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金塊の夢  作者: 平谷 望
第一章 金色の魔王と砂漠の亡霊
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第三十一話 鍍金の魔王

 我は、機嫌が悪かった。普通ならば普段から抱えてきた不満を口に出せて、爽快な気分になっていたはずだ。我も実際、清々したと感じていたし、肩の重荷が降りた気分であった。

 ……だというのにどうしてか、我は気分が悪かった。理由は分からぬ。ただただ、心の奥がざわめいていた。


「……どうでもいい」


 うずきにも似たそれを、我は軽く切り捨てる。今も昔も、心に分別をつける事は得意であった。夢の中でさえなければ、頑強な理性が我を守っているのだ。

 呟く一言で女二人の表情を思考から外す。苦しそうに泣くエリーズの顔も、怯えるように唖然とするリサの声も、簡単に消えた。


 我は魔王である。金色の魔王だ。人間は我にとって、都合の良い消耗品に過ぎない。ただただ、我がこの世界を生き延びる為に必要なだけである。いつ捨てようが、どうなろうかは関係がない。


 我はしばらく砂漠の町を歩き、そして冒険者組合へと向かった。服も、金も、全てあの家の中である。これからは我が自分で路銀を稼ぎ、食事をしていかなくてはいけない。加えて、宿もどこかを探さなくてはいけないだろう。

 そこまで考えて、足を動かす。小さく早足で組合へとたどり着き、努めていつも通り扉を押し開けた。


 扉を開けた途端、幾つかの視線が我に向かった。そして我の顔にそれらが届くと、店の中がどっと沸く。いつもの席で、足元に転がす酒瓶や矢筒を調整していたらしい四人組が、相変わらずわずらわしい声で我に話しかけてきた。


「それでよ……お!? コルベルト! 元気になったのか!」


「おぉ、旦那ぁ。流石の回復力ですぜ」


「いやぁ、一時はどうなるかと思ったぜ。運んでる間に死ぬんじゃねえかって冷や冷やだったからな」


「コルベルトさん、大丈夫っすか? 顔色はいいっすけど……」


 人相が悪く細身の冒険者が首を傾げた。続けて他の冒険者も不思議そうに我の顔を見る。我は幾つかの言葉を脳裏につづった。取り繕った言葉であったり、剥き出しの言葉であったりだ。

 ほんの少しの逡巡(しゅんじゅん)を置いて、我は無表情で四人を見、そして短くこう言った。


「黙れ」


 いつもの、魔王の声色であった。我にとって『普通』の声色を受けた四人は、うめきの一つも上げず、凍ったように黙りこくった。唯一、兄貴と呼ばれていた男だけは何かを口に出そうとしたが、言葉の前に我は四人から視線を切った。


 ようやく、我が望む通りになった。四人は我に怯えて、声も出ない。気安く会話を持ち掛けようとしない。喜ぶべきことだった。だというのにまた、北風が吹いたように寒くなった。

 店内のどこかに風穴でも空いているのだろう、と我は一人納得して、依頼書のある店の奥まで歩いた。


 依頼板には、またもや幾つもの依頼が貼られている。それらの内容を、我は学んだ知識で読もうとした。だが、つまらない感情と記憶が邪魔をする。


『これは読める?』


『……龍か?』


『ネズミね』


『んふふ』


『……適当に読んでいないだろうな?』


 ほんの少し前の記憶だ。今となっては煩わしい。思い出せば出すほど、苛立ちが蘇ってきた。我は珍しく乱雑に片手で頭を掻いて、目の前の適当な紙を読みもせずに引き剥がした。

 そして、水を打ったように静まり返る店内を悠々と歩き、誰も居ないカウンターに依頼書を置いて、大きく咳払いをする。


 少しして、店の奥から店主が出てきた。その顔はいつも通りの仏頂面だが、我の顔を見るなり小さく驚いた顔をした。


「……体調は?」


「依頼を受ける。手続きは面倒だから飛ばせ」


「……」


 ありがたいことに店主も我の体調を気にかけているようだが、今の我は無駄なお喋りをする気分ではない。簡潔に用件を伝えると、店主はすっと仏頂面に戻って、カウンターの依頼書を受け取った。

 そして依頼の内容に目を通し、ちらりと我を見た。なんとも気分の悪い、観察の眼である。


 何だ、と端的に言い放つと、店主は一拍置いて、何でもない、と返した。そして依頼書に羽ペンで何か一筆したためると、我に依頼書を戻してきた。


「……依頼書を戻す所など見たことが無いが?」


「……ロクに内容を読まないやつも見たことが無い」


「……」


 変な所で勘が利く爺であるな。だが確かに、依頼地が分からなければどうしようもない。差し出された依頼書を受け取って、我は早々に踵を返した。さっさと依頼を済ませて、報酬を受けとる為である。

 しん、としめやかな空気が停滞する酒場を縦断し、我は歪んだ扉に手を掛けた。すると、そんな空気を割くように、無愛想な声が飛ぶ。


「……悪いことは言わない。さっさと仲直りをしておけ」


「……依頼以外で仲介人が口を出すとは、随分と親切な場所になったようだな」


「……」


 余計な世話だ。皮肉を交え、我は扉を開けた。踏み出す背中に声が掛かることはない。ぽっかりと空いた両隣に目もくれず、我は胸を張って歩き出した。



 ――――――――――――



 人波を避け、以前覚えた裏路地を歩く我は、手中の依頼書をじっと見つめていた。依頼内容は……建材の運搬? この時点で既に嫌な予感しかしないが、ひきつる口元を抑え、続きを読む。

 依頼主はアンバー建設……知らんがこの街の企業だろう。


「……港から運搬された建材を所定の場所に運ぶ、か」


 そういえばこの街は海の近辺であったな。建材を何に使うのかはさっぱりだが、建材と聞くと猫を探していた時に見つけた建材置き場を思い出す。大量の白い石材や、鉄の柱、僅かに木材も見受けられた。

 見たときは適当な別荘でも建てるのかと思っていたが……何だか関係があるように思える。


 もしやまた、上流に戻る羽目になるのか? そうだとしたら中々に気分が悪いが……いや、取り敢えず依頼地を見るとしよう。


「……うむ?」


 文字自体は読むことができる。何処の地区か、どの通りに面しているか。だがまずその場所が分からない。アーバイン通りとは何処だ?

 流石の我も全く知らない場所に進むというのは無理がある。仕方がないので、適当な人間に聞くとしよう。


 面倒事が一つ増えた事にため息を吐いて、我は依頼書の最後の部分を見た。依頼の報酬である。そこに記載された金額は……何? 銀貨二十五枚だと? 最初に見たリサの依頼の報酬が銀貨三十枚であるから、それよりも少ない。


 何より仕事内容が肉体労働である。今更ながらあの爺の言った、依頼内容を読まないやつは初めてだ、という言葉が実感を伴ってやって来た。

 だが、だからといって依頼を取り消す訳にはいかない。あれだけ魔王然とした態度を見せたくせに、すごすごと我にこの依頼は無理だと口に出来ないのである。


 故に我は、己の矜持プライドを守るために依頼場所へ向かうことにした。何、今まで力が無くとも上手くいった。我の叡知と機転があれば今回もどうとでもなるはずである。

 手始めに場所を知ることから始めるとしよう、と我は路地裏から一歩踏み出し、面倒な情報収集を始めた。



 ――――――――――――



「……」


 思わず深く呼吸をした。歯の隙間から息を吸い、肺の奥からそれを吐く。嘘であって欲しいという感情を十割に、我は目の前の光景を見た。


 汚れた路面、粗雑な家々、路地裏から覗く眼光はいやしくも憎々しげである。歩く人間の装いは中流より何段か落ち、同時に品格も恐ろしく低い。一応、町並みとして形にはなっているが、そこに宿る雰囲気はこれまでに比べて荒々しく、同時に陰鬱としていた。


 そうである。人間から情報を集め、糸を手繰たぐるようにしてたどり着いたのは……我が最も嫌悪する人種の寄り集まる、貧民街スラムであったのだ。


 周りからの視線は刺すようであり、中流とは比べ物にならない場違い感が我の周りに停滞している。恐ろしいことだが、この貧民街を進んだ場所に、依頼の場所があるらしい。


 ようやくここで、我は己のやろうとしていることが想像以上に不味いことだと直感した。だが、今更どうやって引くというのだ。ここから尻尾を巻いて逃げ、依頼を放り捨て、あれだけ罵倒した二人の残る家に戻るというのか?


 そんなことは当然出来ない。ならば、我が取れる行動は一つ……前に進むのみである。

 心持ちを新たに、貧民街を歩き始める。場所は大まかに分かっているので、後は進むのみだ。途端に周りからの視線の色が変わり、警戒から品定めの視線になった。


 つまるところ、獲物として見られているのである。この我を相手に手を出そうと考えられる事が驚きだが、生憎この場所では奴等の方が数が上である。集団心理は精神的な力を生む。故にこやつらはこの我を品定めしているのだ。


 とはいえ、流石にすぐ手を出せるほど自信は無いようで、我の身だしなみや体格を見て、幾つか視線が消えるのを感じた。割に合わないと感じたのだろう。


 路地裏や屋根から感じる目線を引きちぎり、堂々と前へ進む。途中、中々嫌な物を見た。地面に座敷を引いて祈る物乞いや、路地裏にちらつく銀の光。

 未だに犯罪らしい犯罪の影を見ていないのでまだマシであるが、だからといってこの状況が良くなった訳ではない。


 無粋な視線を掻き分けて依頼地にたどり着くと、そこには既に幾人もの大工が建材を背負い、何処かへ運び込んでいた。ギャリギャリと良く分からない音が響く中、大工が持ち運ぶ石材は優に我の体重を越すようなものばかりであり、この時点で我は嫌な予感をたぎらせていたが、なんとかそれを飲み込んで、この場所の代表を探す。


 目を左右に振ると、後方に一際体格の良い男が紙とにらみ合いをしていた。纏う雰囲気からして、奴がここの代表であろう。依頼書を右手に、男へ近づいた。


「おい」


「ん? ……アンタァ、何の用だ?」


「依頼を受けた。三百……あー、五十三番だ」


 服の内側に潜めていた認識票を見せながら言うと、男は我の姿を爪先から頭頂まで見上げて、へ、と鼻を鳴らした。その態度に我の中の爆弾が引火しかけたが、どうにか堪える。


「まぁ、筋肉はあるだろうから良いけどよ、面倒なことすんなよ」


「……何をすれば良い」


「お前は……あぁ、丁度良いな。あそこの木材、全部向こうに運べ。場所は着いてきゃ分かるだろ」


 それだけ言って、男は我から目を離した。もう話すことはない、ということらしい。店主も全く同じ仕草をするが、それとは異なる拒絶の色が、この男からはありありと浮かんでいる。どうにも、我のような上流の人間が気にくわないらしい。


 あまりの冷待遇に顔をひきつらせながら、我は指示された木材へと向かった。その際、随分と不躾ぶしつけな目線が周囲の大工から飛び、我の気分を大きく害したが、ここで暴れてもしょうがない。

 我が目の前にした木材はいわゆる角材というやつで、三メートル程度の長さをしており、表面に薄く何かが塗られていた。


 木材自体は持つことが出来そうであるが、問題は数である。見た限り百本近い角材が麻紐で縛られており、これを一本づつ運んでいれば文字通り日が暮れるであろう。付け加えて、そんなことをして得られる金額は微々たるものであり、惨めに一本づつ運んでいれば周囲に馬鹿にされるということは間違いない。


「……割に合わんな」


 手始めに、木材の山から一本の角材を取り出す。……重いな。引っ張り出したそれは両手で持ったとしても中々重く、無理をしたとしても二本が限度である。その非力さに歯噛みしていると、我の横を同じく角材を担いだ大工が通っていった。大工は両腕に三本づつ角材を担いでおり、その時点で我との差は歴然であった。


 しょうがなく、我は二本目の角材を取り出して、今度は両腕に一本ずつ抱える。抱える、という担ぐだけの筋力がないからであり、両腕を震わせながらなんとか角材を持つ我の姿は相当滑稽であっただろう。


 その証拠に、我を見た大工は驚いた顔をし、次にその顔をいやらしく歪めて嘲笑した。続けて、周りの大工にこそこそとそれを伝える。

 それを横目に見ながら、我はなんとか前に続く列を追った。見た限りそこそこの距離があり、どうにも絶望が先に来る。


 必死に遅々とした足を前に進めていると、くすくすとした笑い声が聞こえた。幾つもの視線が我に刺さっている。それらは間違いなく汚れており、我をとことん惨めな気分にさせた。

 どうやらここの連中は我のような人間がとことん嫌いなようで、そんな人間が自らよりも遥かに劣っているという事実が堪らなく愉快なようだ。


 我はその視線に声を上げてやりたかったが、そんなことをすれば角材を落としてしまう。歯を食い縛って、陰口を見過ごした。


 重すぎる両腕に力を込めて、ようやく指定の場所に角材を二本運ぶと、途端に周りから(あざけ)るような視線を受けた。我は無言で舌打ちを打って、踵を返す。ここで声を上げれば、間違いなく奴等の思う壺である。

 完全に孤立した状況で声を上げて、何ができるのか。どうせ道化に仕立てあげられて、奴らの話の種になるのが落ちである。


 拳を握りしめながら、我はもう一度角材を持ち上げた。すぐさま飛んでくる笑い声を無視して、もう一度進む。やはり担ぐ事が出来ないので、不恰好に抱えることしかできなかった。

 それでもなんとか運んでいると、急に目の前に角材が突き出された。当然避けることが出来ずに顔にぶつかり、我の態勢が崩れる。踏ん張ることも出来ずに尻餅を着くと、我に角材をぶつけた大工が、我を見下したがら言った。


「悪ぃ、そこに居るとか思ってなくてよぉ」


「……気を付けろ」


 大工を強く睨みながら、低く唸るような声でそう言うと、大工はそれを鼻で笑って、我に背を向けた。


「おぉ、怖え怖え」


「…………貴様」 


 もう、耐えられなかった。沸点が低いというのならば笑うが良い。だが、もう限界だ。この我に対する扱いの全てが許せぬ。許せぬのだ。出来れば全員ぶち殺して豚の餌にでもしてやりたい位に、我はいきどおっていた。


 陰口、嘲笑、嘲り、ののしり、そしり。それらを含んだ幾つもの影が我を取り囲んでいて、一様に笑っている。そんな状況があまりにも不快で、不服で――我はこれからを考えず、それらの感情に身を任せた。


 我は両腕で角材を一本抱えた。そしてそれを大きく振りかぶり――全力で大工の後頭部に叩き付けた。大工が大きく呻き、前のめって倒れる。同時に運んでいた角材が地面に放り出され、鈍くも軽い音を立てた。


 良い気味であった。溜まった鬱憤を正しい形で晴らすことができて、我は満足していた。だが、状況はそれで終わってはくれなかった。止まったような沈黙の中、後頭部を押さえながら、大工が立ち上がる。

 そして、押さえた手を濡らした血を見ると、大きく叫びながら我に向かってきた。


 その顔は満遍なく憤怒で彩られており、こめかみには大きく血管が浮かび上がっていた。鍛えられた片腕が振り上げられ、我に強く振り下ろされる。


「テメエェェッ!!」


「……ッ!」


 当然、我にそれを避ける手段は存在しない。なんとか両腕で防ごうとしたが、それよりも早く我の顔に拳がめり込んだ。強かにうち下ろされた拳に我は吹き飛ばされ、地面に倒れ込む。痛くも痒くもない。だが、それよりも不味いことがあった。

 周りの大工が一斉に我に向かってきたのだ。


 倒れた我はすぐさま両腕を後ろから羽交い締めにされる。抜け出そうとするが、当然抜けない。汚い手で我に触るな、と我は叫んだが、男は我を離さない。暴れる我の鳩尾に、力強く拳が捩じ込まれた。


 痛みはないが、衝撃で僅かに呻く。男は我を殴った拳が逆に砕けて、苦い顔をしていた。止まった呼吸に、今度は素早く膝が打ち込まれた。体がくの字に折れ曲がり、肺の中の空気が押し出されるが、相変わらず拘束は解けない。

 我の堅さを知ったのか、周りの人間は角材や鉄の棒で我を殴打し始めた。当然の如く角材や鉄棒の方がへし折れるが、最悪なことにこの場には代用品がいくらでもあった。


「クソ共が! 離せ……ッく、離せと言っているだろうが!」


 鈍器に打ちのめされる度に我の体は折れ曲がり、強く揺れた。その振動に耐えながら声を上げたが、そんな我を助けようとする人間は、当然のように居なかった。全員が全員、我を囲んで囃し立て、大きく笑い、愉悦の視線を向けてくる。騒ぎに駆けつけた貧民街の連中がお祭り騒ぎになり、はやし立てられる空気の中、我は何度も暴行を受けた。


 もう、何度とも知れぬ腹部への殴打で、遂に我は耐えきれなくなり嘔吐した。元々体調は最悪だったのだ。それに加えてこの状況に吐き気が止まらず、殴打の衝撃が止めをさした。えずく我に周りは大声で喜びの声を上げ、中には拍手が飛んでいた。

 胃液を吐き出す我は、あまりの惨めさに逃げ出したかった。見上げても、見回しても、周りにはにやついた顔しかない。


「クソ……が……」


 どうあがいても、逃げられない。魔王が、金色の魔王が、これほどまでに無様を晒して、人間の見世物にされるなど、死ぬほどの恥であった。

 助けなど一つも見込めばせず、朦朧もうろうとした意識で体への衝撃を耐え、我は向けられる罵詈雑言にどうしようもなく打ちのめされていた。


 胃液を吐き出す我は、ようやく拘束を解かれ、強く背中から突き飛ばされた。その時、ちらりと依頼主が見えたが、男は我を見て、周りを見て、そして我に冷めた笑みを送った。


 地面に這いつくばる我は、唖然と男を見上げたが、助ける気などさらさら無いのだろう。男は突っ立つのみで何もしない。


 そんな我に、一人の大工が歩み寄ってきた。その目は愉快に歪んでおり、我を強く見下していた。我はなんとかこの場所から逃げ出そうと立ち上がり、走ったが、途端にマントを掴まれた。強く、強く首が絞まる。


「……ッは」


 我はちらつく白い光を幻視しながら、何とか残る思考をかき集め、震える指先を首元に添えて、マントを外した。

 途端に後ろへ倒れる男。その音を耳に入れながら、我はその場から走った。大工ではなく、途中から我を囲んだ貧民街の連中へ向けて突っ走り、体重でそれらを押し退けた。すると、今まで優位な立場で我への蹂躙を楽しんでいた連中はパニックになり、蜘蛛の子を散らすように走り回る。


 我はその波を掻き分け、後ろから聞こえてくる幾つもの怒号から逃げ出すために、腑抜けた両足を必死に回した。口の端に胃液を垂らしながら、醜く荒い息を上げながら、泥だらけの体で、マントを失った装いで走った。何度も曲がり角を曲がった。細い路地を走った。

 行き止まりにたどり着かないように、中流の路地裏を思い返しながら走った。


 走って、走って、走って――そして、走れなくなるまで走った時にはもう、怒号は聞こえなくなっていた。


 荒いを通り越して不規則になった呼吸で、何とか地面に四足をつけて這いつくばり、近くのあばら家の壁に背中を付けた。途端に吐き気が再発し、空っぽの胃袋から胃液を吐いた。


 咳き込みながら我はその場から離れ、誰の目もつかない路地裏の隅に身を寄せた。そこで体を縮こませ、喘鳴ぜんめいにも似た吐息を押し殺す。  

 しばらくすると、疲労がどっとやって来た。同時にズタズタにされた理性と感情が、今更に戻ってくる。


 あまりにも、あまりにも惨めな敗走であった。これ以上の惨めさはないと思った。全身が震えている。あれだけ強固だった理性はぐちゃぐちゃで、震える両腕が膝を抱えて離さなかった。


 我の自慢であった魔王らしさは根っこから腑抜けてしまって、思わず体が震えていた。

 何とか震える顔を傾けて見上げた空は茜色で、続いて夜がその背後にあった。


 僅かに荒い息のまま、我は我が最も嫌悪する浮浪者のように、情けなく路地に寝転んだ。もう、座っているだけの体力も無かったのだ。疲労が色濃い眠気を運ぶが、目蓋を閉じることが出来なかった。そうやって浮かぶ暗闇に、悪夢の残影が見えるのだ。それだけで我の心は急激に冷え、子供のような怯えがやってくる。


 震える四肢を抱えていると、段々と熱っぽさが出てきた。ああ、不味い……またか。いや、治っていなかったから……いや、もうそんなことはどうでも良い。どうだって良い。

 風邪を引こうが、体がボロボロだろうが、それよりも痛烈なものが我にはあった。


 体が怠く、覚えのある熱が体に甦ってきても、それでも消せないもの……それは恐ろしいほどの――寒気だった。寒くて、寒くて堪らなかった。まるで、体に風穴が空いたような、全身が氷になったような寒さだった。


 その寒さに息をする度に……リサやエリーズの事を思い出す。うるさい四人や、仏頂面の店主を思い出す。三人で囲んだ、他愛のない……初めての暖かい食卓を思い出した。


 それを思い出す度に、我の感情は川底の泥を掬ったような濁りを生んだ。あらんばかりの怒りと、今更な後悔。それに対する強烈な不快感と、濁流のような悔しさ。これまでの行動に対する反省と、疲労から来る無気力感。


 それらを全て、全て飲み込んで、かき混ぜて……我は、小さく呟いた。それは疲れた体で濾過ろかされた、忌むべき本音であった。


「誰か……」


 その先の言葉を、我は一旦飲み込んだ。口に出すのは憚られたのだ。その言葉は、あまりにも剥き出して、強烈で……もしも声に出せば、我の根幹を破壊するということは、間違いないと思った。

 それでも止められない感情が回って、溢れて……嗚呼。


 ――誰か……この心臓を、止めてはくれないか。

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[一言] 情けないねぇ
[気になる点] 竜鱗意味なくね?
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