第二百三十六話 選択と計画、過去と思考。
天井を眺めて数時間が経過すると、体の中にある酒気が薄まっていく感覚があった。形容し難い、不思議な感覚である。回転していた天井がゆっくりと像を結び、常に感じていたフラつきが収まっていく。
喩えるならば、着陸である。乱気流の中をしばらく飛行し、その後に大地を踏めしめた時は、こういった感覚に陥ったものだ。
一度アルゴダの様子を横目で確認し、その眠りが深いことを確認してから上体を起こす。……ふむ。まだ若干揺れるが、充分であろう。定まらなかった思考も落ち着き、この分ならば舌の回りも戻っている。
ただ……リサとエリーズ、あの二人はやけに我の機微に敏い。酔いを極めた我の暗澹たる思考や、アルゴダとの問答で得た答えについて、顔やら態度やらで察してもおかしくはない。
アルゴダに大層な隙を晒してしまった以上、それらを悟られたところで今更ではあるが、避けられる恥は避けるべきだろう。少なくとも我は、昨夜に話した内容を素面であの女どもに語れるほど威厳を捨ててはいない。
「……」
「……んぅ、ぉ……ん」
むにゃむにゃと寝言をこぼし、手を伸ばすアルゴダを一瞥した。……リサやエリーズに話せぬ内容をこの女に話してしまったと思うと、我の酔いがいかに我を追い詰めていたかが分かる。
結果的に、我は破裂寸前の問いを一つ解き、目を逸らしていた事柄に向き合うことが出来たものの、それを齎した者がアルゴダであると……なんとなく癪である。
これがリサやエリーズであれば、という訳ではないが、よりにもよってこの女に、という思いがある。我の苦悩は、会って間もない女に解きほぐされる程に単純なものであったのか、と。
少し考えて、我はベッドから出た。こんなことを考えても時間の無駄である。酒が抜けてきたのであれば、鍛錬である。
幸か不幸か、ここは連れ込み宿である。多少物音を立てても騒がれはしない。物音に注意しつつ、両腕と尻尾の三点を使った腕立て伏せや、体を捻る形式の腹筋を行う。
久々の鍛錬は中々に心地が良く、鈍っていた体に血液が通う感覚があった。ここ最近は動かす機会の無かった尻尾を悠々と動かすと、低下していた操作性が徐々に戻っていく。
上腕、腹筋、尻尾を中心に鍛え、数時間ほどを費やした。いよいよ額と背中に汗が浮かび、ここからが攻め時か、といった所で、一際大きな呻きと共にアルゴダが寝返りを打った。
「うぅう……んん……?」
「む。目覚めたか」
アルゴダは目を擦りながら左右に首を振って、恐らくは部屋を見回した。そして一瞬固まると、首だけを起こして我を見る。寝起きのアルゴダは目付きが非常に悪く、半目に眉を顰めているので、ほとんどにらんでいると形容して良い。
アルゴダは一秒と少し我を睨んだ後、「夢……」とぼやいて目を閉じた。
「……どうやら気付けが必要らしいな」
恐らく時刻的に、現在は朝に分類されるだろう。半刻もすればリサ辺りが扉を叩いて来るに違いない。そこで二度寝を決め込むとは……丁度、尻尾の筋力を鍛えていた所なので、一発顔に叩き込めば目が覚めるだろう。
我がベッドに歩みを進め、アルゴダの傍らに立ったのと同時に、コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。……起床の時刻は酔っていて覚えていないが、流石にまだ早いだろう。
我は扉を見つめ訝しみながら、足先で布団の位置を調整するアルゴダの顔に尻尾を……叩き込もうと思っていたが、以前アルベスタでそれを行った際、リサがぎゃあぎゃあと煩かったことを思い出した。
仕方無しに、手加減をしてアルゴダの肩に尻尾を叩き込む。
「――ふぶぅえっ!?」
「朝である。二度寝の時間は無い」
大袈裟に肩を抑えながら飛び起きたアルゴダを尻目に、今度は少し強めに響いたノックに足を進めた。扉の前に立ち、念の為尻尾を肌着の下に滑り込ませる。雑にも程がある隠蔽であるが、前から見られただけでは問題になるまい。
扉を軽く開くと、そこには意外な顔があった。
「あっ……お、おはよう、コルベルトさん」
「ふむ……我の記憶では、お前は中々に寝覚めの悪い方だったが」
開いた扉の先に立っていたのは、艷やかな黒髪を朝日に透かしたエリーズである。周囲を気にしているのか、その肩は縮こまっているが、開いた扉に触れる手は謎に強張っている。
エリーズは我の言葉にいつもの苦笑を浮かべて、「確かに朝は苦手だけど」と言った。
「ちょっとだけ、コルベルトさんが心配だったから……来ちゃった」
「……我は赤子か何かか? 酒なら疾うに抜けている」
「いや、コルベルトさんを馬鹿にしてる訳じゃなくてね――」
大方、前夜の我が余程酷い顔を晒していた為に、変な気遣いをしたのだろう。鍛錬で少し荒れた呼吸をため息で整えて、エリーズの言葉を聞いていると、我の後ろからアルゴダの呻きが響いた。同時に、エリーズの言葉が止まって、顔が固まる。
「うぅ……お客さん、もうちょっと優しくしてくれてもよくないっすかぁ?」
「んん?ん?」
そこでエリーズは初めて我を見上げた。今の我を見ても、汗ばんだ体があるのみである。水も滴る良い男、という台詞が陳腐な、完全無欠の我だ。エリーズは我の姿を見て、少しばかり強引にドアを押し開ける。
その動きに反射で後ろに一歩下がると、エリーズは部屋に踏み込みながらベッド上のアルゴダを見る。アルゴダは泣き言を言いながら、ズレた肌着の肩の部分を直している。
「うん、えっとね、コルベルトさん。何がどうなってるのかな?」
「んぇ、エリーズさん?」
やけに強張った笑顔のエリーズに、首を傾げた。どうなっているも何も、見た通りだろう。察しの良いエリーズが理解不能の顔をしているのが不気味であるが、まあ良い。
恐らく寝起きで頭が回っていないアルゴダに代わって、エリーズに状況を説明してやった。
「この女の寝覚めが悪かったのでな、一発叩き込んだだけである」
「……うん、ちょっと待ってね」
エリーズは我の言葉に硬直すると、何故か目を閉じた。そうしてしばらく黙ると、「あぁ……」と声を漏らす。
「うん、大丈夫。リサも言ってたし、多分そういうことだよね。……危ないなぁ」
「……?」
「肩、は大丈夫っすね。いきなり過ぎてびっくりしたっす……」
何が危ないのか、我にはさっぱり分からぬ。が、エリーズは深呼吸と共に穏やかな笑みを浮かべ、「何でもないよ」と口にした。そのあまりの意味不明さに、酔いがまだ醒めていないのではと気を揉んだが、数時間の鍛錬を経て今は完全に素面である。
困惑する我、笑顔で話を流そうとするエリーズ、小突かれた肩を慎重に確認するアルゴダ。三者三様の様相を以て、騒がしい朝が始まった。
―――――――
「はぁ……だから気付けとか言って叩くのホントに止めてよ。反省して肩にしたのは偉いけど、気遣うポイントがズレてるでしょ」
「これが最も効率的なのだ。加減はしているのだから責められる点は無い筈だが」
「うーん……おじさんは昔の経験的にコルベルト君側に寄っちゃうけど、今後は避けた方がいいかもね」
「……私も、吹雪の中で眠らないよう、体を抓っていた。気持ちは分かる」
「え、嘘。あたしの方が少数派なの……?」
一夜が明けた早朝、宿から馬車に乗り込んだ我らは、ぐちぐちと議論を重ねていた。議題は我の気付けの是非についてである。正直、これほど無意味な話し合いは無いと思うが、リサは相変わらずに雌豹じみて神経質である。
これは水掛け論の流れになるか、と気を揉んだが、朝食代わりに干し肉を齧るルードとトーヴから、意外な援護射撃が飛んだ。ルードはその従軍経験から、トーヴは単にあの雪渓で眠らぬ為に気を張り続けた経験から、我の気付けが正当なものであると理解しているらしい。
三対一の構図になったリサは助けを求めて報告元のエリーズを見るが、エリーズは町中で羽織るために渡した我のローブを深く被りながら考え込む。
「……そう考えると、アリ、なのかも」
「え。アリって何? それ言われるとあたしが困るんだけど」
目深に被ったローブの影響で口元しか見えぬが、エリーズはいたずらっぽく笑っている。これは勝負あった、というやつだろう。オロオロと縮こまるリサにアルゴダが「御者なのに朝が弱い俺も悪いっす」と慰めの言葉を掛ける。
「早く寝ろってお客さんが催促してたのに、結局寝た時間が遅かったのは俺のせいっすから」
「そ、そう。それならいいけど」
「あ、でも、俺のこと心配してくれたのは嬉しいっすよ!」
ありがとうっす、リサさん!とアルゴダは笑みを浮かべながら振り返った。上手い落とし所が見つかり、議論は終わった。後に残ったのは聞き慣れた車輪の音と、二人が干し肉を噛み千切る音だけである。
少し前までは、他ならぬルード自身が『節約が必要かもしれないね』と口にしていたが、トーヴの活躍により我らの懐事情は大きく改善された。
荷台には補充された食料品や、女どもの強い希望により衣服の類が増えている。賞金目当てに立ち寄った街であるが、無駄足にならず重畳である。
「ん? おぉ、あの馬車に乗ってるの、トーヴって人間じゃないか?」
「あの白い男か? なんでも、ザーフィアさんを負かしちまったっていう……」
「あのおじさん白ーい!カッコいい!」
街中から外へ出ていくまでの道で、案外多くの目線がトーヴに寄った。我らの馬車が単純に目立つことと、トーヴの姿は我やエリーズ、ルードと違って隠されていないので目に付くのだろう。
朝靄が軽く残る街道で、獣人の子供がトーヴに手を振っている。それを受けたトーヴはどうしたら良いのか分からないようで、一度ルードと我を見た。が、ルードはトーヴの目線に気づかず、我は無視をした。この程度自分で考えろ、と思ったのである。
トーヴは少し考える仕草をすると……子供に向けて拳を握り、親指を立てた。そして、似合わぬ微笑を浮かべている。手を振り返すのではないのか、と我は困惑したが、トーヴの対応に子供ははしゃいで喜んでいる。どうやら気に入ったらしい。
相変わらず、童の考えることは意味不明だな、と呆れていると、アルゴダが「そういえば」と口にした。
「この街を抜けたら、あとは首都ルミエラまで結構近いっすけど」
その辺りを口にすると、エリーズとリサが思い出したように「あ」と口にした。
「そうだった。その話、金髪にしとかないと」
「あのね、コルベルトさん。昨日、観客席でコルベルトさんのこと見てたけどね、その時に色々……周りから話が聞こえてて」
「あー、そういえば忘れてたね」
リサとエリーズは気まずそうな顔で我と、どうしてかルードを見ている。見られたルードは苦笑を二人に向けた後、それを少し薄めて我を見た。微かな哀れみを感じるその目線は不愉快であるが、話の内容が見えていない以上、口を出す訳にもいかぬ。リサとエリーズに目線で先を促した。
「ルミエラの街……ポラリスとかクラリスは、言い方が良くないかもしれないけど、簡単に入れたよね? でも、首都ルミエラはかなり難しいかもしれないんだ」
「ほう。何だと思えばそういうことか。まあ、そうであろうな。腐っても世界一を掲げんとする国の首都である。今代のオクナハウクとやらが無能でなければ、それなりの関所があるのだろう」
だが、結局のところ問題は我の手配状がルミエラまで届いているかどうかである。今回、我は堂々と名前と顔を出して酒合戦に出た。これはかなりの危険を冒した行為であるが、同時にこの国の住民に『ヴァチェスタ・ディエ・コルベルト』という存在が知れ渡っているかどうかの検査でもある。
結果、住民は疎か、衛兵でさえ我の名前に反応らしい反応を示さなかった。このことから察するに、未だ我が悪名がルミエラ中に轟いているとは思えぬ。
万が一、首都にのみ魔導具か何かで伝達がされていれば厄介であるが……もしやそういうことか?
「そうなんだけど、問題はそうじゃなくてね――ルミエラの関所には、珍しい魔導具が使われてるらしいの」
「六代目オクナハウクがルミエラ近郊の遺跡から発掘した古い魔導具、『天秤水晶』っていうヤツ。これの効果なんだけど……これを持った人の質問に嘘をつくと、水晶が赤く光るらしいくて」
「……それは、随分と関所に誂え向きな代物であるな」
関所での質問される内容の全容は分かっていないらしいが、唯一知れたものが一つある、とリサは語った。
曰く――『汝、罪無き者を殺めたことはあるか』と。
それを聞いた瞬間、終わりだ、と思った。誤魔化しのしようがなさ過ぎる。口頭の質問であれば雰囲気と口の回しでどうにか出来るが、魔導具を片手に真偽を判別されては敵わない。
加えて、その質問が最悪である。罪無き者を殺めたことはあるか、だと?
「どの口で『無い』と言えるのだ」
「そうだね。おじさんも結構、というか普通に無理なんだよね」
かなーり殺っちゃったし、と冗談めかした口調のルードであるが、その目は伏せられており口にはいつもの笑みが無い。軍人という職業柄、ルードが殺人を犯していない筈もない。
我はといえば、魔王である。人類の天敵であり、世界の敵対者。この手で直接殺した人間の数は六桁以上……下手をすれば数十万人を殺している。
考え込む我に、アルゴダが言いづらそうに口を開く。
「それで……どうするっすかね。一応、今から進めば夜になる前にルミエラに着きそうなんすけど」
避けたほうがいいか、と言外にアルゴダは言っている。そうであるな。考えるまでもなく、避けるべきである。元々、我らの旅の目的地はクリフィンである。この街に一泊したのも金の都合が良いからだ。
旅の進行度を考えれば、首都ルミエラ行きは断念せざるを得ない。ルミエラの関所で衛兵に拘束され、アルベスタに送還、などという無様を晒した場合……割合本気で我はヴァストラとカトラス辺りに殺されかねない。
ヴァストラは私怨で、カトラスは約束を反故にされた怒りで青筋を立てるだろう。
「ふむ。街に入るだけであれば、我とルードが郊外に待機し、お前達四人で夜景を見るという手段もあるが……」
「それは、そうっすけど……それで大丈夫なんすか?お客さん」
アルゴダの質問は尤もである。我には無駄に出来る時間など無い。この女どもとトーヴの観光のために、貴重な時間を使うなどもっての外である。
もっての外である……が。
――大切な二つを捨てたくないと思ってるなら、絶対に捨てちゃ駄目っすよ。
「……取り敢えず、ルミエラへ進め。それまでの時間で考えるとする」
「えっ?」
我の言葉に声を漏らしたのはリサであった。驚きに目を見開いて固まっている。そう、だろうな。お前はこれまでの我を最も近くで見てきた女である。我ならば有無を言わさず『ではクリフィンに進め』と口にしたはずだ。
そもそもルミエラに観光などするはずもない。だが、我は言葉を取り下げなかった。リサから目を逸し、アルゴダの「了解っす!」という声を聞く。
それがどうにも喜色に富んでいるのが癪に障り、深く溜め息を吐いた。吐いた息は馬車の外の朝靄に混じり、進む馬車の疾風がそれを細く切り裂いた。




