第三十六話 大嘘つきの大蜥蜴
次に目覚めた時、俺は何処かのテントの中に寝っ転がっていた。真っ白な寝袋は血塗れで、俺の顔には凝固した赤黒い血液がこびりついていた。
「……あぁ?」
どういうことだかさっぱりわからねえ。何で俺は生きてるんだ。気を失うまでの数時間を脳裏に蘇らせる。確かに俺はカヌス・アーデンとやりあって、ぼこぼこにされて……セパール隊長が……ああ。
「わかんねえ」
馬鹿が頭使うだけ無駄か、と思って、俺は体を起こした。思った以上に体が固い。どんだけ寝てたんだ? 体の傷はきれいに治っている。見る限り、丸三日は寝ていたに違いない。
俺はゆっくりとテントの外に出た。周りがどうなってんのかを知らなきゃいけないからだ。だが、恐る恐る出てみれば……誰も居ねえ。魔族どころか魔物の影もなかった。本部は泥棒に盗まれたみたいに空っぽで、俺はそんなところにぽつんと立っていた。
「どういうことだ……?」
首を傾げながら、俺は近くの給水所で水を汲んで体を洗った。途中、色んなとこに目を向けてみたが、誰も居ない。気配が一切しないんだ。
体に付いた血を全部洗い流した俺は、適当な服に着替えて、どうしたもんかと立ち尽くした。
「……『行け』」
ぼそりと呟いた言葉に、返事はない。一人きりで考えて、思い出した。ああ、そういうことか。
「魔王様の所に……」
カヌス・アーデンが裏切ったと、そう伝えなくてはいけない。だが、それよりも先にカヌス達が侵攻を始めていたら……。
俺は居ても立ってもいられなくなって、本部から走り出した。俺が眠ってたのは怪我の治り的に大体二日か三日。それだけありゃあ兵士を集めて攻めるくらい簡単に出来る。むしろ兵糧の問題を見て、あいつらは直ぐに攻め入らなきゃ餓死する筈だ。
――もう、戦いは始まっているかもしれない。
そんな予感が俺にはあった。だから、全力で走った。森の中を、山の上を、湖の畔を、だだっ広い草原を。途中、腹が減った。何もまともな物を食ってないから、久々に空腹だったんだ。だが、今更飯を探して料理して、その上で食うなんて時間は無かった。ここから国までは馬鹿みたいに遠い。食うにしても少しでも走るべきだった。
俺は走った。まだ濡れていた金色の髪を靡かせて、見渡す限りの景色を突っ切った。昔を思い出すみたいな全力疾走だ。だが、昔とは早さが違う。今の俺は風よりも早い。矢よりも速い。その上、走る一歩は力強くて、体力も段違いだった。
走って、走って、走った。太陽が沈んで月が出ても走った。銀色の月光をぶったぎって走った。道すがら俺に突っ込んでくる魔物が居たが、そんな奴らの相手をしている暇はない。
猛毒も、自爆も、精神攻撃もしてこない魔物どもなんざ簡単に倒せるが、生憎その時間すら惜しいんだ。
走りながら、俺は考えていた。
俺はカヌス・アーデンに及ばない。魔王様に及ばない。あの人たちに比べれば、俺なんて向かい合うのがおこがましい位の雑魚だ。カヌスにも、あれだけ啖呵を切っておいて傷一つ負わせられていない。
あんな化物の本気を相手に角をへし折って負かしてしまう魔王様の力を再確認してしまうが、同時に悔しい。
俺があの場でカヌスを止められていれば、きっと恩を返せていたのに。結局は手加減したあいつに一発くれてやるだけで半殺しだ。俺は多少強くなったが、その程度じゃ上の奴らには勝てない。勝負にならない。
もし、今本当に国で戦いが起きているとして……俺は、役に立てるのだろうか。あの人を守れるんだろうか。たかが――たかが蜥蜴の分際で、竜王や魔王の息子に、立ち向かえるのだろうか。
俺はぎりりと奥歯を噛んだ。この期に及んで、天上の神どもが憎たらしい。俺がせめて普通の魔族にさえ産まれていれば、今ごろはきっと高みに居た筈なのに……。
手の届かない世界線への妄想を、俺はなんとか握りつぶした。今は走ろう。あの人の元へ走ろう。俺みたいな蜥蜴だって、命を削ればきっと……何かが出来る筈だ。
そうやって踏み出した一歩に、本当に微細な灰の香りがちらついた。
―――――――――――――――
俺は走りながら、嫌な予感がしていた。血の匂いが風上からしてくるのだ。何かが燃える香りがする。未開の地では、匂いは重要な物だった。鼻が悪いやつは直ぐに死ぬんだ。二年を生きた俺の嗅覚は、確かに研ぎ澄まされていた。
その感覚が、どうか鈍っていてくれと俺は切実に願った。願ったが……どうしてもその匂いは消えない。既に月も巡り、太陽が水平線から見えている。俺の体は水分と栄養を欲していたが、なんとか説き伏せた。
はち切れそうだと早鐘を打つ心臓を宥めて、俺は一歩を進み――遂に、匂いの元を見つけた。見つけてしまった。
何か別の物が、燃えていて欲しかった。動物が怪我をした程度なら良かった。だが、俺の視線の先で真っ赤になっていたのは、見果てぬ魔族の国だった。
俺は思わず、これまで踏み出してきた足を止めてしまった。遠く、視線の先で国が燃えている。その手前の地面は、何者かの行進で踏み固められたようで、緑の草が疎らになっていた。
「……う……そ、だろ?」
遅かった。その言葉が俺の中に落ちてきて、俺の心の中にある全部を押し潰した。真っ黒なそれは退かせないくらい重くて、心の部屋が一杯一杯になってしまった。
全身が強く強張って、掻いたこともない汗が止まらない。血液みたいにどろどろした汗が、止まった呼吸の代わりに流れ出した。
息を止めて立ち尽くす俺の前で、燃える国が小さく光った。金色の煌めきだった。俺は、あの光に覚えがある。あれは魔法の光だ。あの人が使う……魔法の光だ。
それを見た瞬間、俺の中の全てが始まった。心臓が一拍を打って、肺が吸えるだけの空気を吸い込んだ。次の瞬間、俺はこれまで生きてきた中でも一番早く走った。
もう頭の中は空っぽだった。見えた金色の光にだけ突き進んで、それまでの全ては無視をした。壊れた防壁も、黒い煙も、強い血煙も。
それに気をとられる時間で、全てが終わってしまうと思った。だから俺は全力で走った。爆発してひしゃげた国の門をくぐって、真っ赤な町の中を倒れる沢山の人影を無視して、ごみになった家を飛び越えた。
あちこちが燃えていた。あちこちで、死んでいた。しかし、跡形もなく壊れた魔王城の門に倒れていたのは、魔族ではなかった。ああ、そうだ、と俺はようやく思い出した。俺たちは死ぬと空気に溶ける。死体なんて残らない。今まで見てきたのは、魔族じゃない。この死体は――
「人……間……」
荒い呼吸を整えて、確か『銃』や『手榴弾』とかいう武器を握って絶命する人間を見つめた。思わず足が止まったが、立ち止まっている余裕なんてない。息を整えながら、人間の騎士や、人間の魔法使いを飛び越した。そうやって城の中に入った時には、俺の顔は真っ白になっていた。
人間が攻めてきた。あの魔族達が裏切るより先に? カヌスは何処へ行った? 魔王様は無事なのか? あの武器はなんだ?
そんな考えばかりが脳みそを滅茶苦茶にしていて、とてもまともな神経では居られなかった。城の中は外と違って真っ暗で、すべての蝋燭が消えていた。消えた蝋燭の足元には、沢山の血溜まりと持ち主の消えた杖やナイフがあった。
俺は取り敢えず、上へ向かった。人間の死体と空っぽの血溜まりが大量にあるフロアを抜けて、倒れこみ絶命する人間の騎士の横を通って上を目指した。俺は城の中になんて入ったことがなかったから、何処へいけば良いのかさっぱりだった。だけど、血の匂いが新鮮な方に行けば、新しい死体にたどり着けることくらいは分かっていた。
真っ暗な城の中には、死の臭いしかない。壊れた植木鉢と割れた窓。真っ赤なガラスの向こうには、黒い煙と暴走する炎だけがあった。むちゃくちゃに傷が付いた壁を見る度に、大きすぎる血溜まりを見る度に、俺の呼吸は荒くなった。それでも、俺は俺が見たあの金色の光を信じた。あの希望に、俺はすがった。
血の臭いを辿って、辿って……俺は遂に、大きな扉の前にたどり着いた。奥から、誰かの気配を感じる。俺の二倍はある扉には幾つもの傷と歪みがあって、よく見れば外れかけていた。
ボロボロの扉の隙間を覗いて、俺は部屋の中を見た。部屋の中は明るかった。だがそれは照明の明かりじゃなかった。
部屋の壁や窓が大きく壊れていて、この扉の向かい側の壁以外、滅茶苦茶に吹き飛んでいたんだ。最早部屋としての概念を確立していないこの場所の奥には、一つの椅子があった。椅子は豪華な作りをしていて、その後ろの壁には巨大なステンドグラスがあったが、大きくヒビが入っている。
あまりにも滅茶苦茶な部屋の状況に俺は驚いたが、それよりも驚くべきことがあった。俺の目を奪うものがあった。それに比べればステンドグラスも椅子も、切り裂かれた絨毯や落ちたシャンデリアも気にならなかった。
赤と金色の装飾した椅子に、誰かが凭れ掛かっていた。肘掛けに肘を置いて、半身を椅子に預けて地面に座りこんでいる。赤い炎に照らされて見える髪の色は――金色。
思わず止まった俺の呼吸に被せて、懐かしい声が響いた。
「……そこに、誰か……居るのか?」
魔王様の声だった。俺は直ぐ様鉄の扉に両手をおいて、耳障りな音と共に押し開いた。今一度しっかりと見た部屋の様子は凄惨で、広々とした謁見の間の床には沢山の血溜まりがあった。
激しい戦いの痕跡に俺が息を飲んでいると、魔王様がまた声を出した。
「誰だ……名前を名乗ってくれ」
俺は一瞬だけ、悩んだ。悩んで唾を飲み、そして震える唇を開いた。
「……ヴァチェスタ」
魔王様が息を飲むのが聞こえた。俺は俺で、敬語なんてあまり知らないから、どうやって話せば良いのか分からなくて、不安で不安でしょうがなかった。
長い沈黙の中、魔王様がゆっくりと言った。震えた声だった。
「……そうか、君は……本当にあの地獄から這い上がって来たのだな。良くやった。偉いぞ」
「……」
「……私は、見ての通りだ。……ふふ、こんな再会になってしまって……すまないな」
そんなこと、と言おうとして、俺は気がついた。椅子にもたれる魔王様の足元が赤い。鮮烈な血の匂いがする。俺は思わず口を手で抑えて、一歩魔王様に近づいた。魔王様は無言で、何も口にしなかった。俺はその無言が堪らなく怖くて、それを壊すために、どうにか一歩ずつ前に進んだ。
そうして、暗がりに凭れる魔王様の姿を近くで見て、俺は呼吸が止まった。魔王様の体に、幾つもの傷がある。赤と黒のドレスはボロボロで、赤黒い染みが増えていた。白く美しい肌は血色を失って更に白く、瑞々しい筈の唇は青ざめていた。
金色の瞳は申し訳無さそうに細められていて、美しい金色の髪は所々に血を滲ませていた。
「……人間の技術には、驚いたよ。……銃だとか、手榴弾だとか……魔法を封じる魔方陣も、気配を完全に消す首飾りも……見たことがなかった」
「……」
「知識も、それに対する貪欲さも……彼らの方が、一枚上手だったようだ」
俺は、言葉が出せなかった。なんと返せば分からなかったし、分かったとしても言えなかった。生まれて初めて、俺は言葉を失った。絶句だ。喉の奥に穴が開いたみたいで、呼吸以外の機能を奪われてしまったみたいだった。
そうやって呼吸だけをするうちに、俺の心は滅茶苦茶になっていた。嵐だとか、雷とかとは比べ物にならない。心っていう箱を乱暴に掴んで、上下に振り回すみたいな感じだった。
俺は魔族が憎かった。魔王様に対する奴らの裏切りを、激しく嫌悪していた。だが今の俺は、それよりも人間が憎かった。許せなかった。今ならば、カヌスの人間への憎悪を完璧に理解できた。許せない。許せない。
激しい怒りと憎悪と、遅れてやってきた悲しみや無力感が俺のことを激しくなじった。
そんな俺の様子を、魔王様は困ったような顔で見て口を開いた。
「そんな顔を、しないでおくれよ……折角、折角綺麗な顔になれたんだろう? だったら、格好よく……笑っていてくれ。無理ならせめて、そんな顔だけはしないでおくれよ」
無理だった。笑うことが出来なかった。仲間の冗談には笑えたのに、あの時初めて笑顔を覚えたのに、もうこれっぽっちも思い出せない。全部が全部、塗りつぶされている。だから俺は、歯を食い縛った。強く歯を食い縛って、なんとか暗い顔をしないように耐えた。
魔王様が俺に向かって何かを言おうとして、大きく咳き込んだ。続けて、その口から真っ赤な血が吹き出す。俺は大慌てで魔王様の真隣に膝をついて、何かできないかと手を擡つかせた。
「ま、魔王様!」
「……大丈夫だよ。私の体は、とても丈夫に出来ているんだ。お陰で、君とこうして……話をすることが、出来る」
魔王様は俺の目を見た。俺が憧れた金色の瞳が、俺のことを明るく写していた。魔王様は俺の目や髪を見て、小さくはにかんだ。
「……君はきっと、一生懸命頑張ってきたのだな。……見れば分かるよ。君は、とても強い。もう君を……誰も、蔑ろにはしないよ」
「そんなこと、無い……です。俺はまだ全然で、弱くて……あ、あなたの足元にも及ばなくて……カヌスにだって、負けたし……」
言いながら俺は、どうしてか涙を流していた。初めての涙だった。悔しかったんだ。どうして、どうして俺はこんなに弱い。魔法の一つも使えなければ、腕っぷしも弱くて、逃げ足ばかりが早いんだ。
悔しくて悔しくて、しょうがなかった。情けなくて、消えてしまいたかった。恩を返したい。その願いのためにここまで足掻いてきて、その結果がこれだ。
何一つ、何一つだって俺は、この人に返せていないんだ。
努力が足りなかったと、俺は思った。もっと戦えば良かったと、俺は後悔した。もっと前に進んで、もっと戦って、戦えば良かった。笑っている時間なんて無駄だった。もっと俺が頑張っていれば、もっと俺が強ければ……俺が、蜥蜴なんかじゃなければ、きっと。
そう思えば思うほど、魔王様の呼吸が浅くなればなるほど、俺は悔しくて悔しくて堪らなかった。涙が止まらなかった。
涙を流す俺を、魔王様は暫く困ったように眺めて、そして何かを思い付いたようにこう言った。
「ヴァチェスタ……私の目を、見てくれるかい?」
「……はい」
俺は涙を堪えて、魔王様の目を見た。金色の瞳が、優しく俺を見つめ返していた。
「私の目はね、少しだけ……未来を見ることが出来るんだ。君の未来を少しだけ、占っても良いかい?」
「……はい」
俺がそう答えた時、魔王様の瞳がキラリと光った。金色の流れ星みたいな、小さな光だった。それを俺が見た瞬間、魔王様の体から金色の光が飛び出してきた。光は小さくて、ふわふわとそこら辺を停滞していた。まるで俺達の周りだけ、夜の空になってしまったようだった。その瞬間だけは、周りの赤い炎も黒い煙もどうでもよくなるくらいの星空に塗りつぶされていた。
そんな中、魔王様はじっと俺の目を見ていた。ぼーっと、まるで空を見るみたいな目で俺を見て――そして、涙を流した。両目から流れた涙が魔王様の顎を伝って地面に落ちた瞬間、金色の光たちは夢のように消えてしまった。
俺はどうして魔王様が泣いているのか分からず、どぎまぎしていた。だが、魔王様はしばらく涙を流したあと、俺の目を見て……大きく笑った。俺が初めて見る笑顔だった。太陽が昇るような、花が咲くみたいな……この笑顔の前じゃ、どんなに残酷な結末もひれ伏して、逃げ出してしまうような、そんな笑顔だった。
「ははっ……ああ、そうか。君は……君が、あぁ」
「ま、魔王様……?」
魔王様は俺を見て、そして言った。
「……君が――ヴァチェスタだったんだ」
俺は何がなんだかさっぱりだった。けれど魔王様は朗らかに笑っていた。混乱する俺に、魔王様は言った。
「大丈夫、大丈夫だよ。……これでも、占いの的中率は十割なんだ」
何のことなのか聞こうとする前に、また魔王様が咳き込んだ。今度は音が苦しそうで、喉の奥から赤黒い塊のような物を吐いてしまった。口から血を溢しながら咳き込む魔王様に、俺は大慌てだったが、出来ることなんて何一つない。
どうしようもなく見守る俺の前で――魔王様の体が後ろに倒れた。体が弱って、椅子に凭れているだけの力もなくなってしまったんだ。
俺は何とかその体が地面に倒れこむ前に、その背中を抱えた。はらりと揺れた金色の髪が、優しく俺の指先に絡まる。居ても立ってもいられない不安の中、魔王様は驚いた顔をして……続けて俺の姿を探そうとした。
俺は目の前に居る。ともすれば、息が触れる距離だ。だというのに、魔王様には俺が見えていないようだった。
「ああ……目が、見えないな。耳も……君、側に居るのか?」
「はい……側に、ここに居……ます」
魔王様の美しい金色の瞳は、僅かに曇り始めていた。死神が、魔王様を連れていこうとしていた。魔王様の荒い呼吸が背中の手から伝わってくる。
魔王様は視線を動かすのを止めて、空を見た。そこに何が見えているのかは分からない。けれどその目は、俺が何度も見てきた曇り方をしていた。
止めて欲しかった。神様が居るのなら、見えるのなら、俺はその足元で痣ができるほど頭を床に擦り付けたかった。これ以上、俺から大切なものを奪って欲しくなかった。けれども神様は残酷で、魔王様からは生気がみるみる消えていった。生まれも、育ちも、何もかもを奪っては裏切って、その上で神様は俺から憧れの人さえも奪おうとしてたんだ。
青い唇で、魔王様は言った。
「なぁ、君……少し、寒いんだ。手を……握ってくれるか?」
「……」
俺はゆっくりと、魔王様の手を握った。血の気の抜けた、冷たい手だった。
「……はは、固いなぁ。……でも、嫌いじゃ、ないぞ。手のひらが擦りきれている。……頑張ったなぁ」
「……」
そんなこと、なかった。もしあったとしてもこんな結末じゃ……意味がなかった。意味がないんだ。また涙があふれないように、魔王様の体に涙が触れないように、俺は歯を食い縛った。ほんのすこしだけ強く、魔王様の手を握った。
魔王様は空を見ながら言った。荒い呼吸の中で、それでも確かな声だった。
「……私は、もう消える。悔しいけれどね。だから、その前に――君に託そうと思う」
「……え?」
「私は、魔王だ。魔王は死んだとき……その力を誰かに受け渡す事ができる。その力を、君に……託すんだ」
意味が良く分からなかった。けれど、どういうことなのかは伝わってくる。懐かしい感覚だった。けれど、それが意味していることも同時に伝わってきて、俺はまた耐えられなくなった。
力。力が魔王様から託される。あのカヌス・アーデンですら太刀打ち出来ないような強さが。嬉しい。俺が求めた物だ。俺が心の奥底から追い求めたものだ。膨大なそれを、妄想みたいな力を、俺は手に入れる事ができる。
手に入れる事ができて……俺は、何が嬉しいんだ? 何が楽しいんだ? それは、俺が本当に求めた物なのか?
俺は分からなかった。俺は力が欲しかった。なのに、だというのに、今更……思ったんだ。力なんて――要らない。俺が欲しいのはそれじゃない。けれどじゃあ、本当に欲しいのはなんだ、と考えて、俺は答えることが出来なかった。
その沈黙の中で、魔王様が何かを呟いた。途端にまた、さっきの光が飛び散る。魔法でできた金色の星空が俺達を取り囲む。なあ、ヴァチェスタ、と魔王様は言った。妙に静かな沈黙があって、俺は涙声で、はい、と答えた。
「私にはね、思うことがあるんだ」
「……」
「もし、もしもだよ……ああ、ヴァチェスタ……君のような男が私の隣に居てくれたら、こうは……ならなかったのかも、しれないな」
心が張り裂けそうだった。俺だって、そうであって欲しかった。けれど、そうはならなかったんだ。そんな未来はあったけれど、今あるのは残酷な現実だ。
苦しい。苦しい。息ができない。こんな、こんな俺じゃ……息をしてはいけないような、それすらもおこがましいような気分になる。
俺に何ができたんだ?
こぼれた涙が空を舞って、魔王様の指先に触れた。その瞬間、金色の光が跳ねて、甘く揺らめく。そしてそれらは、大きく渦を描いて俺の中へと入り込んできた。
「あ、あぁ……」
何かが体を巡っていく。力か、いや違う。そんな程度のものじゃない。これは、全てだ。これまで魔族が紡いできた全て……それが、俺の中へと注がれていた。
全身が隆々と脈打つ。知らない力――恐らく魔力が体に滾って、目も、尻尾も、何もかもが新しくなっていく。俺はその圧倒的な奔流に成す術もなく、ただ呆然としていた。
光が渦巻いて、最後に俺の頭に集まり……二つの大きな角となった。金塊のようなそれを形作って、星空は嘘のように消えていく。俺は与えられた力に息を切らしていた。
そんな俺に小さくはにかんで、ささやくように魔王様は言った。
「魔王が……私達が、今まで継いできた、全ての力だ。……出来れば、正しいことに使ってほしい」
「……え?」
そう言った魔王様の体が、段々と軽くなっていく。訳が分からなかったが、直ぐに理解した。魔王様が……消えていくんだ。俺たちは死ねば空気に溶ける。理由はまだ分かっていない。
当たり前のことだった。これまで、何度だって見てきた筈だった。けれども今俺の腕の中で起きている現象を、俺は受け入れることができなかった。
嘘だとそう思いたくて、手に入れた力でどうにか出来ないかと考えて、直ぐに無理だと分かった。これだけの力を持っても、死に行く大切な人を繋ぎ止められない。
「そ、そんな……いや、ま、待って、待ってくれ!」
「……」
今度は魔王様が黙る番だった。魔王様はどうしてか小さくはにかんでいて、細められた瞳は空を見上げていた。俺なんて見えていないみたいな、そんな空気すらあった。
俺はどうしてもそれが耐えられなくて、息を乱しながら、涙を溢しながら叫んだ。
「お願いだ! 頼む、頼むよ神様、お願いだから……あぁ、あぁ」
段々と魔王様が欠けていく。体が金色の灰になって、空に還っていく。体温が冷たかった。泣き叫ぶ俺に、魔王様は小さく言った。まるで遺言を残すような、優しい声音で。
「……さようならだ。さようならだよ、ヴァチェスタ。……ヴァチェスタ・ディエ・コルベルト。……金色の、魔王」
「嫌だ! 俺は、俺は魔王なんて器じゃないんだ! 俺はただの蜥蜴で、何も出来なくて、弱くて、弱くて、努力もまともに出来なくて……嫌だ、嫌だ!」
子供みたいに泣きじゃくった。脇目も振らずに叫んだ。俺にはその王冠は重すぎるんだ。俺なんかが背負っていいものじゃないんだ。けれど魔王様は何も言わなかった。何も言わないで消えていって……けれど、その最後に魔王様の右手が動いて――俺の頭を撫でた。優しく、一回だけ。
「……」
「……」
その沈黙だけで全てが伝わった。後は頼んだよ、と声が聞こえた気がした。見えないそれに対して、嫌だ、と言うことがどうしても出来なくて、俺は……俺はゆっくりと、魔王様から手渡された王冠をかぶった。ただの蜥蜴の癖に、仰々しい王冠だ。けれども俺には名前があった。魔王様からのおまじないがあった。
だから、俺はそれを背負うことができた。あの時、なれる、と魔王様に言われたから。その憧れが、俺の頭に乗っていた。
魔王様は最期に小さく微笑んで――そして、空に溶けた。溶けて、消えた。低くなった体温すら消えて、金色の光が空に消えた。乾いた部屋に、俺以外の影は無かった。誰一人居なかった。跳ね返る音も、声も。
空っぽだった。
誰も居ない空っぽで、俺は震えながら言葉を探した。罵倒や貶し言葉ばかりの脳味噌に何度でも手を突っ込んで、壊れた回路でそれらを繋いだ。拙い言葉だった。けれど、俺にとってそれは最上で、至上で……それ以上なんて服の穴を探したって見つからない、全身全霊の言葉だった
「……貴方は、俺の、全て、です」
そして、俺は金色の魔王になった。全てが消えたから。命とか、魂とか、力とか、そんなものと等価にならない……そんな全てを、全てを賭けてでも守りたかった誰かを、目の前で失ってしまったから。
だから俺は、魔王であって魔王じゃない。貰い物の力で鍍金を塗った――大嘘つきの、大蜥蜴だ。




