第三十八話 帰ろうよ
不思議な雨が降っていた。砂漠に似つかわしくない雨だ。ここが砂漠の真ん中だなんてわからなくなるくらいの豪雨だった。空から打ち付けるみたいな雨を、俺は大きな背中で一杯に受けて、リサの前に頭を差し出した。
何のつもりなのかは自分でもわからない。わからないけれど、体が動いたんだ。罪人が、断頭台の添え木に顎をつけるみたいな、そんな仕草だった。
俺はリサの目の前で大きく這いつくばって、頭を下げて、懇願した。もう無理だから。終わらせて欲しかったんだ。
俺が自慢にしてた金髪に、大粒の雨が重なる。無様ってことを百も承知で、俺は言った。
「なあ……頼むよ、頼むから……」
リサはずっと、何も言わなかった。きっと何かをリサが呟いても、それは雨の音に掻き消されて消えてしまうのではないか。俺はそう思って、耳を澄ませた。答えは直ぐには来なくて、俺はしばらく待った。
「……――や」
「……」
リサが何かを言った。俺はその言葉が肯定であって欲しいと思って、歯を食い縛った。固まる俺の背中に、雨に混じって一つ――呟くような、叫ぶような一言が降ってきた。
降ってきたそれが刺さって、こんな声になる。
「……絶対に……嫌」
「……どうして」
俺はリサの顔を見ないで言った。その言葉がある意味で、終身刑を宣言する言葉に聞こえて、俺の体は強く震える。そうして震える喉奥から、何か熱いものがせりあがってきた。
「どうしてだよ……俺に、まだ生きろって……言うのか?」
「……」
「もっと苦しめって……永遠に過去を悔やめって、そういうことなのか?」
俺はリサが途端に恨めしくなった。あまりにも俺の言葉は勝手で、そんな俺にとってはリサの言葉も同じくらい勝手だった。やっと見た救いを穿ったような、希望を取り上げられたような気分だった。俺は苛立ちも困惑も混ぜ合わせた、ヘドロみたいな声で唸った。
「ふざけんなよ……俺に、俺にどうしろって言うんだよ!! もう、全部試したんだ! あの人を戻せないかって、禁忌に手を出したり、時間を巻き戻そうとだってしたんだ!!」
「……」
「でも、無理だったんだ! 俺なんかじゃ、そんな大それたことは出来ないんだよ……それなのに、それなのに……」
俺は濡れた地面を殴り付けた。弱々しい苛立ちが散って、リサの足元が汚れる。けれどもリサは何も口にしなかった。冷徹で、残酷で、血も涙も無いように立ち尽くしていた。
俺は二の句を叫ぼうとして――それで、あぁ、気がついたんだ。
リサの両膝が、震えている。驚いて、ゆっくりリサを見上げようとした俺の掌に、熱い雨が一滴だけ降った。見上げようとする俺を咎めるように、リサが口を開いた。
「……分かんないの」
「……え?」
「分かるわけ……ないでしょ。どれだけあんたに説明されたって、受け入れられる訳、無いじゃない」
「……」
「あ、あたしは……あたしは、ただの女なの。頭も顔も普通だし、お金もあんまりないし……特別な人じゃないの」
俺は何が何だかわからなかった。けれど、その疑問の答えがリサの続く言葉にあることは、確かにわかっていた。だから俺は黙って下を向いた。その言葉の答えを聞こうとしていた。
リサは何度も迷うような吐息を吐いた。幾度も言葉を選んで、何度か言葉初めを躓いて、そして言った。
「……知らないの。魔王とか、力とか言われても分かんなくて、その……もう滅茶苦茶で……それなのにあんたはいきなり殺してなんて言ってくるし……」
「……」
「や、やめてよ……本当に。あたしに委ねようとしないで。あんたの命を、簡単に渡そうとなんてしないでよ……。あんたが苦しんでるのは、分かる。苦しくて、苦しくて、壊れそうだってことも分かるの」
でも、とリサは続けた。俺は黙って雨に打たれていた。
「でも……だからって、押し付けないでよ。あたしは……うん。あたしは――あんたの神様じゃ、無いんだから」
「……」
「私は、普通の女だから。……あんたが欲しがってる人じゃ、無いの。あんたを殺したり、許したり、諭したりできる偉い人じゃ……ないの」
……知っていた。知っていたんだ。きっとリサは断るだろうと、或いは答えを出さないだろうと知っていた。
俺は、こんな有り様でも王様だったから。分かるんだ。知っている。
この女はいつも、俺の言う事を聞かないんだ。俺が望んだ存在には、なってくれないんだ。期待外れな……そんな女だから。
それを知っていても、俺は頭を下げていたんだ。俺は、押し付けた。リサに期待した。こいつが俺を止めてくれるんじゃないかって、全部受け止めてくれるんじゃないかって、思っていたんだ。リサに俺を殺せる手段なんて無いことは知っていたのに、あったとしても、この女がそれを選ぶはずが無いのに……まるで神に許しを乞うように、俺はリサを崇めたんだ。
俺はそれを早々に見破られて、鋭く突き上げられて……どうしようもなく恥ずかしかった。恥ずかしかったし、苦しかった。俺は、まだ終われない。生き長らえなくてはいけない。
あれだけ恨んだ神にすがって、こんなに醜い様を晒して、失敗に失敗を塗り重ねて、喉を絞められながら歩いている。
それが苦しくて、苦しくて、苦しくて――地面に頭を擦り付けていた俺に、リサが言った。まだ自分の言葉は終わっていないと、怯えて震えたその様でも、いつもの強気で言うみたいに。
「でもね……普通のあたしにも、一つだけ、で、できることが……あると思うの。上手くできるかとか、そんなんじゃなくて……やらなきゃいけないことがあるから――」
言葉の最後に、じわり、と俺の体に熱が滲んだ。それは炎だとか、光だとかではない。それらに比べれば頼りない。そんな、そんな熱だった。
「……ぁ」
俺は小さくうめいた。声にもならない声が響いて、リサの腕の中に消えていく。俺は……俺の体は、リサに抱き締められていた。伏せた胴体を引っ張られて、優しく抱き締められた。驚きに開いた視界の右に、濡れた茶髪が一纏めになっていた。
リサは、両膝を地面に着けながら言った。
「あたしは、あんたに何もできない。許したり、諭したり……こ、殺したりは出来ない。……あたしは、あんたに何も言えないのが……悔しいの」
「……」
「でも、そんなあたしにだって、言えることがある。王様とか、神様とかじゃないあたしでも――言えるの」
俺は呆然としていた。俺の体は熱くて、だというのに寒くて、指先はだらりと地面に触れていた。そんな寒さを溶かすように……一つの熱があった。そんなはずはなかった。リサの体は雨に濡れている。俺の体は熱い。熱なんて感じる訳がない。
なのに、どうしてだ。わからない。どうしてこんなに――温かいんだ。
疑問が空回って、不意に思った。あぁ、そういえば……誰かに抱き締められたことなんて、無かったな。触れるものを壊してばかりで、守るべき魔族には腫れ物扱いを続けられて――いつのまにか、俺は体温を忘れていた。
久々に触れた肌の熱が、呟く声の震えが、肩口に触れる涙の全てが……温かい。俺は息が出来なかった。呼吸を忘れた俺に、リサは優しくこう言った。聞いたことの無い声色で、聞いたことのない言葉を。
「ねえ――帰ろう?」
「……」
「帰ろうよ……そしたら、なんとか頑張って、あたしがご飯作るから……一緒に帰ろう?」
「……かえ……る?」
そんなこと、生まれてから一度だって言われた事がなかった。俺は言葉の意味を考えた。今までも、知らない言葉の意味を見つけるのは得意だったんだ。
考えて、考えて……それで俺は、ああ、と呻いた。知ってるよ。その言葉の意味は知っているけど……だから、なんだっていうんだ。
俺は抱き締められたまま、身動きの一つもせずに言った。
「どこに……帰るんだよ」
「……家に」
「俺に……俺には、家なんて無いんだよ……! どこにも、どこを探したって無いんだ。前の世界にだって、無かったんだ。それなのに、一体どこへ――」
「あたしたちの家でいいからさ」
一緒に帰ろうよ。言葉を遮って、リサは涙声で言った。言葉と一緒にもう一度抱き締められて、胸が苦しくなる。苦しくなった筈なのに、どうしてか俺は、漸く呼吸ができた。止まっていた、忘れていた呼吸がやってきて、しかしそれはどうにもおかしかった。
息を吸えば息を吐いてしまって、息を吐けば息を吸ってしまって……そのどれもが不安定で震えた嗚咽だった。
俺は何度か考えた。いろんな事を考えた。これまでの苦しみも、これからへの虚しさも、全部。それらを全部、吸って吐いて、瞬きをする。
滲んだ視界を瞼が黒く染める度に、三人で囲んだ何気ない食卓を思い出した。初めて見つけた、帰るべき場所を思い出した。苦しくて苦しくて、死にそうで溺れそうなのに……呆れ顔で俺を見るリサと、朗らかに笑うエリーズを思い出せば、また歩けそうな気がして、生きるか死ぬかを本気で迷った。そして――もう少しだけ……歩いていようかと、そう思った。
そんな自分に気付いた瞬間、俺の体は泥みたいに柔らかくなった。その感覚に思わず崩れそうになりながら、俺は言った。
「…………あぁ」
その声音はこれまでのどんな言葉よりも情けなくて、ボロボロで……だというのに、金塊みたいな確かさを含んだ言葉だった。それはきっと、俺が自分で考えて自分で言った、久しぶりの言葉だからだろう。
俺はもう一度、あぁ、と言った。雨音で掻き消されないように、確かにリサの耳元に届くように、もう一度。




