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金塊の夢  作者: 平谷 望
第一章 金色の魔王と砂漠の亡霊
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第四十話 出来損ないな私の不完全な演算

 誰も居ない部屋でしばらくの時間が経った。外の雨は依然いぜんとして止む気配を見せないが、土砂降りとは言えなくなってきている。この分では、あと数時間の内に止むのではないか、と我は予想した。

 ベッドの上の我は相変わらず病に食らい付かれていたが、その熱や怠さは存外軽い。治りかけで動き回ったから熱が出た訳で、汚い路地とはいえ確かに睡眠を取ったことが症状を和らげているのだろう。


 ゆっくりと体を起こし、我は窓の外から町を見た。この部屋には時計が無いが、町を見れば大体の時間は察することができる。我がどれだけ眠っていたかは不明だが、そうは経っていないだろう。


「……灯りの量と人波からして、昼頃といった所か」


 詳しい時刻はさっぱりであるが、おそらく昼頃だろうと予想が付いた。暇を持てあまし、窓の外を眺める我の鼓膜に、一つの音が入り込む。背後から聞こえるそれは、階段を小さく踏みしめる音であった。

 我は慌てて布団に潜り込み、雰囲気を取り繕おうとした。……が、今更取り繕ってどうだというのだ。そんな心持ちが我の中にあって、結果窓の外を眺めたまま、何者かの侵入を許してしまった。


「……」


「……えーと、お皿下げるね……?」


「ああ」


 背中から聞こえてきたのは、頼りの無い声。当然の如く、エリーズであった。我は一旦振り返ろうとしたが、その瞬間に脳が待ったをかける。同時に最後に見たエリーズの泣き顔が蘇ってきた。大粒の涙を溢しながら、床にへたり込むエリーズだ。

 それに対して我が思っていた感情は一つ。どうでもいい。


 憤激に駆られた時の感情であろうと、それは確かに我の中にあったものである。それがもたらした惨状が脳裏から離れてくれず、我はどうにも振り返ることができなかった。

 エリーズは戸惑うように一歩を踏んで、ゆっくりと我の皿へと歩みを進める。既に皿の中身は空っぽだ。取って帰るだけならば十秒で充分であろう。


 妙に触れがたい空気の中で、エリーズが我の隣に立って、椅子に置いていた皿を掴んだ。そして、その動きがはたりと止まる。何かを伺うような静止だ。当然、我の様子を伺っていることは間違いない。

 よせばいいというのに、我は少しまごついて、口を開いてしまった。


「……何だ」


「あ、うん……え、えーと」


 エリーズは相変わらず言葉を悩み、大慌てで感動詞を繋いだ。その様子から見て、恐らく我のことについてリサから多少の事を教えられたのだろう、ということが分かる。目で見ずとも、流石にそのくらいは分かりやすいのだ。

 腫れ物に触るような、刃の方から剣を受け取るような、そんな緊張である。どうにもそれに慣れていた我は、ため息と共に言った。


「リサから聞いたか」


「……うん」


「……気にするなとは言わぬ。馬鹿にするならすればいい。……随分とまあ、滑稽だっただろうからな」


 結局(はな)から、我はこの二人に対して我を演じていたのだ。この二人に対して、嘘以外の言葉を吐いた回数の方が少ない。それはあまりにも失礼というか、不愉快だっただろう。この口調ですら、もはや道化の台詞に聞こえてきてしまう。

 ますます顔が見れず、用もないのに外を見る我に、エリーズは少し戸惑って言った。


「……そんなこと、無いよ」


「……」


 我にそう言ったエリーズの言葉はどこか上の空で、どうにも違和感があった。だが、それを追求するだけの資格は当然我には無く、黙って耳を傾けた。

 背後のエリーズは、何かを真剣に考えているようだった。真剣に考え、迷い、そして小さく息を吸った。


「……誰だって皆、嘘をついてるから。皆、何かを失敗してて、沢山傷ついてるから……コルベルトさんは滑稽なんかじゃないよ」


「……」


「コルベルトさんは……うん。コルベルトさんはただ――一生懸命だったんだよ。一生懸命に、生きてたんだ」


 その言葉は、まるで魔法のようだった。真剣に考えて考えて、そうして導き出された答えのように思えた。我はとても、背後のエリーズがその言葉を言ったようには思えなくて、無意識に振り返っていた。


 振り返った先のエリーズは、いつしか見た瞳をしていた。揺れるように深く、めるように聡明そうめいな、黒い瞳だ。唇は慈しむように円弧を描いていて、纏う雰囲気には別人の感があった。

 そこにいる姿は確かにエリーズのものであるのに、立っている人間が違うような……そんなちぐはぐさすら覚えた。


 我と目が合ったエリーズは、少しだけ驚いたような、残念そうな顔をしてはにかんだ。我は目の前の、見覚えのある別人に、思わず聞いた。


「お前は……誰だ?」


「……エリーズだよ」


「…………そうか。それが、お前の嘘か。ずっと……我と同じく別人を演じていたのだな」


 しばらく考えて、我は無意識に、呟くように言った。エリーズは言った。誰もが嘘をついている、と。我がただの蜥蜴であるように、リサの両親が死んでいることを隠していたように、エリーズにも確かな嘘があった。

 どうして偽りを吐いていたのかは分からないが、不透明な嘘という垂れ幕がエリーズを覆い隠していることだけは分かった。


 エリーズは少しだけ困ったように笑って、言った。


「本当は……ずっと、嘘をついてるつもりだったんだけど……多分、コルベルトさんは直ぐに気付いちゃうんだろうなって、そう思ってたから」


「……リサは」


「リサは本当の私の事、たぶん分かってるんだと思うよ。もう三年も一緒だから。でも、見ない振りをしてくれてるんだ」


 エリーズはほんの少し、穏やかなその表情に罪悪感の影を差した。しかしすぐにそれを隠すと、我の目を見て口を開いた。


「見ない振りをしてくれる所が……リサの悪いところなんだ。ずっと、我慢をしちゃうから。苦しくてもそんな顔はしなくて、代わりに閉じ籠って動けなくなっちゃうの」


「……」


「だからね、だから私は……そんなリサを助けてあげたくて、けれど、私の力じゃそれは無理だったんだ」


 エリーズはこの部屋を軽く見回した。リサは強い女であるが、同時に弱くもろい一面もある。不器用に何もかもを背負ってしまうのだ。背負い過ぎた結果、動けずに過去に囚われて、どうしようもなく立ち止まってしまう。その最たる結果が、この部屋であろう。

 綺麗に両親の思い出が保存され、毎年心を乱しながらとむらいを続けている。放っておけばきっと、リサは何十年とそれを続けたはずである。


 申し訳なさそうに笑ったエリーズは、自分とリサとの出会いを語り始めた。


「……私はね、本当はただの女の子じゃないんだ。少し、良いおうちに生まれて……信じられないかもしれないけど、そこから逃げ出してきちゃったんだ」


「……」


「それでね、右も左も分からなくて、周りは全然知らない場所で……お腹が減って倒れちゃった場所が丁度、リサのお家の前だったんだよ」


 それからエリーズは事情を話し、リサは渋々エリーズを家に泊めることにしたのだという。最初こそ警戒され、腫れ物を扱うような間柄だったが、三年の月日はそれを大きく変えたのだろう。

 喜ばしい筈だというのに、エリーズは残念そうにこう言った。


「だから、ダメなんだよ。私じゃ、リサを助けてあげられないの。もう私は、リサに背負われてたから。リサにとって私は、守るべきものになってたから」


 我はリサとエリーズが言い争いをしている場面を思い出した。我とパーティーを組もうとした時や、我がこの家に泊まろうとした時のことである。どちらにしてもリサは、自分とエリーズを守るために我を排斥しようとしていた。

 それを止めようとしていたエリーズも、最終的には言いくるめられてしまう。居候という立場で強く踏み出せず、強気なリサに言いくるめをされてしまうのだろう。


 リサにとってエリーズは、両親を失った自分が最後に手にいれた、小さな家族のようなものだったのかもしれない。妹のような、そんな存在であったのだろう。

 小さく納得する我に、エリーズが言った。


「ダメダメな私じゃ、リサを思い出から引っ張り出せない。……だから、他の人を頼るしか無かったんだ」


「それが……我か」


「そうだよ」


 エリーズは静かに我を見た。その目は澄んでいて、黒曜石のように落ち着き払った反射をしている。きっと我が来なくても、エリーズは他の誰かを見つけていただろう。我がその誰かになったのは、恐らく偶然だ。タイミングが良かったのだろう。

 クルーガーか、デグ……或いは店主か。恐らくエリーズはいつものふわふわした演技の下で、ずっと吟味していたのだろう。


 誰ならば最適か。誰ならば、リサを救えるのか。


 今更ながら、初めて冒険者として依頼を受けた酒場を思い出した。あそこで受けた、見定めるような瞳。あのときは気のせいでは、と考えていたが、あれはエリーズの目だったのだ。


 エリーズは何でもないようにこう続けた。


「コルベルトさんにリサを助けて貰うために、私は色々計算したんだ。私は不器用で、弱くて、そんなに頭も良くないけど……でも、嘘と計算だけは得意だったから」


「……」


「まず、わざとリサの家に空きがあるって、冒険者組合で言ったり」


 ――え、でもリサ。部屋余ってなかった?


 ――え……ちょ、ちょっとエリーズ! それ言う必要ある!? 


 ――あれ? 駄目だった? この前二人じゃやっぱり広いっ――


 ――あー! そんなことあったっけ?


「次に、私達とコルベルトさんがパーティーを組めるように頑張ったり」


 ――組む意味ないでしょ? 流石に案内と補助くらいはしてあげても良いけど……。


 ――私、てっきり三人で依頼すると思って選んだし……それに、案内と補助って、それほとんどパーティー組んでるのと変わらないと思う……。


 ――確かにそれはそうだけど、よく考えてよ。パーティーを組んだらあたし達は報酬を山分け……ってことは、あの金髪の分の報酬が減るの。


 ――でも、勝手に用心棒なんて私達じゃ出来ない依頼を決めて、それじゃあさようならって……酷いんじゃないかなって。


「はじめての依頼の時に、本当は眠くないのに眠いフリをしてもう一晩コルベルトさんを泊めたり」  


――リサー……もう、良いんじゃない……? 私、眠いよ……。


――お家にコルベルトさんをもう一晩泊めてあげよう? それで眠ったら、もしかしたら何か思い付くかもしれないし。


「そのままコルベルトさんが家に泊まれるように、リサに相談したり」


 ――思い付いたって言うか、なんていうか……。


 ――……このままってのは……どうかな?


「エリザベスちゃんの時とか、風邪を引いちゃったのは計算外だったけど……コルベルトさんの目の前で料理の本を開いて、風邪が治ったら二人でリサに料理を教えてもらおうって言おうとしたり……それは失敗しちゃったけどね」


 ――あんまり難しい本じゃないと思うから、いつか読んでみてもいいかも。


 ――……残念だが、我は料理はしないのだ。


 ――そっか……。



 エリーズが話す言葉の一つ一つが、大きな心当たりとなって我に突き刺さる。道理で、ああ、都合が良いと思うことがあったわけだ。すべてエリーズが計算していたのか。裏で糸を手繰って、その癖表では人畜無害にへらりと笑っていて、神の手さながらに緻密な計画を練っていたのだ。


 考えれば、路地裏で死にかけていた我をリサが捜索していたのも、エリーズがリサに捜索を願ったからであった。


 我はずっと、エリーズが見えないように整えた道の上を歩いてきていたのだ。まったくもって末恐ろしい。まさに神算鬼謀と言うべき頭脳である。

 だというのにエリーズは、驚くような言葉を続けた。


「でも……結局私は出来損ないだから。天才でも、何でもないから。だからリサとコルベルトさんが喧嘩したとき……コルベルトさんに怒ってもいたけど、悔しかったんだ」


「……どういうことだ?」


「……やっぱり、私には大きなことは出来ないんだって。馬鹿な私じゃ、最初から無理だったんだって……そう思えたら悔しくて、苦しかった。もっと私が賢くて、強かったら……そしたら全部上手くいって、リサもコルベルトさんも笑えたのにって」


 どういうことだ? というのは、悔しかった、というエリーズの言葉に掛けた訳ではない。出来損ないの五文字に驚いて漏らしたのだ。

 これだけの計算……いや、演算と呼ばれるべきものを、あれだけ自然な演技の元、日常的に行う十六そこらの女が“出来損ない“だと? 時代が違えば魔女だの化物だのと言われてしかるべきであろう。


 唖然とする我の目の前で、エリーズは唇を強く噛み締め、悔しさを吐き捨てるように続けた。


「だからね……本当は、今も悔しいんだ。リサは変わろうとしてる。コルベルトさんのお陰で、前を向こうとしてるの。でも、それは偶然の産物なんだよ。私は……私の計算は不完全で、殆ど意味が無かったんだ」


 それが、ちょっとだけ悔しい。エリーズの言葉に、我は上手く相槌を打てなかった。だというのに、エリーズは言葉を続ける。


「だから、嫌なの。この私が……中途半端に賢くて、馬鹿な私が嫌いで……ずっと、違う自分で居たかったんだ。何も考えないような、元からお馬鹿さんみたいな振りをしてたら、失敗も何も、怒られないような気がして」


「……」


 我は唐突に打ち込まれた幾つもの真実と、隠れていた糸と、露呈した劣等感が交錯して、考えがまとまらなかった。

 だが、まとまらないなりに、我は思った。


 そんな馬鹿な話は無いだろう、と。


 まるで、人形劇の主催者が、感動に息を飲む観衆を退屈しているとでも勘違いするような、そんな話であった。

 そんなことを考えて生まれた沈黙をどう取ったのか、エリーズは小さく笑った。その笑みは申し訳なさそうな卑屈な笑みで、次の瞬間、エリーズの纏っていた雰囲気ががらりと変わった。

 ぴんと張った弓の弦のような雰囲気が弛緩して、いつものふわりとした笑みがエリーズに浮かぶ。


「……ごめんね。変な話しちゃって」


「……」


「色々言ったけど、私が言いたいのは……皆、嘘をついてるから、気にしなくても良いんだよって、そういうこと……かな?」


 嘘ついてて、ごめんね。そう笑うエリーズは嘘のように平常で、先程までのエリーズこそが幻のように思えた。この我の目と感性をもってして、全く底が見えない……いや、逆に底が見えている。そう感じる演技である。

 硬直する我に小さく一礼して、エリーズが空っぽの皿を持った。続けて我に背を向けて、一歩踏み出す。本来の目的である皿の回収を済ませようとしているのだろう。


 その背中を我はじっと見つめて……そこでようやく声が出た。ようやく脳に整理がついて、それに感情が追い付いた。


「おい、待て」


「え?」


 エリーズはそう声を漏らして我に振り返った。え? ではない。我はその腑抜けた顔に、言ってやりたいことが幾つかあるのだ。今を逃せばいつこの機会が現れるか知れぬ。ならば今言うのが道理だろう。


「お前は、自分が出来損ないだと本気で思っているのか?」


「そう、だけど……」


 我はため息を吐き、エリーズは戸惑うような顔をした。恐らく己が凡才であるという意識がこいつの根底に張り付いているのだろう。付け加えてこの女には、大きく指摘すべき点がひとつある。


 ため息で吐いた空気を吸い直して、我は言った。


「お前が考えた計算とやらは、確かに不完全だ。穴が多く、計算外が多すぎる。例えば……あぁ、そうだな。お前はその計算で、救う相手にお前自身を足し忘れている」


「え? え、えぇと……どういうこと?」


「お前はリサの欠点を『我慢強くて背負い込んでしまう』と、そう言ったな? それを同じ欠点を、お前は持っている。助けてくれた他人の為に懸命な演算をし、己を潜めながら計算を繰り返し、結果お前には何も残っていない」


「……私は、リサが幸せになれれば良いなって、そう思ってたから……」


 エリーズは他人の為に己を削って、それを平気な顔で隠すような女である。正直な所、我の魔族的な視点から見れば気持ち悪いことこの上ない。すぐに他人を庇おうとする輩は、すぐにガタが来るのである。そんな奴を我は部隊で何度か見てきた。

 弱肉強食、弱者は利用されて死ぬだけ。そんな世界だというのに、無意味に他人を庇って早々に死ぬ奴である。


 とはいえ、流石にここは魔大陸ではない。直接として命を失うことはないだろう。だが、溜め込んだ物はいずれ破裂する。身を切って場を繋げば、いつか己が動けなくなる。 

 ……結局のところ、リサとエリーズは互いに依存しあっていたのだ。助けられた命の礼を返そうと身を切るエリーズと、エリーズを大切に守るリサ。

 その共依存を自分で絶っておきながら、この女は自分の傷を見て見ぬふりをするつもりである。これで物語は終わりだと、一件落着だと言うのだ。


 エリーズはまるで、我を反対にしたようであった。恵まれた血統を持っていて、才能を持っていて、生まれつき美しく、何不自由なく生きてきたというのに……弱い自分を繕って、己が幸せになることを一切考えていない。

 その癖、その様子は何だか昔の我を見ているようで――どうにも気分が良くなかった。


 同じ失敗を繰り返しているようだった。見覚えのある悪夢を見ているような気にさえなった。その上、エリーズは才覚のある自分の事を出来損ないだと卑下している。我はそれに苛立ちを覚え、加えて馬鹿らしい自己犠牲をどうしても見過ごすことが出来ず……苦い顔をしながら、独り言のように言った。


「……気に食わん。才能を卑下するのも、自己犠牲を是とする姿勢も、何もかもが不快だ」


 きょとんとするエリーズに我はため息を吐き、軽く後頭部を掻いた。ああ、クソ……お人好しが移ったのか? どうにも調子が狂う。自らで手一杯だというのに、それでも喉は確かに言葉を紡いでいた。


「我はどうにも、お前を見過ごせぬ。放ってはおけない。馬鹿を見逃すのは、我の性分ではないのだ。だから――いつか我が、お前を救ってやる。リサが我を救い、リサをお前が救ったように、我がお前を救い上げてやる」


「え……どういう……こと?」


「そのままの意味である。とはいえ、どうすればいいはまだ立案中だ。だが、我に二言はない。どうにかして、お前に……そうだな――自分は天才だと、胸を張って言わせてみせよう」


「……」


 本当に、性に合わない事であった。助けられてばかりだというのに、失ってばかりだというのに……それなのにどうしてか、誰かをまた、助けようとしている。小さな我の器には、どうにも大きな物を抱えようとしている。


 だが、振った賽は戻らない。吐いた言葉も帰らない。ならば、前に進むだけである。前に進むしか、道はない。


 冷めた金色の瞳の奥でそう思って、我は少しだけ長い瞬きをした。そして、慣れた仕草で背中を壁に預け、ゆっくりと笑みを作る。忘れていないかを少しだけ心配したが……ああ、大丈夫だな。

 我の唇がにやり、と曲がった。完璧に揃った白い歯がそこから覗いて、我の眉が黄金比に(なぞら)えた曲線を描く。


 安心するがいい、と我は言った。断定するような口調の癖に、我の言葉には少なからず迷いがあった。それを断ち切る為に、我は笑った。

 過去の残影も、山程の後悔も、数えきれない心の傷も……それら全部を忘れさせるように優雅で、傲慢な微笑だ。何度も何度も、鏡の前で練習した笑みだった。


「……我を何者だと思っている」 


「……」


 エリーズは言葉を飲み込んだ。ああ、我も同じく我が何者なのか口に出来ない。出来ないが、今はきっと……それでいい。今は、この名前を名乗っても、きっと間違いでは無いはずだ。

 我はエリーズに名乗るように、もしかすれば己自身に名乗るように、こう言った。


「……我が名はヴァチェスタ。ヴァチェスタ・ディエ・コルベルト。金色の――魔王である」


 ほんのちらりと一瞥した窓の外で……雨が止んでいた。浅く割れた雲の隙間から金色の光が差して、目が醒めるような青空が見えた。金色の光と空を真後ろに背負った我に、エリーズが小さく息を飲む。

 それに対して我は、ふん、と鼻を鳴らした。随分とお(あつら)え向きであるな、と苦笑しながら。

ここまで読んでいただいた読者様は、もう一度最初から読んで頂ければ、恐らく違った風味を感じていただけると思います。

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