第三十七話 魔王の願い。あるいは、魔王を討つ女
雨が、雨が降っていた。土砂降りの雨だ。俺はそんな雨の中で、汚い地面に凭れながら笑った。喉の奥が焼けるように痛くて、眩暈がしそうだった。
ゆっくり視線を上げると、びしょ濡れのリサが居た。俺の話の全てを、リサは黙って聞いていた。相槌や頷きの一つもなく、それらの手段を忘れてしまったみたいに、リサは黙っていた。
後ろで結んだ茶髪は水を吸っていて、重くなっているだろう。それでもリサは動かなかった。ただ瞳だけが微かに揺れていて、目元から止めどなく涙を流していた。雨粒とそれが幾度となく交わって、水溜まりに波紋を起こす。
俺は喉が痛かった。同時に頭も痛かった。理由は分からない。けれど、なんだか俺はその痛みが心地よかった。自分が罰されているようで、正しく罪を償っているようで嬉しかった。
俺は、ゆっくりと唇を動かした。
「……俺は、それから……まず始めにカヌス・アーデンと勇者とか言われてた人間を殺した。勇者の居た国を地図から消した。そのあとに、人間の国を全部壊した。町を滅茶苦茶にした。あの人の力で……俺は世界を滅茶苦茶にしたんだ」
「……」
「お前は前に……魔王だってのに人間に甘いって言ってたが、それは当たり前の事なんだよ。俺は人間を殺した。怒りのままに殺して、殺して、殺して……地上の人間がほとんど居なくなる位に殺した。だからさ……もう、怒りも恨みもほとんど無いんだ。そんな衝動が枯れるくらいに、殺し続けたから」
「……」
「魔族は、そんな俺のことを嫌っていた。暗殺者が来たり、食事に毒を盛られる事もあった。だから……お前の料理が美味しかったのも、きっと当たり前のことだったんだろうな」
リサは沈黙を保っていた。俺に掛けられる言葉を持っていないような、絶句を通り越したような沈黙だった。だから俺は、リサに向けてありったけを話すことにした。俺が背負ってきた物も、思ってきたことも全部。
「俺は洞窟に居たから、暗いところが見える。何日も食わなくても生きられる。汚れた空気も、何てことない。でも……だから、なんだっていうんだ」
誰が、そんなものが欲しいだなんて言ったんだ。そんな思いが俺の中にあって、その先に続く言葉を引きずり出した。
「そんなの、意味がないんだ。無駄なんだよ。そんなのが必要ない奴に生まれ変わりたかったって、何度も思った」
頭がくらくらする。熱で浮いていく。だというのに、言葉を続ける唇だけは無意識に動いて、確かな本音を吐露していた。あの酒場で拍手を受けた時だって、と俺は言う。
「ただ突っ立ってただけで、なんで拍手されるのかって、気持ち悪かった。その程度で、そのくらいで褒められたくなかった。俺なんて、独りじゃなんも出来ないんだ。俺は……俺自身は何もしてない。全部、魔王様のお陰だ」
「……」
「何もかも失敗して、何一つ恩も返せなくて、誰一人だって救えなかった癖に、どうして褒められるんだ?」
魔王様の力は凄まじかった。ただの蜥蜴だって、神々を倒せるくらいの強さになった。だからだ。だからこそ、俺は苦しいんだ。俺が成すこと、俺がこなすこと全てが、俺の力ではない。
山を消しても、星を消しても、国を消しても……何か大きな事を成すたびに、身の丈に合わないこの力に苦しんだ。
「俺が自分の力でやったことなんて、何一つ無いんだよ。俺は……俺はずっと、あの人の残像を追ってるんだ。あの人からもらった力で歩いてるんだ」
もう絶対に届かない、あの人の背中を追っている。どれだけ走っても、走っても、あの人の隣に立てないんだ。金色の後ろ髪しか見えないんだ。
それでも、と俺は言った。
「それでも俺は、国を守らなくちゃいけないんだ。力が借り物だって、馬鹿だって……言葉も文字も覚束無くたって、それでもやらなきゃいけなかったんだよ」
「……」
「それが、魔王様の残してくれた物だから。魔王様が守った物だから。だから、俺は戦わなくちゃいけない。最強じゃなきゃいけない」
雨が一際強くなった気がした。俺は、守らなきゃいけないんだ。どれだけ彼らに後ろ指を指されても、影で馬鹿にされても、それでも守らなきゃいけなかったんだ。それが俺の義務で、贖罪のつもりなんだから。
俺は苦しくなった。息も、心もだ。張り裂けてしまいそうだった。いつの間にか、俺まで涙が止まらなかった。リサは何も言わなかった。一言も返事をしなかった。
声を掻き消すような雨音を、逆に消してしまうように、俺は声を張った。
「あの人から貰った名前で、貰った王冠を頭につけて、無様な事なんて出来ないんだ。俺は、魔王じゃなきゃいけない。俺は、最強じゃなきゃいけない。この名前に相応しい魔王にならないといけないんだ……!」
それが、俺にできる全てだった。何もなくても、全部貰い物だったとしても、俺は魔王なんだ。あの人の名前を、俺は背負ってるんだ。だから、俺は俺を繕った。沢山の大きな嘘をついた。
言葉を練習した。雰囲気を取り繕った。年齢も、過去も、自分の思考にさえ嘘をついて……そうして、金色の魔王が完成した。荘厳で傲慢に言葉を振り撒いて、自信満々に高笑いをする、最強の魔王。それが我だった。
だからこそ、我は堂々と名乗るのだ。繕い続けた嘘がどれだけ重くても、苦しくても……金色の魔王、ヴァチェスタ・ディエ・コルベルトの名を。
「俺は……力を取り戻さないといけない。最強になって、神に復讐して、天国のあの人が、笑顔になれるように……ならないといけないんだ」
「……」
それが俺の生きる意味だった。我が前へ進む意義だった。言い換えれば、それしか残されていなかったんだ。
でも、と俺は口にした。その声は、自分でもびっくりするぐらい震えたものだった。
「でも、でもさ……もう、苦しいんだ。もう、疲れた。何処へ行っても、あの人は居ない。こんな力だけがあって、何が嬉しいんだ?」
俺は……俺は、寂しかったんだ。一人きりの玉座が寒くて、寒くて堪らなかった。国を見下ろして飲むワインが不味くてしょうがなかった。俺はいつも一人きりだったんだ。
周りは全員俺を嫌っていて、だからなおさら自分を出すことが出来ないんだ。
俺は鼻をすすった。少しの沈黙が流れて、俺達の体を濡らした。冷えていく体に、剥き出しになった過去に、俺は小さく震えて、言った。
「……俺は、あの人みたいになりたいって、ずっと思ってた。……でも、もう何年も過ぎて、ようやく解ったよ。解ったんだ。俺は、あの人になりたいんじゃない。魔王になりたいんじゃない。あの人に――ありがとうって……そう、言いたかった。それだけなんだ」
「……」
「それで、遠くからでも見守れたら、それでよかった。本当に、それだけだったんだ」
今更な答えが、そこにはあった。リサが小さく震えたような気がした。この答えを見つけるまでが遅すぎて、遅すぎて……もう、取り返しがつかなくなっていた。
誰がが言っていた。本当に大切な物は、失ってから気がつくんだ、と。その言葉が鏃となって俺の心を撃ち抜き、返しが引っ掛かって抜けない。
俺はあまりにも愚かで、若かったんだ。お陰でもう、この心には傷跡しか残ってない。
俺は喉の奥から深く咳を吐いて、囁くように言った。
「俺には、未来が見えないんだ……。これから先も、ずっと王冠をつけてるのかって、独りぼっちの魔王で居るのかって……そんなの、そんなの無理だ。耐えられない」
俺の両手には、沢山の傷と返り血しかなかった。それが、あの人の背中を追った俺が手に入れた物だ。俺が自分の足元を見れば、山ほどの屍があって、俺が後ろを振り返れば、震える蜥蜴だけが居た。
俺には、何もなかったんだ。
それを強く噛み締めて、俺は言った。その言葉を言う事を一瞬だけ躊躇ったけれど、それでも喉の奥から何かが言葉を押してきて、するりと声が飛び出した。
「だから……この世界に飛ばされた時、力が無くなったって気がついた時……俺は死ぬほど神を憎んだのに――ほんのすこしだけ、嬉しかったんだ」
リサが息を飲んだのが聞こえた。あぁ、そうだ。俺は嬉しかったんだ。重すぎる王冠が消えてしまったことが嬉しくて、けれどそんな感情が信じられなくて、神と俺自身に対して激しい怒りが込み上げたんだ。
俺は涙声になりながら、リサに向かって頼んだ。正真正銘、俺からリサへの頼みごとだ。我からリサへの、最後の願いだ。
「なあ、リサ……もう、疲れた。俺には無理だ。もう、生きていたくない。これ以上、前に進めない。耐えられない」
だから、と俺は言葉を継いだ。リサはもうどうしたら良いのか分からないような顔で俺を見て、俺の目を見て――苦しそうに首を振った。
「だから、どうか――ああ、俺を殺してくれ」
「……っ」
リサは悲鳴のような沈黙を上げた。その姿は処理しきれない感情に押し流されるのを、必死に堪えているようだった。それを見て、俺はいくつかの感情を乗せた吐息を吐いた。
……もう、たくさんだ。もう、無理なんだ。だから、いっそ……殺してくれ。世界最強の大嘘つきを、王冠をかぶった鍍金の蜥蜴を……もう、殺してくれ。




