第三十九話 魔王とリサ
夢を、見ていた。いつもの夢だ。真っ暗で何も聞こえなくて、どうしようもなく広いのに、どうしようもなく狭い闇が周りにある。俺はぼーっとそこで座り込んでいた。
体に穴が空いているみたいで、身動きの一つもできない。ぽっかり空いたそこから、俺の中の全部が零れているみたいで、動く気力さえ失っていたんだ。
忘れられた人形みたいに座り込んでる俺の両目からは、ずっと涙が出ていた。ずっと、ずっとだ。絶え間なく、始めから。俺は、この涙を止める方法を知っていた。止められる人を知っていた。けれどもその人は、もういない。
俺は三日三晩、ずっと座っていた。何も考えることが出来なくて、死んでいるようですらあった。けれど、それは長く続かなかった。音が、聞こえたんだ。何かを壊す音が……例えるなら、そう。大きな扉を押し開けるみたいな、歪な音が。
俺は泣きながらゆっくり首を振った。滲んだ視界に、何か赤いものが見える。それは人型で、俺を見て固まっていた。それは、暫く俺を見つめてから、こう言った。
「何が、あった」
俺は答えなかった。答える術がなかったし、例え術があったとしても答えられなかった。言葉を失って泣き尽くす俺に、人型はもう一つ質問をした。
「魔王は何処だ」
その言葉を聞いて、俺の中の何かが瞼を開けた。この三日に眠っていた何かだ。男は、俺に向かって舌打ちを一つして、お前、と呟いた。その声は似合わない驚きが混じっていて、凄まじい動揺がそこにあることは明らかだった。
「お前……開拓班の金髪か?」
「……」
「いや――違うな。誰だ、お前は。何だその角は」
お前は、と男は言った。その声音は先程と全く異なるものだった。その声には隠しきれない畏怖が浮かんでいて、男は俺の中に眠っている何かを強く見つめた。途端に男は大きく震えて、言った。
「最悪だ……アインめ、死ぬ手前でこんな奴に力を……」
「…………あァ……?」
俺は小さく震えた。どうしてか涙が止まる。体が何だか疼き始めた。おかしい。いや、おかしくはない。ああそうか、と俺は思った。同時に滲んでいた視界が乾いて、男の姿を写し出す。鮮烈なまでに赤を纏った、魔王の右手……カヌス・アーデンだった。
続けて、煤と煙で真っ黒な世界が現れた。ボロボロな謁見の間が、そこにはある。
「まあいい……今ここで……」
先に続く言葉を、俺は聞かなかった。体の細胞全部が沸騰して、爆発しそうだった。どうしてお前がここに居る。俺の中の獣が吠えた。どうして、のうのうとその顔を笑顔に変えることができる。どうして……どうして、魔王様を裏切ったんだ。
全身の毛が逆立った。血液が音もなく巡り始める。
お前さえ、居なければ。
声が喉元で空回りした。俺に向けて歩いてくるカヌスが、ぎょっとしたような顔をした。俺の目を、見たのだろう。向けられた殺意に気がついたのだろう。だが、遅い。遅いんだよ。
俺の頭に血液が集まって、段々視界が赤くなっていく。真っ赤になった熱が俺の吐息を荒くして、全身の筋肉が強張り、俺は怯えた顔のカヌスへ――
――瞬きを、一つした。難しかった。瞼に付いた血が邪魔だったから。俺は荒くなった息を整える事なく、ずっと立ち尽くしていた。俺の目の前に一つ、何かが転がっている。それは真っ赤で、ぐちゃぐちゃな、一つの肉塊だった。
それが何なのか思い出せない程に、一塊になった肉塊の前で、俺はずっと立ち尽くしている。
両手は見なくても分かるくらいに真っ赤で、全部の爪に肉片が詰まっていた。俺の体は傷一つ無くて、返り血がうるさい位に彩を塗っている。
俺は荒く呼吸を繰り返した。何の感情も沸き上がってこない。嬉しさだとか、悲しみさえ浮かんでこない。何もなかった。
暫くして、肉塊が消えていった。赤い光となって、空に散っていく。
その光を見ながら、俺はまた、大切な何かを捨ててしまったことに気がついた。気がついたけれど、それが何なのか思い出すことさえ出来ない。
俺は何度も肩で息をしながら、それを思い出そうとした。けれど、思い出せない。そのうち、考える俺の背中に、幾つか視線が集まっていた。一つか二つの視線が増えて、音もなく俺を見据えている。
俺は考えるのを止めて、振り返った。壊れた大扉の隙間から……見覚えの無い魔族達が俺を見つめていた。その視線は怯えと絶望がありありと混じっていて、俺と目があった彼らは逃げることすら出来ずに呼吸を止めていた。
俺は彼らを暫く見つめて、そして足元の血溜まりを一瞥してから……言った。
「俺は……魔王だ」
返事はなかった。だから、俺はもう一度言った。
「これからは俺が……魔王だ」
何かを忘れている気がする。けれどまあ、どうでもいいか。
「俺は…………我が名は――ヴァチェスタ。ヴァチェスタ・ディエ・コルベルト」
忘れるくらいなら、どうでもいいものに違いない。心の声を聞き流して、我はゆっくりと彼らに背を向けて、玉座に歩き出した。あの人が居た玉座に向かい合って、ゆっくりと座る。そして緩慢に肘をついて、我は言った。
「金色の――魔王だ」
――――――――――
ゆっくりと瞼が開いた。いつもとは違う目覚めだった。見た夢は悪夢ではなく、落ち着いた起床を経験している。寝れば必ず悪夢を見ていたから、こんな目覚めはどうも違和感があった。
ゆっくりと首を動かすと、見覚えのある部屋だ。頭上に窓、右手に扉。そして左手には例の黒い箱があった。
「俺……我は……」
どうしてここに居るのか。その原因を何度か手繰って、短い映像を作る。
リサと二人、お互い泣きながら雨の中を歩いた記憶が蘇り、我は小さく渋い顔になった。けれども、いつものように恥ずかしさは巡らない。惨めだとかも思えない。それらが全部嘘であることを告白してしまったからだ。
ずっと、ずっと誰にも言わず堪えてきたすべてを吐き出してしまった。だからもう、己を繕うことが無意味に思えた。
唯一、十年近く続けてきたこの口調と一人称だけは、嘘ではなく本物になっていて、寧ろこれを捨ててしまえばそれが偽物のような気がする。
ぼーっとリサの家のベッドに寝そべっていると、一階が何やら騒がしい。何だか話し声が聞こえるが、どうにも聞こえづらかった。というのも、未だ外では雨が降っていて、その騒音でうまく耳が仕事をしないのである。
我はため息を吐いて、軽く体を動かした。緩慢な、悠長な動きだ。
ぶり返した風邪と、丸二日の断食……いや、それらは別段どうでもいいか。それよりも、精神的な疲労が大きかった。こうして寝ている間でさえ、ぐるぐると重々しい感情が暴れて止まない。
川底を掬ったみたいに、感情が濁っているのだ。
その濁りをどうにか静めようと、我は別の事を考えた。これからの立ち振舞いである。
「……どうするべきなのだ」
ああ、言葉通りである。どうすればいい。どう振る舞えばいい。特にリサについては……もう、どんな顔をするべきなのかさえわからない。エリーズにさえ、なんと声を掛ければいいのか知らない。我が最後に捨て置いた暴言が、どれだけの鋭さと乱雑さをもって二人を傷つけたのか、想像に難しくはない。
あの時の我は……どうにも、冷静ではなかったのだ。殴られ、蹴られ、吐き出される暴言が過去に重なっていた。無抵抗に近い形で殴られたあの時と、鈍く尖った陰口が脳裏に過って、冷静さを奪っていた。
だが……それは、暴言の理由にならない。我の中で勝手に起きた、いわば見えない爆発なのだ。
ベッドの中で、我は考えた。考えたが、わからない。こんなことは生まれてから初めてなのである。リサとエリーズには見栄を張って年齢を二十幾つだと宣ったが、実際の所、我の年齢は十五か十六……エリーズとほぼ同年代である。
人間でいっても、魔族でいっても子供の我は……いや、この話はよそう。ただの自己弁護だ。
意味のない脳内会議を広げていると、一階から物音がして、階段を上る音がする。我は途端に背筋が冷えて、顔が熱くなった。結局、どうすればいいのかさっぱりである。
けれど、時間は止まらない。進む足音も止まらない。しまいにはどうしようもなく、さりげのないノックと共に、扉が開けられた。
「……」
「……金髪?」
「……何だ」
「あ……起きてたんだ」
扉を開けたリサは、両手に湯気を吐く皿と濡れた雑巾を持っており、返事をした我に驚いた顔をした。そこで一旦、会話が終わる。我とリサ、どちらともが話す言葉を探し、暫く意味のない沈黙があった。
沈黙の果て、リサが動く。ゆっくりと我に向かって歩いてきた。そして、ベッドの傍らにあった椅子に腰掛けると、うつむきがちにこう言った。
「……体調、どう?」
「……問題ない」
「そう」
また沈黙が現れた。我は、何かを言わねばならないと思った。それは義務付けられたものではなく、または、誰に急かされた訳でもない。言うなれば反射に近い感情で、我は言葉を探したのだ。
考えこむ我をどう見たのか、言葉もなくリサは皿をこちらに寄越した。
「……」
「……助かる」
受け取った途端に、鼻腔を薫りが擽る。鼻から脳へ、脳から胃袋へ。電雷のような何かが突き抜けて、じわりと唾液が滲んだ。脳は気まずさに呼吸すら悩んでいるというのに、体は随分と正直であった。
我は言葉を考えながら、ゆっくりとその食事を口に運ぶ。咀嚼の一口で、あぁ、と思った。馬鹿らしいが、懐かしいと思った。
たかが食して十数回の味に、理由の知れない懐古がある。長く、長くそれを噛み締めて、我は一つこう言った。
「……美味い」
「……そっか」
リサはそれだけを言った。だが、反らした顔に差す僅かな朱色が、確かな緊張を伝えていた。それを見て、我の中に納得が湧いた。道理で本当に……美味い訳だ。我はこんなに我を思って作られた料理を食べたことはなかった。毒を盛られている訳でもなく、一切の味付けを放棄したものであるわけでもなく、はたまた生焼けの物である訳でもない。
リサの料理には、噛み締める一口に見えない感情があった。それを飲み込む度に、緊張と気迫を胸に包丁を手にするリサが見えてくる。
二口、三口と口にして、我は少し黙った。探していた言葉が見つかった。どれだけ見回しても見当たらなかった癖に、動かしたつま先にそれはあった。見逃していた、見えていなかったそれを……我は小さく口にした。
「……すまなかった」
「……」
リサは何も言わなかった。静やかなその横顔にもう一度、言葉を投げ掛ける。
「本当に……すまなかった」
「……」
リサはゆっくりとこちらを向いて、そして小さく頷いた。それだけで全てが伝わった。リサの眦が、小さく下がる。同時に、我とリサの間にあった見えない緊迫が霧散したような気がした。
それと同時に我の胃袋が拙い空腹を訴えてくる。その声に従って、我はゆっくりと食事を再開した。
「聞き流してくれても、いいんだけど」
その言葉が流れたのは、我が料理を半分平らげた時であった。リサは相変わらずそっぽを向いていて、組んだ足に頬杖を着いていた。平静を装うような仕種でも、手や足の先に宿る硬直を見れば、穏やかな話では無いということがわかった。
静かに語られた前置きに、我は一瞬どうすれば分からなくなり、体が固まる。しかし、どうにかリサの雰囲気を読み取り、その意思を汲み取った。
ぎこちなく料理を食べ始めた我に、リサが続けた。
「あたしの両親は……分かってたかもしれないけど、もう、居ない」
「……」
少しだけ、リサが言葉を溜めた。
「五年前に……殺されたの」
我の手が静かに止まった。殺された、だと? 我は漸く、この独り言がリサにとって独白に近いものだと気がついた。重々しく鈍色な、悲壮に満ちた物だと理解した。
そっぽを向いたリサは、冷静を保ちながら言った。
「……六年前、あたしは……いや、あたしたちは別の場所に住んでたの。町の名前は――エーテルワイス。ずっと昔に滅びたエーテルホワイトっていう国の代わりに作られた町」
「……」
「多分……あんたは知らないんだろうけど……エーテルワイスは、六年前に滅茶苦茶になったわ。沢山の魔物と、魔族の軍隊のせいで」
途端に我は、飲み込もうとしていた食事が喉奥に引っ掛かった。我は当然、その事件に関与していないし、概要すら知らない。だが、我自身が行ってきた破壊と侵略、虐殺に等しい日々が蘇ってくる。
無表情で無感情に殺し続けた人間達。それらの屍が……指先が、真後ろから我の踵に触れたような気がした。
全く関係ない話だというのに、何故だか糾弾されたような気になって、我はリサから目を逸らした。
「エーテルホワイトが滅んで……その隣にあった小さな町に難民が集まって、そうして出来たエーテルワイスも滅んで……そうしてあたしたちは、更にその隣のミルドラーゼにやってきたの」
「……」
「あたしの親は、二人とも教師だった。あたしが文字を読めるのも、教科書とかがあるのも……そのお陰よ」
見えない点が繋がって、一本の実線になった気がした。そうか、そういうことか。リサが妙に教えるのが上手いのも、民家には珍しく多くの本を持っていることも、そういうことか。我は部屋の右手にある本棚をちらりと見て、続けて一瞬だけ例の箱を見た。
ナイドラとアリサ。二人の名前が脳裏に反芻されて、我は微妙な顔になる。そんな我を知ってか知らずか、リサは淡々と話を続けた。
「……あんたはきっと、あたしの親が魔族に殺されたって……そう思ってるんでしょ?」
「……違うのか」
最低なことだけどね、とリサは言った。その横顔にはありありと不快感が浮き出ていて、後を追った怒りの感情が見たことのない表情を浮かべていた。
抑揚の薄い声に忌避を乗せて、リサは言った。
「あたしの親は……あたしたち人間に殺されたの。それも、罪人として……処刑台で」
「……理解ができん。恨むのならば魔族だろう。どうして国を再建する途中に身内を糾弾するのだ」
「……あたしの親が、教師だったからよ」
ますます訳が分からなくなった。困惑する我を一瞬だけリサが見て、そしてまた視線を反らす。その不可思議な動作は、次に続く言葉によって大きく意味を持った。
「あたしの親が魔族に関して、『話し合えばきっと平和を築ける』って教えてたから……『彼らも本質は人間と変わらない』とか『彼らにも心があるんだ』とかね」
「……」
我はリサの両親が殺された理由を早々に察して黙り込む。リサの両親の言葉にあの人の言葉が重なって、くらりと目眩のようなものが我を襲った。人間にも、そんなことを語る者が居たのか。そんなありえない話を、霞のような理想論を語って……そしてやはり同じ結末に至ったのか。
ちらりと見たリサの横顔に、怒りはなかった。代わりに大きな悲しみがその顔に込められており、何一つ変わっていない筈の無表情が、やけに衰弱して見えた。
「……矛先が要るのよ。どうして二度も国を壊されなきゃいけないのか、理由が必要だったの。それが、あたしの親だった。あたしの親が……魔族と内通してたって、そういうことにされたわ」
「……」
「大した根拠なんて何一つ無いわ。でも、そんなもの必要なかったんでしょうね。……あの状況で魔族を擁護してた私の両親が、その他大勢からどう見られてたかなんて考えなくても分かるから」
以前見た写真の二人が、絶望に満ちた表情で処刑台に上る様子が、我の脳内に現れた。そして、それをどうしようもなく見つめる、幼きリサの姿が。
リサは、呟く様に言った。
「……もう、過ぎたけど……あんたがこの家に来た二週間前が、お父さんとお母さんの命日だったの」
「……お前が我を強く拒絶したのは、そういうことか」
「……」
リサは何も言わなかった。無言は肯定に近い空気をしており、我は静かにそれを受け取った。魔族には、葬式の概念が無い。死者を弔う概念が無い。だから、あの箱がどれだけ大切かについて、正確に理解するのは難しい。
……しかし、大切な者を失う辛さだけは、一等理解しているつもりだった。
消えていくあの指先が、髪の毛一つ残さず消えていくあの人が、脳裏に焼き付いて消えない。
リサはすべてを語り終えると、じっと箱を見て、ゆっくりと席を立った。独り言を呟き終えた、といった風貌である。リサはゆっくりと扉へと歩いていき、そして振り返らずにこう言った。
「お大事に」
「……ああ」
我は唖然としてそう言った。リサが扉を開けて、その姿を消しても、我は依然として動けずにいた。手に持った皿にはまだ四割の粥がある。
我は今更、これまで己が犯してきた行動が、どれだけ恐ろしいものなのかと理解した。罪の意識が我を詰って、ベッド上に四肢を縛り付ける。
我は、手元の皿に視線を落とした。既に料理は冷め、湯気は無い。それを口に運ぶ資格が、果たして我にはあるのかと考えたが、食べない訳にもいかなかった。
冷めた料理は変わらず美味いというのに……その美味さがどうにも、鈍っているように思えた。




