだな」
「ああ」
「……向こうでも、元気にやれよ」
「……我としては、お前が酒の飲みすぎで先にくたばらないかが心配だがな」
「わはは、安心しろ。酔っぱらって井戸に落ちたりはしねえさ」
我はライゼンに続けて店主を見、そして一つ思い出した。冒険者の認識票についてである。確か、亡霊との戦いでアーカムが投げた爆薬により、我の認識票は吹き飛んでしまったのだ。
それを店主に言うと、店主は少しだけ虚を突かれた顔をして、小さく笑った。店主が笑う顔を見せるのは本当に珍しいので、ライゼンもリサやエリーズも目を丸くしていた。
少し待て、と店主は言って、店の奥に消えていく。しばらくして戻ってきた店主の手には、見慣れた認識票があった。店主はちらりと手の内の認識票を眺めると、声もなく我に放った。
「……替えがあったのか」
「いや、無い。今彫った」
店主の言葉に目を丸くしながら、我は認識票を見た。前と何ら変わらぬ筆跡……いや、確かに多少違った字の風合いである。黒っぽい木片に、見慣れた353の数字がある。
「……向こうで、もしかすればオズワルにも同じく票を受けとるのかもしれない。だが、私にとっての353番は、常にお前だ」
店主の言葉に続いて、遂にうちの冒険者も世界進出かぁ、とライゼンが冗談を言った。我は再びまじまじと認識票を見て、静かに懐にしまった。店主の言葉にどう返したものか悩む我に、店主が答えなど要らないとばかりに言葉を続けた。店主らしくもない微笑が籠った、穏やかな声だった。
「……冒険をしてこい、コルベルト。お前にここは狭すぎる」
そう言うと、店主はいつものように仏頂面に戻った。もう話すことは無い、といった佇まいである。その変化に我は既視感を覚えながら――小さく笑った。仏頂面に見える店主の唇の、ほんの端っこに……小さな微笑みを見つけたのである。店主は我らなど見えていないかのようにグラスを一つ手に取ると、懐から取り出した布で丁寧に拭いていく。
それを見たライゼンがにぃっと笑って、我を見る。そして、その席の終わりをもたらす最後の一言を、躊躇うことなく口に出した。
「……またな、コルベルト」
我はそれに「ああ」と返して、静かに席を立った。リサとエリーズが、戸惑いながらそれに続く。二人を先導するように、我は組合の出口に一歩を踏み出した。背後でライゼンが酔い潰れた四人を起こす声が聞こえる。
それを小耳に挟んで、我は組合の中を歩き、静かに扉へ手を掛けた。……最初は踏み込むのさえ嫌だったというのに……こうして扉に手を掛けると、後ろ髪が引かれる思いがあった。
我はそんな不思議さに小さく笑って、扉を押し開ける。そうして開いた視界は茜色で――正面の空には宵の明星が一つ、出迎えるように煌めいていた。
―――――――――――――
それからの日々は、驚くほど早く過ぎていった。思い返しても、ほんの一瞬のようである。だが、その中にもやはり特筆するべきことは幾つかあった。
その一つ目が、バストロスの使者である。帰路に着いた我らを玄関先で出迎えたのは見慣れた扉ではなく、白い装束に身を包んだ、いかにも怪しい人物である。困惑するリサらを背後に我がその人物と相対すると、どうやらバストロスの使者だという。証拠に何か金色の証のような物を見せてきたが、我は良くわからなかった。
リサやエリーズを見ると、無言で素早く首を縦に振っていたので、どうやら正しいと我は判断して、その使者から手紙を受け取った。わざわざ面倒な事をするものだな、と思いながら手紙を開くと、船の件に関してであった。
王族らしく面倒な口上から始まって、丁寧な言葉で内容が書かれていた……らしい。我は難しい文を読めなかったので、リサとエリーズに任せたのだ。手紙の内容は至極簡単であった。
まず、約束の日の朝六時に使いの者がまたこの家に来ること。その者の案内で直近の港まで向かい、船に乗るということ。最後に、客船の中でも一番豪華な部屋を用意したので、楽しみにしてほしい、と書かれていたらしい。
手紙を読み終わった後の二人はあわあわと緊張や焦燥で混乱していた。
早く準備を終わらせなくてはいけないこともあるが、手紙の最後に追伸として書かれていた『三人分の部屋を確保しておいた』という一文に、自らの存在が王に筒抜けだと驚いていたのだ。
我は仮であろうと王族なので、同じ王族であるバストロスの情報収集能力を理解していたが、二人はそうでもなかったらしい。そもそも家に直接使者が来ている時点で理解できると思うのだが……いや、それはさておこう。
大慌てのリサとエリーズに引っ張られ、我らは夜通し家の整理をした。リサはパタパタと家中を掃除し、エリーズは冷蔵庫の中身やゴミ出しに走り回り……我はといえば、旅先に持っていく服や持ち物を鞄に積める作業をしていた。
一番簡単なように思えるが、正直面倒であった。
リサ曰く、船は一直線に北西に向かうのではなく、大陸を時計回りに回りながら、西の港を何ヵ所か停泊し、最終的に北西のアルベスタに辿り着くらしい。三週間ほど掛かる旅なので、途中で物を補給せねばまずいのだろう。
なので停泊と同時に買い物も出来るらしいが……正直我は西が好きではない。
西側の大陸は森が多く、独特の文化や町並みが広がっている。……そして、我が未来にて跡形もなく消し飛ばした大陸でもある。形を変える、ではなく消滅だ。
我は未来にて、勇者の居る東を真っ先に潰したが、東は技術力が非常に高かった。銃や手榴弾、大砲や強力な船を産み出したのは東である。……アイン様を屠った技術も、すべて東が産み出した。そんな東の技術を支えたのが、西の生産力であった。西は木材石材食料等が豊富で、まさに原材料の宝庫のような大陸である。
航海技術の発展と共に西の原材料が東に渡り、そうして世界が急激に進化していく。我は面倒極まりないその関係性を崩すために、西では町より先に鉱山や森を破壊した。そこで神々が初めて姿を現し……我は生涯初の惨敗を喫したのである。
なんとか逃げ延びた我は怒り狂い、大陸一つ分の距離からひたすら魔法を投げ込んで軍勢の勢いを削いだ。続けて単身で西に飛び込み、三日に渡る全面戦争の果てに、全てを灰にしたのである。
結果として海流は荒れ狂い、海底火山が大噴火を起こして、西は凄まじい有り様となった。文字通り大陸が丸々消し飛んだのだ。
そんな西に何食わぬ顔で上陸できるほど、我は精神が図太くない。是非とも拒否したい所である。
……それはさておき、使者が来てからは本当にあっという間であった。残った二日はひたすら市場を回り、家を整えて、鞄に荷物を詰めただけである。
平行して夜に尻尾を鍛えていたが、思ったほどの成果は無かった。練習に使っていたコップが、鞄に詰められてしまったのだ。他の物で代用したが、いかんせん微妙な成果であった。
そんな日々が嵐のように過ぎて、遂にミルドラーゼを発つ日になった。緊張からか、殆ど眠れなかったらしい二人と居間で使者を待っていると、丁度六時に扉が叩かれた。相変わらずに固まる二人に呆れながら、我は扉を開けて使者を迎え……そして硬直した。
「……おい、どうしてお前がここに居る」
「一つ、遠征の関係で人員が少ない。二つ、今回は特殊な事例過ぎる。三つに、機密保持のためだ。……私もバストロス様の命令でなければ、お前と顔を合わせようとは思わない」
「……」
我は絶句した。玄関先に佇んでいたのは、不機嫌そうな顔のヌトだったのだ。さすがに黒いフードを着けて身の上を隠してはいるが、正面から見れば完全にヌトである。リサが心配そうに玄関口を覗くのが気配で分かった。続けてエリーズも顔を出し、はっとなってリサの後ろに隠れる。
……エリーズはヌトに面識があったのだろうか? 付き合いのある王族の娘であるし、ヌトもエリーズを知っているのかもしれない。
そんな事を考えていると、ヌトがわざとらしくため息を吐いた。
「正直な話、私は忙しい。そして軍人らしく、面倒が嫌いだ。ラクダは全員分用意している。荷物を括って後を着いてこい」
ヌトが玄関口から少し離れて、路上のラクダを見た。毛だらけの間抜け面をしたラクダが四頭、路上に並んでいる。
我は努めて余裕のある顔をしようとしたが、自然と苦い顔になる。……まさか、一人でラクダに乗るのか?
我はなんとか冷静を装ってヌトにそれを聞こうとしたが、その前にヌトが踵を返してしまう。
「さっさと行くぞ。……その方がお互いの為だろう」
そう言うなり、ヌトはラクダの方へ歩いていく。我は深く息を吸って、居間に置いていた荷物を持ち、ラクダの背中に載せて紐で括った。後はラクダに乗ってヌトに着いていくだけである。
現在は午前六時なので、まだ太陽が昇りきっておらず、大分涼しい。加えて、いつも通りの快晴である。雲一つ見当たらない。さして苦労のない旅路になるだろう。
……我がラクダに乗れないことを除けば、である。早めにラクダに跨がったリサとエリーズが心配そうに我を見ており、ヌトに至っては早くしろと催促顔である。一か八か、我は意を決し、ラクダに跨がった。途端に緊張で体が固くなるが……落ち着け、落ち着くのだ。我は一応、ラクダを乗りこなした筈である。あのときのエリーズの動きを思い出すのだ。
「……ぬぅ」
「……お前、まさか……」
「……問題ない。馬ならまだしも、ラクダである」
ヌトが我に驚いた顔をしたが、続けて何かに気がついたようで、気まずそうな顔をしていた。ヌトがそんな顔をする理由が分からず、我はラクダの上で首を傾げた。
「……いや、これは私が悪い。北に居たのなら、ラクダには乗れないということを失念していた」
「……だから、問題ないと言っている。さっさと行け」
ヌトが珍しく非を認めたので我は驚いていたが、それよりもラクダの上に居るということが心に負荷をかけている。もうこうなっては、前に進んでもらった方がマシである。
ヌトは渋い顔をしながら、ラクダを前に進めた。続けて、我のラクダも前へ進む。
「ぬ、お前、勝手に……う、うむ。そうである。直進だ」
「コルベルトさん、多分ラクダさんは道が分かってるから、落ち着いて乗ってれば大丈夫だよ」
「変に動くとラクダが勘違いしちゃうから、いつもみたいに堂々としてればいいの」
「……成る程」
確かにラクダはてくてくと危なげなく前に進んでいる。だというのに主たる我が慌てふためいていれば、格好がつかないな。我は気持ちを楽にし、落ち着いてラクダの上に居座った。
最初こそは不安であったが、街道を行く我らに大した問題は無かった。唯一、町を出る際に衛兵が確認をとろうとしてきたが、面倒が嫌いだと言っていたヌトがフードを外し、衛兵の度肝を抜くことで通ることが出来た。
我はあまり理解できていないが、ヌトは一般からすれば相当の畏怖を受けているように思われる。
確かにヌトの戦闘能力は凄まじいものがあるが、どうにもロダキノとの問答が頭を掠める。そんな事を思いながら、我らは町を抜け、砂漠を進んでいた。我はてっきり道なき道を進むのかと思っていたが、港への道には砂岩でできた煉瓦が埋められており、立派な順路があった。遠くに目を凝らすと、別のラクダに乗った人間の姿が見える。時折、荷車を引く馬とすれ違うこともあった。
ミルドラーゼは海に近いと聞いていたが、港から運ばれる物資を見たのはこれが初めてである。あれに乗ってエリーズはミルドラーゼにたどり着いたのか、と我は思い返した。
ちらりとエリーズを見ると、緊張の面持ちである。旅への緊張か、それともヌトに対する緊張か、詳しいことはエリーズに聞いてみねばわからない。
ついでにリサを見ると、何度か後ろを振り返って離れていくミルドラーゼを眺めていた。やはり郷愁じみた感情があるのだろうか。じっと見ていると、何よ、とリサが我を見た。いや、何でもない、と言って我は前を見たが、内心では直らぬ癖に唸っていた。
少し見るだけならば自然だが、我はじっと見てしまう。それがえもいわれぬ不快感を与えるというのならば直すべきである。そんな事を思いながら前へ進んでいくと、だんだんと太陽が昇ってきた。空が青々と彩を放ち、反比例してミルドラーゼが小さくなっていく。
小さな町並みがさらに小さくなり、果てには砂丘の奥に消えたとき、ヌトが「もうそろそろ見えてくる」と言った。
ラクダで移動できる距離なのでそこそこ近いとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった。我らはしばらく砂漠を進み、そして一際大きな砂丘の間を通り抜けた。それと同時にさっと広がる視界に、薄く青が見える。水平線である。
わ、とエリーズが声を上げて、リサが息を飲むのが聞こえた。我は水平線の上に、一つだけ砂丘では無いものを見つけ、それをじっと見ていた。町……ではないな。形容するのならば物置小屋の集合なのだろうが、そう括ってしまうには規模が大きすぎる。なんというか、形容の難しい場所であった。
真っ白な帆を張った船から大きな建物群に積み荷が下ろされ、馬車やラクダがそれをあちこちに引いている。我は遠くからしか見たことが無かったが、あれが港というやつか。
港には幾つか船が停泊しており、更に目を凝らせば水平線の上にこちらへ向かってくる船が見えた。あのうちのどれかに、我らは乗るのだろう。
「……一時間もすれば向こうに着く。手続きはバストロス様の書類を見せればすぐに済む。今のうちに心の準備でもしておけ」
ぶっきらぼうなヌトの言葉に、リサとエリーズは緊張の様子を見せた。今さら緊張してもしょうがないと我は思うが、どう思うかは二人の勝手である。我はゆっくりとこちらに近づいてくる港を見つめ、深く息を吸った。……ほんの少し、魔王の嗅覚をもってしても微かと言う他ない度合いで、大気に湿った海の臭いがした。
しばらくして、我らは無事に港へたどり着いた。港は思った以上に騒がしく、船乗りの声や潮騒、車輪の音と積み荷を運ぶ指示の声、船に乗る乗客や船から降りた者たちの話し声が混ざっていた。臭いも独特で、海の臭いに加えて濃密な人の臭いがし、さらには香辛料だの果物だの、あらゆる積み荷の臭いがあった。船乗りが一度樽を開けて中身を確認しているからだが、我からすればかなり新鮮である。
港には倉庫の他に売店や屋台が大量にあり、見た目以上にたくさんの物があった。巨大な倉庫の影に隠れて、あまり見えなかったのである。我は例のごとく首を回して周囲を見回し、リサとエリーズは互いに緊張からか言葉をあまり発さなかった。
我らは一旦ラクダを降りて、ヌトの案内を受けて港を歩いた。途中、我のラクダが立ち止まった時は中々焦ったが、どうやら水が欲しかっただけらしい。水を飲ませると、問題なく前に進んだ。
我らは港の喧騒を掻き分け、一隻の船の前にたどり着いた。
「……『キング・フェーリドヒ』」
「……え、合ってる」
「流石に固有名詞は読めるぞ」
「確かにコルベルトさん、文法以外はしっかりしてるもんね」
褒められているのか貶されているのか良く分からないエリーズの言葉に我はむっとなったが、それより先にヌトが船に近づいた。船は見事な大きさの帆を張っており、周りよりも一際大きな船であった。我は船について詳しくないのであまり言及は出来ないが、かなり質の良い船のように思える。
そんなキング・フェードリヒに乗るであろう乗客達は、港にて書類だのなんだのを見せるために長い列を作っている。我らもそれに加わるのか、と思っていたが、ヌトはその列を無視しながらずんずんと奥へ進んだ。
「おい、ヌト。列は良いのか」
「問題ない。お前達は普通の乗客ではないんだ。王が直々に目をかけた賓客なんだからな」
「……そうか」
ヌトの言葉に納得して、我は列の先へ向かった。リサとエリーズが大慌てで我らを追う。乗客達がさまざまな視線を我らに向け、リサとエリーズはさらに緊張の色を強めた。
最終的に船の直近まできた辺りで、我らは船乗りに呼び止められた。少し先では、小さな仮設の建物があって、乗船できるかを審査しているようである。呼び止められたヌトは大人しく船乗りに近づいていった。
「おいおい、どうしたんだ?」
「丁度いいな。……この者達は賓客である。貴賓室への案内を頼みたい」
「うぉ、マジ……あ、いえ、本当ですか? ちょっと書類を……」
ヌトは堂々と船乗り達に向かい合い、少しの間話をした。しばらくすると確認が取れたようで、船乗りが引き締まった顔になり、一人を除いて船に戻っていった。どうやらこれでヌトの案内は終わりのようである。
ヌトは我らに振り返ると、相変わらず無愛想に口を開いた。
「……あとは船乗りに任せれば船には乗れる。私の案内は終わりだ」
「……助かった。感謝しよう」
「あ、ありがとうございます」
「ありがとうございます……」
「ふん。どこへでも行ってしまえ。……私はそろそろ帰――ん?」
いつも通りなヌトの言葉であったが、それは途中で止まった。何だ、と口にしようとして、ヌトの視線を読む。視線の先は……エリーズに向いていた。
「……お前は――」
「えーと……その……」
エリーズが何か余計なことを言わぬ内に、我は誤魔化す言葉を言おうとしたが、その手前でヌトが言葉切った。続けて、ふん、と鼻を鳴らす。
「……お前達がどうなろうと、私には関係無い。興味も全くといっていいほど無い。好きにしろ」
「……」
どうやら、ヌトはエリーズに気がついたようであった。だが、ヌトは納得の表情のあとに、いつもの無表情になった。本当に言及をするつもりはないらしい。我らがほっと胸を撫で下ろそうとしたとき、ヌトが「だが」と鋭く口にした。
「……バストロス様に迷惑を掛けるような真似をしてみろ。海を越えてお前を叩き斬るぞ」
「……分かった」
その言葉が単なる脅しでないことは、ヌトの目を見れば分かった。黒い瞳に、確かな忠誠が浮かんでいる。我がもし、バストロスに手間を掛けさせれば、本当に海を越えて斬りに来るだろう。それだけの瞳だった。
我は真摯に言葉を返したつもりだったが、ヌトの言葉は終わらない。「それと」とヌトは口にした。
「……私の口からこんなことを言うのは嫌で仕方がないが……お前」
「何だ」
「……勝手に死ぬなよ。絶対に死ぬな。お前が死ねば、多くの人間が悲しむということを忘れるな。その中にはバストロス様も入っているんだ。だから、決して死ぬな。生きて――生きて、ミルドラーゼに戻ってこい」
「……肝に命じておこう」
ヌトは大きなため息を吐いた。本当に口にしたくは無かったらしい。我はヌトの口からそんな言葉が出てくるとは全く予想しておらず、いわば不意打ちに近い一撃を受けた気分だった。
それはリサやエリーズも同じなのか、驚いた顔でヌトを見ている。ヌトはそんな状況が堪らなく嫌であったようで、ああ、これだから、と口にした。続けて我らに背中を向け、ゆっくりと歩き出す。我はその背中に小さく一礼をして、静かに船乗りへ向き直った。
船乗りは緊張を紛らわすような咳払いをひとつして、それでは案内をします、と船の方へ歩いていく。我はその背中を三歩追いかけて、ちらりと後ろを見た。人波に揉まれ、黒いローブのヌトがラクダに跨がったのが見えた。我らのラクダも大人しくその後を追っている。
遠く離れていくその後ろ姿に、我はようやくミルドラーゼと離れたのだな、と実感した。これまでにミルドラーゼで過ごしてきた日々が走馬灯のように流れて、出会ってきた人間の顔が、言葉が思い出されていく。
そうした回想が進みに進んで、ついに今へと収束した時、我は嗚呼、とため息を吐いた。ああ、さらば。さらばである。砂漠の都――ミルドラーゼよ。
幾度の出会いと別れを生んだ都の名前を反芻して、我は確かに前を向いた。少し離れた所に船乗りの背中があって、リサとエリーズが心配そうに我を見ていた。
二人に何かを言われる前に、我は「問題ない」と一つ言って、確かな足取りで前へ進んだ。向かう先には蒼い空と水平線、一つの船がある。人々の喧騒、潮騒、混沌とした臭い。それらすべてを突っ切って、我は前へ進んだ。
旅の目的は魔王の力、その欠片であり、魔王その人を救うことである。加えて、道すがらに自らを出来損ないだと宣う王女を御家騒動から引きずり出さねばならない。やることはいくらでもあり、そのための力を得る必要も多大にある。
だから、我の旅は……ああ、金色の魔王の物語は未だ――始まったばかりなのだ。
第一章『金色の魔王と砂漠の亡霊』 完




