第三十二話 魔王が死んだ日
どれだけの時間が経ったのだろう。2日か、3日か。長いこと、我は暗い裏路地で丸くなっていた。それこそ夜が過ぎて、朝が過ぎてもである。ちらりと見上げた空には薄く太陽が見えており、我はそれから逃れるように縮こまっていた。
「……」
本当ならば、いつもならば……今頃全てを忘れて、威風堂々と立ち上がっていたはずである。それが我にとっての理想であり、模範的な行動だった。
だというのに、この足は一歩として動かない。まるで、全身が焼けた鉄にでもなったような、呼吸をするだけの柔軟性すら失われているようであった。
あたかも何かの塊になったような我の中には、じわりと煩い熱がある。ぶり返してきた病魔は我の体を内側から焼いて、僅かに漏れる吐息は火炎のようだ。
息をするのさえ辛かった。だが、しかし……それは風邪のせいではない。動けないのも、似合わない悪態すら口に出せないのも、全ては我の心のせいである。
動けないのだ。……怖くて、動けない。どこかから聞こえてくる足音で震えてしまう。もしも見つかったらと考えると、体が固い。あり得ないことであった。力を失ったといえ、我は魔王である。その心は神にさえ縛ることはできず、この世で最も自由であるはずだ。
けれども、我は動かない。時間だけが過ぎていく。体の熱が呻いて、空腹が唸り始める。そんな中を独り、泥まみれの体で踞っていた。
「……どうすれば……いい」
もし、仮に我の両足が動いたとして、両腕が上がったとして……我はどうすればいいのだ。どこへ向かえばいい? 何を成せばいい?いつしかエリーズに投げつけられた疑問が、形を変えて我を捕らえていた。
じっと固くなって、息を潜める。そんな必要は無いというのに、もう忘れた筈の癖がそこにはあった。それを自覚する度に、汚い罵倒が雨霰と鏡写しの我に注がれるが、鏡の中の我は怯えるように視線を下げて、口を閉ざしてしまった。
「……」
体が弱っていくのを感じる。一秒が恐ろしいほど長い。衰弱していく体で、半開きの瞼で、空を見た。見上げた空は煩わしい程青く……けれども、物珍しい雲がそこにはあった。薄くちぎれた雲ではない。何となく厚みのある雲であった。
それをくすんだ金色の瞳で見上げて、我は小さく呟いた。
「我は……何者に、なってしまったのだ」
分からない。分からない事ばかりだ。未来も、リサの怒りも、不甲斐ない自分も、魔王としての正しい立ち振舞いも、あの人の事だって……分からない。
分からないのに、世界は進む。一度だって足を止めたり、後ろに振り返ることなんてなかった。
呆然と曇り行く空を見上げていると、どうにも眠くなってきた。眠い。瞼が下がる。一瞬、悪夢が過って……どうでもいいと思った。もう、悪夢は怖くない。どっちだって、同じだ。意味がない。
夢から覚めるように、この現実が夢であって欲しいという願いを片手に、我はゆっくりと目蓋を閉じた。
―――――――――――――
目蓋を開くと……この世界で初めての雨が降っていた。何時から雨が降っていたのか、そもそもどれくらい眠っていたのか。そんな疑問を忘れるほど、それは砂漠に似つかわしくない土砂降りの雨だった。生暖かいそれから逃れるように、我は今まで背中を預けていた古びた家の軒下に身を寄せる。
「……夢を、見なかった」
いつも必ず見ていた悪夢が、今日に限って無かった。何故なのか、我には分からない。そもそも悪夢を見る原因が良くわかっていないのだから、見ない理由もわかるはずがなかった。
雨の中、我は人気の無いあばら家に背を預け、降り注ぐ雨をしばらく眺めていた。ザアザア、と聞き慣れない音がする。
「……」
気持ち程度の、現実逃避のつもりであった。分かっている。今の我の状態も、この絶望的な状況も。我は熱っぽいため息を吐いて、自分の体を見下ろした。
……泥だらけの、惨めな姿だ。マントは盗られ、金は無く、家もなく、食い物もない。頼りになる相手も居なければ、空腹に胃袋を鳴らして咳を吐いていた。
全身が煮立つように熱く、同時に息苦しい。その癖空腹感だけはじっとその存在感を主張し続け、動くにも動けない地獄であった。
金糸のような我の金髪は泥で卑しく穢れ、纏う布は泥水とヘドロに接して滅茶苦茶な有り様だ。
まさに浮浪者。家無き弱者。……そして、我が最も嫌った惨めな掃き溜めの住人である。敗北感で呼吸をしているような、この世の底辺に居るような、そんな存在。それが、今の我であった。
悔しいという感情すら、湧き上がらなかった。このままでは、本当に飢餓と熱によって死ぬかもしれない。他人事のように、或いは夢見心地で我はそんなことを思った。
「我は……何を、間違えたのだ……?」
ぼうっと、そう呟く。何が悪かった? リサと口論をしたことか? こんな場所に来たことか? さっさと欠片を回収しに行かなかったことか? ……それとも、これまでの全てが、間違いだったのだろうか。
語った言葉、歩いた一歩。それすらも誤りだったのだろうか。
「……そうかも、しれんな」
結果、この有り様である。かつての魔王が、一人寂しく惨めに死んでいく。そんな状況に陥る選択は、全て間違っていると考えてもおかしくはない。
ああ、息が苦しい。腹が減った。燃えるように熱いのに、どうしてだか寒い。寒い。
渇いた喉を潤す為に、軒先から落ちる雨を舌で受け止めた。一滴、泥混じりの水を飲み干して、膝を抱える。
「……こんな……はずでは……」
こんな筈ではなかった。こうならないように、何度も足掻いた。何度も血肉を啜り、敵を殺し、魔王として相応しい者に……そして、ああ――
あの人に、あの人のようになりたくて……。
渇いた記憶が鼻先を掠める。ああ、それはきっと幻想で、同時に真実だ。もう存在しない熱。潰えた可能性。
そんなものにすがって、今さら何になる。そんな鼓舞が我の中で打ち上がって、雨音に握りつぶされた。
「……もう、どうでもいい」
いっそ――死んでしまおうか。鮮烈にそんな予感が巡った。もう、疲れた。
「……疲れたのだ」
我は……我は……。あぁ、意識が混濁する。なんで、誰も我を助けないのだ。どうして手を差しのべない。我は、我なりに努力した。たった一人で、人間を滅ぼした。どれだけ魔族に後ろ指を指され、影口を叩かれ、食事に毒を盛られ、守るべき民に刺客を宛がわれても……それでも我は一人で戦った。
両手一杯に血を浴びても、あまりの戦いに動けなくなっても、それでも戦った。眠らずに戦った。何も食わずに戦った。国の為に、民の為に、これまでの魔王の為に。
何故だ。それのどこが間違っていたのだ。ああ、誰か……もう、誰でもいい。誰か、我を――我を、助けてくれ。
我を、許してくれ。
我を、認めてくれ。
我を、褒めてくれ。
そして、もういいと、そう言ってくれ。そうすれば我は……何の悔いもなく消えることができる。もう、疲れた。最強の魔王であり続けることも、力を探求することも、あの人の背中を追うことも……死にたくないと偽るのもだ。
……だが、いくら待っても誰も来なかった。嘲笑うように、孤独だけが我の傍らに立っていた。惨めだなぁ、と笑っている。誰も、我を看取らない。我に触れることはない。
では、我が今まで生きてきた意味は何か。何の為に生きて、何の為に、何を成して死ぬのだ。
「……ああ」
何も、無かった。それだけは自分でもわかっていた。だから渇いた雨に打たれて、我はくすんだ瞳から、生まれて三度目の涙を流した。一旦漏れ出せば、それらは分厚い我の理性や威厳の箍など小枝のようにへし折って、溢れ出してくる。
止まらない。涙が、止まらなかった。
懺悔の涙か、或いは絶望の涙か。どっちだっていい。我はよりいっそう膝を抱えて、止まらない嗚咽を抱えた。抱えて咽び泣き、されど我の深層心理が声を上げるのだけは引き留め、尚更不格好に哭けずに唇を食い縛った。
すべてを失ってただ一人、哭くことも出来ず死に至る。
そんな状況は、初めてでは無かった。二度目だ。この惨めさも、苦しみも、全てあの日に似ていた。
「……まるで、あの日の……ようだ」
掠れた喉元から、やっとのことで音を絞り出した。小さな小さな独り言に答えるように――一つの足音が頭上から聞こえてくる。雨の中を素早く駆け抜けるそれは、我を一旦通り過ぎ、パタリと止まって振り返った。
そうして、こう言ったのだ。耳馴染みのある声で、驚きと憐れみが絶妙に入り交じった……そんな声で。
「え……? ……金……髪?」
「……」
濡れた瞳を上げて目視したのは、湿った茶髪。つり上がった瞳と首から下げた木の札……リサであった。
その瞳と視線が交わった時の不快感と絶望。そして二律背反の小さな安堵を、我はきっと一生忘れることはできない。それだけの恥だった。余りにも惨めすぎて、消えてしまいたいと思った。
あれだけ啖呵を切って、馬鹿にして、見下して、罵倒した相手にこんな姿で見つかる。一生分の後悔と羞恥。雷のように躍動するそれらを手繰り寄せて、我は震えた声を上げた。
「…………どうして、ここに居るのだ」
「……エリーズに、このままだとあんたが死ぬんじゃないかって、そう言われたから。……あんた、風邪引いたままだったし……危ないと……思って」
「……」
リサは、改めて我の様子を見た。とことん惨めで、憐れな姿を。我の上を滑る視線が、動くにつれてあからさまに固くなり、何とも言えない感情が巡っているのが分かった。
……分かったが、それがどうだというのだ。今の我が口に出せる言葉は何だ? 助けてくださいか? ごめんなさいか? それとも、ありがとうとでも言えば良いのか?
そんなこと、言えるわけが無いだろう。散々、我はリサを罵倒したのだ。己の力を過信して、こんな状況になっているのだ。とてもではないが、まともな言葉は我の選択肢には無かった。だから、我は少し口を閉じたまま黙った。そして、突き放すような、誤魔化すような声色で、こう言った。
「……探し物か」
「……」
リサが小さく息を飲んだのが分かった。拡大する沈黙が、ナイフのように我の心に突き刺さって、その痛みに吠えるように我は二の句を継ぐ。
「……笑うのならば、笑え。……笑って、馬鹿にしてしまえ」
「……」
「お前は……正しかった。……我は、屑だ。どうしようもない馬鹿だ」
「……」
「……だから、笑ってくれよ」
「…………笑える訳、無いでしょ」
長い長い沈黙の後、リサは強かにそう言った。いつか言ったような、けれども何故か震えた声色だった。思わず伏せていた瞳を上げると、リサは深く怒りを滲ませた顔をしていた。何に対してそんなに憤慨しているのかは分からない。嵐のような、爆発する寸前のような……そんなめちゃくちゃな顔をして――泣いていた。
涙の意味は分からなかった。けれど、それが安っぽい同情や憐れみの感情で流れていないことだけは、その表情からひしひしと読み取ることができた。
だから尚更我は恥ずかしくなり、同時に大きく慌てて、そんな二つを抱えた言葉を吐いた。
「……何のつもりだ」
「……」
「……何故、泣くのだ」
「……」
「……もう、どうでも良いのだ」
質問に回答はない。ならば、もう聞くことはない。我に残っている物など、何もない。終わりだ。諦観じみた静かな慟哭を、これが最後だと思って口に出す。
「……死んでしまいたい。けれどまだ、死にたくは……ない」
リサは何かを言おうとした。その口元が何度も蠢いて、幾つもの言葉を瞳が映して、けれども何一つ語ることなくその唇からは吐息が漏れている。
空回りした沈黙が、我の心を小さく擽る。もう、吐き出してしまえと、そう言っている。ずっとつけてきた仮面の名前を言えと、これまでの嘘を吐いてみろと、知らない感情が嘯いた。
その誘惑に耐えるだけの理性を今の我が持っているわけもなく、微細な心の声に従って、我は嘲るように小さく笑った。続けて、乾いた言葉で問いかける。
「くはは……おい、リサ。お前、我が何者か言ってみろ」
「…………魔王でしょ」
「我は、金色の魔王だ。母は竜王、父は半神半魔の大英勇……神々へ挑む勇猛な魔王……生ける伝説」
我は自分の言葉が可笑しくて堪らなかった。だから、我は大きく笑った。笑って、泣いた。人間に見せる初めての涙だった。
泣き笑いに半狂乱で、体を汚い壁面に凭れさせて、我は絞り出すように……言った。
「それは……それはな――全部……嘘だ」
「……え?」
今度はリサがナイフに刺される番であった。音を吸い込むような声で漏らした音に低く笑って、我は続けた。
「我は、魔王などではない……伝説などでもない。神の血を引いている訳でもない……竜の血を身に宿している訳でもない……」
「……ちょ、ちょっと待って――」
「高貴な血など一切流れていない。学も品もない。人を殺すことしか知らない」
リサの制止を振り切って、我は言った。我の正体を。何年と人前から隠してきた……真実を。
「我はな……俺はな――元々ただの、薄汚いトカゲの魔物だったんだよ」
「……」
「俺は……魔王の器なんかじゃない。そこらを歩いてるような雑魚の魔物だったんだよ。親なんて生まれたときから居なかった。この体を流れてる血は、どこの誰とも知らない……今頃どっかでくたばってるようなやつの血なんだよ」
震える声で、そう語った。我は、魔王の器などではない。洞窟の隅で震えるような雑魚の魔物だった。あの卵から生まれ出た時から高貴な血など望めなかった。けれども、その上で我は嘘を付かなくてはならなかった。
あの人から貰った重すぎる王冠に相応しいような嘘を。大きすぎる王冠に相応しい、魔王になるために。それがどれだけ分厚く広大な嘘だとしても、我は己を高貴だと、最高だと謳い続けなくてはいけなかった。
「俺は何度も他の魔物に殺されかけたし、食い物なんてないから石でも齧って誤魔化して……ああ、嘘なんだ。全部、嘘だ」
「……」
「その癖生まれつきの体の色がふざけた金色で、隠れても見つかるし、餌の虫にだって逃げられて……」
情けないだろ? 笑えてくるよな? そんな言葉に返事は帰ってこなかった。けれど、変わらずに我は続けた。
「いつもみたいに下手をこいてデカイ魔物に見つかって、運良く半殺しになりながらなんとか逃げて――それで、あの人に出会ったんだ」
笑うように震える体の奥底に、熱を感じる。病魔による熱か、はたまた別の何かか。ぐるぐると渦を巻いて、我自身を飲み込むような粘性を持つそれを、我は静かに吐き出そうとしていた。
これが最後だっていいんだ。もう、何もかもどうでもいいんだから。
「なぁ、リサ」
「……」
「教えてやるよ。俺が何者なのか。どうしてこんな……はは、こんなにクソみたいなザマになってんのか、教えてやるよ」
止まらない雨に、とぐろを巻く過去の熱に、首元を食らいつかれながら我は口を開いた。語るのは過去。きっと、全世界で俺だけが知ってる過去だ。
大粒の雨が泥水を叩いて、やけに大きな音を立てた。




