第六十八話 核心と確信
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至天の魔王、アイン・ディエ・コルベルト。歴代最強と名高い魔王であり、歴代最悪と呼ばれた金色の魔王――我を生み出した者である。我にとって、常に理想であって目指すべき目標でもあり……そして永遠に手が届かない事が約束された、虚構とも呼べる魔王。そんな『あの人』の名前が……どうして、この世界にあるのだ。
我はしばらく呼吸の仕方を忘れていた。今まで後ろにあった消えない過去が、我が物顔で我の横を通り過ぎて、目の前に立ち塞がったように感じた。
我と同様に固まっていたバストロスは、しかし冷静に口を開く。
「……魔王というのは、やはり名を継ぐのか」
「…………いや」
「……では、お前の血縁――」
「違う」
我は素早く否定した。我とアイン様とでは、一切血の交わりはない。欠片ほどもない。あの人は確か、竜王の娘だと言われていた。竜の中の竜であり、竜を統べることを約束された血縁である。それが、暗い洞窟でその日を生きるために虫の死骸をかじるような蜥蜴と一緒にされては困るのだ。
我の断定に、バストロスはたじろいだ。大方、意味が分からないのだろう。それは我も同じである。何故だ。何故あの人の名前がある。アイン様だけではなく、ゼウスやカヌスの名前まで……分からない。
バストロスは戸惑いながら、ちらりと文書に目を通していた。
「……この魔王は、やはり人間と手を取り合いたいと綴っている。お互いに歩み寄ろうと、争いで傷つくのは無意味だと書いている」
「……知っている」
知っているのだ。あの人は、争いを好まなかった。我をゴブリンから救った時でさえ、ゴブリンを殺す事なく転移させた。人間を押し返すことはあれど、侵略の為の戦争をしたことはなかった。
……国を攻められ、同胞を惨たらしく殺されても、それでも誰一人殺さなかった。後から分かったことであるが、我がカヌスの元から魔王様の国へ向かっている時に見た金色の魔法は、やはり転移の魔法だったのだ。
誰もがあの人の事を甘いと言った。温すぎるとも言った。それだけの事をされて、どうして無抵抗なのだとも言った。だが、それでもあの人は笑って人間を信じたのである。そういう魔王だったのだ。
それが、あの人だったのだ。
我はまた動けなくなった。過去の残影が我を縛り付けにして、郷愁だのなんだのをひたすらに染み込ませてきているように思えた。
手紙を机に置いたバストロスが、ため息を吐く。大方、何とか状況を理解しようと努めているのだろう。そんなバストロスに、我は震える喉を動かして質問を投げ掛けた。
「……おい」
「ああ」
「……ゼウス・アーデンを知っているか?」
「……ああ」
知っている、とバストロスは言った。その表情は先程までとは異なって、渋い顔をしていた。隣のヌトに至っては、殺意を込めた視線で床を見ている。
「三十年前に我が国エーテルホワイトを破壊し尽くした『深紅の流星』……」
「三十年……前……?」
「そうだ」
我は何かが噛み合うのを感じた。今まで空回りしてきた歯車が音を立てて組み合わさって、静かに動くのを感じた。我は核心に迫る為に、もうひとつ質問をした。
「……カヌス・アーデンは?」
「……六年前にエーテルワイスを侵略した、ゼウス・アーデンの息子だろう」
「……アイン様は」
「……あまり詳しいことは分かっていないが、五年ほど前から魔王に在位した魔族と聞いている」
我は膝から力が抜けるかと思った。我の中で全てが繋がった。我は静かにこう聞いた。
「……地図は、あるか?」
「ある」
バストロスは引き出しを幾つか開けて、机に地図を広げた。何週間か前、店主に見せてもらったものと殆ど同じである。我の世界と異なって、魔大陸が無い。西に大陸がある。知らない山や、あった筈の谷が無い。見れば見るほど、知らない地図だった。
我はぽっかりと開いた地図の真ん中を指差した。
「……ここに、何がある」
「まだ分かっていない。今の航海技術では中央海に入れないのだ。あそこは常に分厚い霧と不安定な海流、天候がある。その上、殆ど風が無い。帆を張った船ではまともに進めず海の藻屑となる」
「……」
「ただ……おそらく何らかの島か大陸があるとは信じられている。そこに魔族が住んでいて、魔王が十数年おきにやってくるのだ、と」
我はバストロスの机にあった羽ペンを勝手に掴んだ。続いて、驚いた顔の二人を意識から除外し、ゆっくりと地図の真ん中に魔大陸の形を書く。そして、次に我が人間を殺し尽くした道順に、あった筈の谷や河を書き込んでいく。
「おい、何をして――」
「ヌト。良い。同じようなものは既に市井に出回っているだろう」
我は一つ一つを書き込んでいく度に、全身から体温が奪われていくのを感じた。既視感が段々と強まっていく。まず勇者が居た東の国を滅ぼし、次に北東へ突き進んで国を滅ぼし、北東へ進み、西へ渡った。そこで初めて神々との戦争をした。
我が以前思い返した『何とか生き延びた、という惨状』を経験したのもここである。その後に南へ向かったが……そのときの砂漠には殆ど国らしい国はなかった。砂塵竜が闊歩し、砂嵐と魔物の蟻地獄が点在する、人外魔境と化していた。半ば集落と化した砂漠を蹂躙し、我はようやく目が覚めたのだ。
「……あぁ」
我は呻いた。ゆっくりとペンを置く。もう一度俯瞰した地図は――我が知っている地図に、非常に酷似していた。
我はもう確信していた。ここが何処なのか。どうして地図が違うのか。何故ゼウスやカヌス……アイン様の名前があるのか。我は――
「我は……別の世界から来たのではない」
我の言葉は確かな色を帯びていた。神々に力を奪われ、厄介払いに他世界へ転移させられたのではない。ここは、同じ世界である。
「我は……戻ってきたのだ。今から大体十年は先の未来から――過去の世界へ」
理由は分からぬ。分からぬが、これだけは確実な事だった。
何故、この世界の地図に知らない山があるのか。我が未来で消し飛ばしたからである。
何故、知っている河川や谷が無いのか。我が未来で魔法を撃ち込んで作った痕跡だからである。
何故、西の大陸があるのか。我が神々との激戦の果てに、跡形も無く消滅させたからである。
何故、この世界に見知った名前があるのか。この世界が、過去だからである。
我は力を失って……過去に飛んでいた。やり直したいと何度も切望し、その度に絶望を噛み締めた過去に飛んでいたのだ。目の前のバストロスやヌトは理解が追い付いていない、という顔をしていた。
「……神は一体……何を考えているのだ」
何を目的としているのだ? 我を殺すために飛ばしたのかと思えば、欠片が手の届く世界に散らばっている。別の世界かと思えば、拭いたいと思っていた過去であった。まるで我に……もう一度やり直せと言っているようだった。
そうである。この世界には、まだ誰もが息づいている。勇者も、カヌスも、人間たちも……当然、アイン様も生きている。人間を信じて手紙を送っている。だが、このままでは元の未来と同じ結末を迎えるだろう。
それを、今ならば変えられる。欠片を取り戻して、無理矢理にでも魔王様の側に立てば……それか人間どもを皆殺しにすれば、魔王様は救われるのだ。
それを知った途端、我はえもいわれぬ高揚感に包まれた。変えられるのかもしれない。血みどろで空っぽな、あの結末を。そう思えば居ても立ってもいられなかった。一秒だって時間が惜しいと思った。こうしている間にも、カヌスはアイン様への不信を募らせ、人間の技術はアイン様を打ち倒せるまで進歩し始める。
それを止めなければ――
「おい、コルベルト!」
「む……すまぬ。考え事が進んでしまった」
「……顔を見ればそれは分かる。だが、その考え事がただ事では無いことも分かるのだ。……大丈夫なのか?」
大丈夫だ、と微笑を含めながら即答しようとして……我は固まった。そして同時に、『それ』に気がつかなければ良かったと思った。生半可に良い頭脳をひどく恨んだ。
今朝の夢が……鮮明に甦る。人間を恨み、数えきれないほどの人間を笑いながら殺し、国に火を放って愉悦に浸る化け物の夢である。
『来世はどうにか、人間以外に生まれるといい』
あれは夢であって、過去である。我が散々に壊してきた世界も……この世界にとってみれば未来なのだ。今までは別の世界だから、という免罪符があったが、ここは過去である。滅んだエーテルホワイトやエーテルワイス、死んだリサの両親は、我にとって無関係では無くなったのだ。
我は世界中の人間を殺した。当然、南の砂漠で懸命に生きる人間も、である。もしかすれば……未来の我が殺した人間の中に、見知った顔があるのかも知れぬ。
今目の前で我を気遣うバストロスや、訝しげな顔のヌトを、もしかすれば笑いながら殺していたのかも知れないのだ。
それを知った瞬間、我は冷や水を掛けられたように青くなった。緩んでいた唇が固くなる。リサも、ライゼンも、店主も、デニズ、アリシノも……その他大勢を、我は殺したのかもしれぬ。
罪は消えない、とアリシノの声が我の脳裏に反芻した。
我はその言葉に喉元を絞められながらなんとか、大丈夫だ、と口にした。
「……これまでの違和感が一つ消えて、代わりにもう一つ疑問が浮いただけである」
「……」
神は何故、我を過去に飛ばしたのだ。もしかすれば、罪悪感を植え付けて我を自害に追い込むつもりか? もしくは、積み重ねた罪を償う為にやり直せ、と……そういうつもりなのか?
考えてもさっぱりである。元より神々の考えることは理解できん。
我はため息を一つ吐いて、バストロスを見た。これ以上バストロスの時間を使わせる訳にはいかぬな。話は終わっているというのに、居座るのは邪魔であろう。……ただ、ここから出ていく前に、一つだけ言わなければならぬことがある。
「バストロス。我はそろそろ帰るぞ。話すことは話したからな」
「……そうか。船に関しては任せておくが良い」
「頼む。……それと、その手紙の件であるが……」
これは、保険である。もし我が何らかの事情でアイン様に対して何も出来なかった時の為の保険だ。我は内心人間を信じてはいないが……こうして触れあってみて、多少は信頼が湧いていた。
こいつならば、この言葉を無下にはとらないだろう。
「どうか、中の言葉を信じてほしい。あの人は……我にとって命の恩人であり、敬愛する魔王であり、そしてこの名前を与えてくれた人でもある」
「……我にとっては恩人の恩人、といった所か。お前が名前に様をつけているのが驚きでしょうがなかったが、理解したぞ」
「アイン様は……我など比べ物にならぬほど純粋なお方だ。人を本気で信じている。だから……どうか、話だけでも聞いてほしいのだ」
「……」
バストロスは少しだけ悩むような顔をした。ヌトが険しい顔でバストロスの持つ手紙を見ている。やはり、信じることは相当に難しいようであるな。バストロスやヌトは、散々魔王に煮え湯を飲まされ続けてきた張本人なのである。安く首を縦には振れまい。
しばらく黙った後に、バストロスは静かに言った。
「やはり……今目の前に居るお前ならばまだしも、見たこともない魔王を信じることは出来ぬ。王として、軽率に他を信頼は出来ぬのだ」
「……そうか」
「だが……あぁ。最近我は、眼鏡を買ったのである。それがどうにも、度がずれているような気がしてな……試しに文字を読むこと位はするかもしれぬ」
「……なんだそれは」
我ははっとした。続けて、思わず苦笑いが湧いてくる。眼鏡の度が合わないだと? 要約すれば、『信頼は出来ないが、手紙は読む』ということだろう。そう言えば良いものを、随分回りくどく言うものだ。
我の苦笑を見て、バストロスは何故か頷いた。
「……うむ。やはり、お前に辛気くさい顔は似合わぬな。お前はいつも通り、傲岸不遜に笑っているのが良く似合う」
「……勝手を言うな。我の顔は美しい。その辛気くさい顔というやつをしても絵になるだろう」
心配するような、安堵するようなバストロスの言葉に、我は思わず適当な返しをした。気を使わせてしまったと思うと、どうにも素直になれぬのだ。自分でも馬鹿らしいことを言っているな、と思ったが、吐いた言葉は戻らない。
バストロスは我の言葉を鼻で笑った。
「そうかも知れぬが、自分で言うのはお前らしいな」
「……」
我はどう言葉を返せばいいか分からず、情けない沈黙を掲げてしまった。この状態では何を言っても虚勢に聞こえるだろう。もしかすれば、沈黙が最適解なのやもしれぬ。
我は話を切り変えるべく、絶妙なタイミングで沈黙を破った。拗ねたと思われず、かといって慌てたともとれぬ瞬間である。
「――さて……ここらで我は帰るとする。考えねばならぬことも幾つかあるのでな」
「そうか……」
我はそう言いながら、ちらりとヌトを見た。視線を向けられたヌトは一瞬だけ驚いた顔になって、直ぐにいつもの憮然とした顔になった。無表情に若干機嫌の悪さを添えたような顔である。
対称的にバストロスは、意外なことに残念そうな顔をしていた。どうしてだろうか、と我は考えたが……あぁ、そうか。この扉を抜ければ、バストロスとはしばらくの別れとなる。最悪もう顔を合わせることはないのかも知れぬな。
我としても、ここまで気安い人間の王は初めてであったから、多少後ろ髪を引かれることはあるが、バストロスはそれ以上に残念そうである。我はその様子を見て、小さく閃いた。先程の意趣返しをしてやろうと思ったのである。
我は自分でも分かるほど意地の悪い笑みを浮かべながら、こういった。
「ふむ……それほど、我との別れがそれほど惜しいか?」
バストロスは我の言葉に目を丸くした。対称的にヌトは顔に八割の不機嫌を浮かべている。もしも口を開いたとすれば、我に対して『調子に乗るな』と散々に捲し立ててきただろう。
我の言葉にバストロスは少し悩んで、苦笑いと共にこう言った。
「……あぁ」
「……そこは多少言葉を濁す所だろう」
向けられてきた言葉があまりにも真っ直ぐであったので、我はそれを弄くるどころか掴み損ねて面食らってしまった。固まる我に、バストロスは続ける。
「……正直なところ、我はこの玉座が重くてしょうがない。我が即位したのは十三の頃である。そこから今まで、天涯孤独に歩んできて……かなり疲れたのである」
「……」
「周りに目をやる余裕もなければ、民に弱い姿を見せる訳にもいかない。かといって気を抜ける時間もなければ、お前のように冗談を言い合える者も居ない……ヌトは確かに信頼しているが、対等には話してくれないのである」
バストロスは苦笑いと共にヌトを見上げた。ヌトは全く畏れ多い、といった感じでどぎまぎしている。あの様子では、確かに冗談の一つも言うまい。
「お前は知らぬと思うが、我にとって真に対等に接するのは……お前とアルベスタ位なのだ。……アルベスタに関しては孫に接するような態度であるし、対等とは言えないかもしれぬがな」
「……買い被り過ぎである。我は我らしく在っただけだ」
「それが良いのだよ。そんな奴が居て欲しかったのだ。我にとってお前は……初めての友人なのだから」
こんな立場に居ると、友人を作ろうにも作れないのだ、とバストロスは笑った。確かに、砂漠では他国との交遊も難しいかもしれぬ。本来ならば舞踏会だの他国との政略結婚だのを含めて人との繋がりが生まれるのだろうが、バストロスにそんな暇はない。
生まれてから今の今まで、我のように堂々と踏み込んでくる者は居なかったのだろう。
……だが、それは我にとっても同じである。友人など、もう遠い昔に開拓班にいたくらいである。背中を合わせられるような奴は殆ど居なかった。
そんな我の思いと裏腹に、バストロスは残念そうな顔をする。
「だから、惜しいのだ。また、しばらく一人であると思うと気が重い。これは冗談だが……お前のような男が我の右隣に立っていてくれれば、どれだけ気が楽だったか、とも思う」
我はまた、買い被りが過ぎる、と口にしようとして……遠い昔の声が蘇ってきた。血を吐きながら、微笑と共に我の腕の中で消えていくあの人の言葉である。
『もし、もしもだよ……ああ、ヴァチェスタ……君のような男が私の隣に居てくれたら、こうは……ならなかったのかも、しれないな』
バストロスの言葉を否定することが、あの人の言葉まで否定してしまうような気がして……我は安い謙遜を投げ捨てた。同時に小さく笑って、バストロスを見た。
「……我は魔王である。そう易々とは死なぬさ。死ななければ……生きてさえいれば、いつか巡り会えるだろう。因果というのは、そういう風に出来ている」
「……そういうものなのか」
「そういうものである。だから……お前も、そう易々と死んでくれるなよ。我を友人と称するのなら、長生きくらいはしてみせろ」
「……参ったな」
これでは死ぬに死ねまい、とバストロスは笑った。ヌトは終始困惑に目を丸くしていたが、バストロスの笑顔を見てどうでもよくなったようである。諦めたようにため息を無音で吐いて、釈然としない顔で我を見た。
我は最後に、いつも通りの傲慢な笑みを残して、ではな、と言って二人に背中を向けた。我の背中に、ああ、と言葉が掛かる。
それが我らの別れの言葉であった。あっさりとしていて、素朴な……明日にでも会いに来るような、そんな言葉である。だが、それでいい。いつかきっと、この気安い王に会う日がくる。話す言葉は、そのときの為にとっておくのだ。
我は静かに王室を後にした。世界の核心に触れて、あれだけ暗く戸惑っていたというのに……どうしてか『なんとかなるだろう』という気持ちが湧いている。なんとも我らしくない出生不明の自信に、我は「まあいいか」と独り言を言った。




