第二百一話 大好きな魔王に
見上げた空に、光の花が咲いていた。赤、青、金に光っては、夜空の星々と揉み合って消えていく。頭上から踵まで響く炸裂音も、その光景に比べれば、聴覚が麻痺したかのように小さな音だった。
我はそれを見上げながら、脳裏に数日前の事が過った。アルゴダの元へ計画の報告をしようと外へ出て、そうして花火の筒を見たときのことである。リサは我が花火を見たことがないことに驚いて、曖昧に綺麗だと告げた。それに対して我は『いつか自分で見ることとしよう』と返した。
我はその言葉が存外早く達成されたことに唖然として、空の彩りを見る。単調な、簡単な花火であった。光の筋が空に浮いて、大きく光って散るだけである。ただそれだけの光景で……ただそれだけの光景だというのに、夜空を照らす花火には独特の魅力があった。
我はらしくもない呆けた顔をして、コルベルトさん、と控えめに掛けられた言葉で我を取り戻した。見ればそこにはエリーズがちょこりと佇んでおり、上目遣いで我を見上げている。
……そうである。我は我を追うヴァストラを撃破した。奴はものの見事に花火を食らって昏倒している。だが、それで全てが片付いた訳ではないのだ。ヴァストラはしぶとい。ちらりと見たその指先は未だ動き、気絶しているはずだというのに虚空を掴もうとしている。白目を剥きながらも剣を握る手は決して緩まず、緩慢ではあるがその体は再び立ち上がろうとさえしていた。どれほど強靭な精神と執念を持ち合わせればここまでの動きを見せるのか、それが分からぬ我ではない。
我は危うく目標を見失いそうになって、顔の筋肉へ意識を集中させた。きゅっと固め、いつもの冴えた無表情へ移す。我ながら板に着いた顔であり、その表情で我は一つ咳払いをした。同時にまたしても花火の打ち上がる音が聞こえ、我はエリーズにゆらりと手を差し出した。
「……姫を救う騎士は魔王に敗れた。つまるところ魔王の勝利で童話の結末は締め括られた訳である」
「……悪い結末……なのかな」
我の言葉にエリーズははにかむような苦笑をして、小首を傾げた。続けて一瞬、考えるように目を伏せると……エリーズは微かに首を振った。
「沢山の人に迷惑を掛けて、やらなきゃいけないことも、大切な人も突き放して……悪いことばっかりで、悪いことをしてるのに……なんでなのかな――嬉しくて。もう……分かんないや」
エリーズは戸惑うように己の胸に手を当てた。繊細な、白魚のような指先がそっとエリーズの心臓の上をなぞって……我はそれを、包むように掴んだ。エリーズが驚いたように我を見上げ、我はほんの少しだけ無表情に笑みを混ぜて、堂々と言った。
「良い、悪い。そんなもの、どうでも良いだろう。結局のところ一番重要なのは……お前が何を思っているかである。義務だの迷惑だのを考えている暇があるのならば、まずは自分の心に目を向けろ」
「私の、心……」
「そうだ。お前は何がしたい。何が好きなのだ。迷惑なんぞ、生きていれば死ぬほど掛ける。そんなものを気に掛けているから、ろくな笑顔が作れんのだ」
エリーズという女は、本当に捨て置けぬ女である。我の求めていた才覚や生まれを欲しいままにしておいて、その重さに潰れようとしている。己の価値を見誤っては、己を考えぬ自己犠牲で馬鹿を見る。結果、城の庭園で見たような不器用な作り笑顔が生まれるのだ。
……我は世界を巡って数多くの物を見てきたが、自分の巣に絡まる蜘蛛を見たのは初めてであった。
それと寸分違わず、この期に及んでまたしても王女としてのあれこれに視野を割いているエリーズに、我はため息混じりに口を開いた。
「お前がお前を嫌いだというのなら、好きに嫌え。分からないというのならば適当に考えていろ。そのままの自分を好きになれ、などと気休めな押し付けをするつもりは無い」
そこで一つ言葉を区切って、ただ、と言う。我を見つめるエリーズの瞳の、奥の奥までを見透かして、当然のことを言うような声音で言葉を継いだ。
「一つだけ、覚えていろ。決してそれだけは忘れるな。我はありのままのお前が嫌いではない。お前が嫌うお前を好ましいと思っている。だからこそ我はお前を求めたのだ」
「――っ!?」
簡単な、単純な答えである。自己嫌悪と劣等感と、そんなものに苛まれているエリーズにだからそこ言うべき言葉がそこにあった。我はそれを無意識で言ってのけて、おお、中々良いことを言ったな、と気分が良くなった。さらりと述べた言葉は、あまりにもこの状況にピタリとはまる。
ふむ、と上機嫌の我に、エリーズは目を見開いて我を見上げていた。呆然と我を見る様子は、まるで花火を見上げるようである。未だ花火は轟々と音を立てて弾け、エリーズの頬を明るく染めてはいるが、生憎地上に花火は無い。我は我の言葉があまりにも尊かったのだろうと推察して、そっとエリーズの手を引いた。
「あ……」
「花火観賞のついでに談笑を決め込むのは良いが、生憎我らには時間が無い」
騎士団長ヴァストラは一応無力化したが、未だ大量の騎士がこの場を目指している。我とヴァストラとの逃走劇、追走劇は街中で堂々と繰り広げられ、あまつさえ今は凄まじい分かりやすさの現在位置報告を行っている。
この場に騎士が雪崩れ込んでくるのは、最早時間の問題であった。故に我はエリーズの手を引いて、すこしばかり強引に背中に背負う。
先程までの慣れた体勢に戻って、しかしエリーズが未だ固まっていた。おい、と首に腕を回すように促すと、ようやくエリーズは我の背中に体を寄せた。呆然とするエリーズを背負い、花火の轟音と光を合図に、我は素早く駆け出した。
風圧が頬を撫で、肩口を切る。背後から二、三度花火の弾ける音がして、前方の石畳に我らの影が浮いた。空き地を抜けて人々の多い街中に出ると、町民は一様に空を見上げて花火を見ていた。本来は執り行われない筈の花火がなんの予告も無く打ち上がれば、困惑しながらそれに注目するのは必然である。
子供ははしゃいで飛びはね、大人は花火を見上げながら酒だの料理だのを呷っていた。祭りの縮小を経て自宅へ引きこもっていた町民も、外の物音に顔を出し、玄関先で恍惚と花火を見上げている姿もあった。我からすれば町民が上を見て動かないのは実に好都合であり、必死に空き地を目指そうとする私服の騎士が分かりやすかった。
我は姿勢を低く、気配と物音を抑えて、素早く人々の間を縫った。道中我を追う騎士どもは居たが、人の密集する街中では魔法が使えぬ。かといって一介の騎士が我の速度についてこられるかと言えば、それも無理である。減速しているとはいえ、我の速度を越えようとしているヴァストラが異常なだけであり、人間は皆それぐらいが平均である。
……とはいえ、騎士は如何せん数が多かった。騎士らは網を張るように人海戦術を試みて、我はそれに多少苦しめられた。このまま二重、三重に包囲網を敷かれたとすれば中々厄介だと我は思って、我は騎士の手が及ばぬ場所――民家の屋根を伝うことにした。ヴァストラに倣っての行動である。
とはいえ、我は魔法が使えぬ。二階まで飛び上がる筋力もない。面倒なことに、我の筋力は速さ以外の方面に一切の活躍をしないのである。だが、登るだけならばいくらでも方法があった。我は舌を噛むなよ、とエリーズに前置きして、地面に置かれた酒樽、迫る私服騎士の肩、半開きになった民家の扉の上と踏んで、最後に街灯を蹴って三角飛びをし、急勾配の屋根の上に乗った。
それはあまりにも目立つ行為であり、ちらりと下を見れば、花火を見上げていた人々が唖然と我を見ている。そこでようやく、我は被っていたフードがいつの間にか脱げていることに気がついた。いつ脱げたのかと考えれば、脱げる瞬間はいくらでもあった。何より切迫した状況で、フードがどうだとかを気にする余裕がなかったのである。
我は我を見上げる人々に見せつけるように鼻を鳴らし、「王女は戴いたぞ」と言い残して、夜の屋根上を走り始めた。アルベスタはその建築様式から、非常に走りづらい屋根をしている。我は急勾配の屋根の縁を走って、家と家の間を力強く飛んだ。上方向への跳躍は出来ぬが、水平方向への移動ならば筋力が働くようで、我は飛ぶように……というか実際に道路上を飛んで、アルベスタの夜を駆け抜けた。
進む先は王城の反対、防壁と一体になった関所である。屋根の上に乗ったことで周囲の光景が良く見え、我は走りながら視線をちらりと動かした。進む先には人々の群れ、街明かりが平常の数割多く照っていた。
揺れる人波、煙を吐かない煙突、光る何かを振り回してはしゃぐ子供、我を見上げて目を見開く女。視界の左側で手品でもしたのか、白い鳩がはためいたのが見えた。
首から回って我の襟を掴むエリーズの手は強く、確かに我を掴んで離さなかった。先程までは気にしていなかったが、うなじや襟首に吐息が触れて何処かくすぐったい。背中から伝わる体温はどうしてか高く、心臓も早鐘を打っている。エリーズはリサほどでは無いが気が大きい方でもないので、恐らく不安と緊張があるのだろう。
黒く滑りやすい材質の屋根を良く鞣された革靴で飛んで、一瞬の浮遊感を我は得た。エリーズが少しだけ強く我を掴んで、我は滑らかに着地する。いかに悪路とはいえ、魔王の足腰は頑強である。
――と、その時、街の一角から幾筋かの光が空へと放たれた。それはふわりふわりと頼りなく金色の線を引いて……ドン、と弾ける。花火であった。同時に別の場所からも花火が上がる。左右で宝石のような光が散って、心の臓まで響く炸裂音が響いた。
それはまるで心拍を乱すような、それでいて高鳴らせるような、そんな音だった。散っては咲いて、咲いては散って、アルベスタの夜空が火の花束をぎゅっと抱え込む。空は光って、そこには月があって、同時に星座もあった。
やけに冴えた空にはやはり花火が良く似合っており、我は己が言いながらにして、危うく足元を踏み外す所であった。背中のエリーズも花火に圧倒されているようで、我の背中に寄せていた顎がすっと上がった。続けて呆けるような溜め息が淡く我の襟首を撫で付けて、我はまた少しだけくすぐったかった。
唐突に始まった花火大会に町中は歓喜の渦に包まれ、その光景に民衆は家を飛び出して空を見上げ、屋根に登り、歓声を上げては跳び跳ねた。数刻前までは葬式か何かのように峭刻としていた有り様が、ものの見事に祭囃子でも歌いそうな雰囲気である。
我は熱しやすく冷めやすい民衆という生物の性質を再確認して、花火の間を通り抜ける。こんな状況であるが……屋根と屋根を経由して、人々に奇異や畏怖の目で見上げられて、それでも我は花火に目が向いた。出来ればゆったりと見てみたいとさえ思った。
そして同時に……これが、我を祝って打ち上げられたのならば、どれだけ心に響くのだろうかとも思った。我はあり得ぬ世界線を妄想して、金色の髪を靡かせながら夜に駆けた。
その最中に、ほんの少しの興味で口を開く。
「……おい」
「……」
「おい、聞こえているのか?」
「……え? あ、どうしたの……?」
「何故……花火が上がったのかと思ってな」
我の質問に背中のエリーズはもう一度聞き返した。花火でよく物音が聞こえぬらしい。正直我も声が聞こえにくく、会話が少々億劫であった。が、うまく質問を伝達すると、エリーズは少しだけ考えるように黙った。いや、もしかすれば唸っていたのかもしれぬが、聞こえぬ。
音と光と、匂いと風と。そんな具合に五感が最大限に感覚を受け取るなか、エリーズが「多分」と声を張った。
「……私達が花火を打ち上げたからだと思うよ!」
「……?」
「私達が打ち上げたから……本当は打ち上げないつもりだったと思うけど、もういいやって打ち上げちゃったんだと思う!」
多分、今が丁度花火の時間だし! とエリーズは言いながら、恐らく時計塔の方角を見た。走行中に顔の向きを変えるのは危険性が高いので、我は少しだけ速度を落とした。同時にエリーズがびくりと体を震わせる。……そういえば、時計塔はものの見事に吹き飛ばしたな。あれでは時間を見るどころか櫓程度の役割も果たせぬだろう。機構だの時計盤だのを、我はまとめて粉砕してしまった。
「えっ!? あ、あれ……?」
「あれは我が破壊した。必要経費だったのだ」
「――」
エリーズは何かを呟いた。が、丁度よく花火が咲く。火花の雨が降って、人々が大声で歓喜した。我は「何がなんだかさっぱり聞こえぬ!」と言って、エリーズが言葉を言い直そうとした。が、いつまで待とうと言葉が出ぬ。
背中でエリーズは固まって、緊張するように震えだしたのだ。
我はその様子に嫌な予感が湧いて、速度をさらに落として、ちらりとだけエリーズに振り返った。視界を左に傾け、眦で捉えたエリーズの横顔は……花火を背負って、想像以上に美しい。
黒い髪は風に靡いて、くりりとした黒目は黒曜石のような深みと明るさを持っていた。あどけなく、未だ幼さの残る童顔の頬に幾らか横髪が絡み付いていて、それが不思議な艶を醸し出している。
我は我らしくもなく目を見開いて、しっかりとエリーズの顔を見た。正直な話、我はエリーズを整った顔とは思っても、美しいだのとは素直に思えなかった。そこにある筈のものが欠けているような、大切なものが何処かに隠されているような、そんな不完全な顔立ちだったのだ。
外見や顔には一際気を使い、魔王であり続けるためにひたすら外面を磨いた我だからこそ、一般には気付けぬ些細な欠落に気がついた。名前を知らず、名をつけるほどに興味も持たなかったそれが、今のエリーズにはあった。
それに我は動揺して、エリーズが瞬きをするのと同時に前を向く。一瞬だけ、何か意味深な視線がエリーズから放たれて、我の左耳と顎の曲線をなぞった。
しかし我はそれに応えず、無言で民家の上を飛ぶ。速度を少しだけ上げ、我は一瞬だけ見えた『何か』の正体を知ろうとした。
しかし、背中から伝わる温度と花火の音がすべてを壊してしまう。筆を握れば手を押さえられて、口を開こうとすれば先に話をされるような、とにかく濁った考察であった。
我は悩みながら関所に近づき、遠目に騎士が集結しているのを見た。これは少しばかり面倒か、と我は思って……そんな我にエリーズの声が聞こえた。
「――さん」
ほとんど声は聞こえず、背中のエリーズが発声して生まれた振動を拾っただけであった。我は遠目の騎士を見ながら「何だ!」と返した。
「聞――か?」
「もう少し大きな声で言え! いくら我とて聞こえぬ!」
「……」
我がそう言うと、エリーズは黙った。声の代わりにエリーズは我を一際強く抱き締めて、鼓動を早める。我は何がなんだか分からなくなって――そんな一瞬に、エリーズが言った。隙を縫うような、狙うような……どうしてか、むしろ聞こえないでくれとでも言わんばかりに小さな声で。
「――さん」
「……だから、もっと――」
「…………だ――き」
言葉と言葉を繋ぐ、最も大切な部分……そこへ、無遠慮な花火が炸裂した。自分の声を聞けと言わんばかりに騒ぎ立てては、エリーズの声を掻き消す。我は全くエリーズの言葉が聞こえず、何だと聞き返した。しかし、エリーズは何も言わない。何も言わず、体を震わせている。
我はどうしたのだと思って、エリーズの呼気でそれを察した。
エリーズは……笑っていたのだ。
くすくすとではない。大きく笑っていて、振り返れば華やかに破顔していた。あまりにも自然で柔らかく……エリーズという一人の人間の、非常に素直な笑顔だった。我は何がなんだか欠片ほども理解できず、そんな我にエリーズはからりと笑ったまま、大声で言った。
「なんでもないよーっ!」
「……もう、好きにしろ。我は訳が分からぬ」
我は走りながら首を振って、エリーズがそんな我にぎゅっと抱き付いてきた。肩口に頬を寄せて、吹っ切れたかのように笑っている。密着される分には走りやすくて助かるのだが、エリーズの体から伝わる鼓動はあまりにも早く、花火に対抗するかのような脈拍を打っていた。
響く花火の音と、伝わる背後の熱と、揺らめく人々の喧騒が我を包んで、我は走った。聞こえなかった声に首を傾げて、視界の端で煌めく光に一瞬目を動かしては、ほんの少しだけこの国への未練を浮かせた。
たった二ヶ月の在住ではあったが……この国には、ミルドラーゼ以上に多くの繋がりを生んだように思われる。船舶で出会って、我を口説いたバジルから始まって……花火の中、我は王女を連れ去っている。
それまでに通った道のりや、過ぎていった日々が記憶の中を巡っては、我の後ろ髪を本当に少しだけ引くのである。一歩進むごとに湧くそれを、我は続く一歩で引きちぎった。何度も何度もそれを繰り返して……そうしていつの間にか、我は防壁の直前にたどり着いていた。
花火の音は遠く、そして代わりに騎士達が武器を構え、魔術師が魔法を唱えて門の守りを固めている。そんな場面が目の前にあり、我は適当な屋根の上で立ち止まった。続けてエリーズをそこに下ろすと、戸惑い不安げなその顔にこう言った。
「十秒で終わらせる。肩の筋肉でもほぐしていろ」
そう宣告して、我は騎士と魔術師控える関所に突っ込んだ。隙を見てエリーズを回収しようなどと思えなくなる程の速度で、全てを終わらせるのだ。
我は脳裏で一秒ずつ時間を数えた。一秒目で我は邪魔な騎士を薙ぎ払いながら門前にたどり着き、二秒目で閉じられた門を持ち前の体当たりで粉々にした。そこから六秒で残った騎士を諸共吹き飛ばすと、一秒を掛けてエリーズの元へと戻った。戻ったと言っても、屋根には戻れぬ。
時間の無駄であるし、何より筋力が足りぬ。我は屋根の上のエリーズに降りてこい、と言おうとして、エリーズは唖然と関所を見ていた。振り返れば、関所は僅か十秒程度で壊滅的な状況にある。
巨大な門は火薬で爆破されたように弾けとび、その薄煙が残る手前で、多くの騎士が血を流しながら倒れている。魔術師どもは完全に戦意が萎えてしまったようで、多くが座り込んで失禁していた。相変わらず人間の魔術師は雑魚である。接近されれば何も出来ぬゴミばかりであった。
一応、帰る途中で萎えずに魔術を叩き込もうとしている輩が居たので、そいつは走行中のビンタ一発で気絶させた。ビンタというより、手のひらだけをつかったラリアットである。
こうでもしないと、筋力が乗らないのでダメージにならんのだ。我は己が作り出した死屍累々――恐らくは誰も死んでいないが――を眺めて、再びエリーズを見上げた。
エリーズは門と我とを見比べており、我はそんなエリーズに「降りてこい」と言った。するとエリーズは驚いた顔をして、我をじっと見る。
……なんだ。流石にエリーズ一人を受け止めることくらいはできる。リサ位の体格だとすれば……自分で降りろと言うかもしれぬ。我は両手を前方に突き出して、目で催促をする。エリーズは少しの間迷っていたが……意を決したように一人で頷くと、屋根から飛んだ。ふわりと舞ったその体の落下地点に我は両手を滑り込ませ、全力で足腰を踏ん張った。何千、何万と夜に繰り返してきた鍛練を思い出して、歯を食い縛る。
エリーズの体は我の腕の中に落ち……そうして我は、なんとかエリーズを受け止めた。我はその途端に顔の強張りを消して、いかにも簡単に受け止めた、といった顔をした。我の前方に抱かれることになったエリーズはきゅぅ、と体をひどく縮めており、赤子の如く首を引っ込めていた。
顔は赤く、ちらりちらりと我の顔を見てくる。我はまさか、先程までの崩れた表情を見られたかと思った。が、結局のところ真偽は分からぬ。前抱きをしたエリーズとは顔が近く、もしかすればエリーズは我の美貌に顔を赤らめているのかもしれぬ。そんな予想を立てつつ、我はエリーズを地面に下ろした。前抱きでも耐えられるは耐えられるが、速度が出ないのである。
我はエリーズの手を掴むと、最早慣れた手つきで背中に背負った。エリーズも慣れたのか、あわあわと我の首に手を回す。我はそれに力がこもったのを確認すると……一瞬だけ力を溜めて、崩れた門へ走った。外へ出ようとする我らを止めようとする者は居らず、居るには居たが地面を這って動くことが出来なかった。
我らは容易く門を抜け、そうしてアルベスタの外へ出た。薄い煙を抜けて出たそこは、短い草の茂る、生まれたばかりの草原となっていた。凍てつく風はどこにもなく、痛いばかりに視界を満たしていた白も無い。一面の草原と月夜、右手に森と白狼山脈が見えている。
ふわり、と小さく巻き上げるようなつむじ風があって、我はゆらりと一歩を踏み出した。王女を背負い、国から逃亡する。そんな荒唐無稽な計画が、確かに成功したことを示す一歩である。この一歩が恐ろしく長く、そして遠かった。この一歩と同時に鮮やかに疾走して、風が頬を撫でるようになるまでが……あまりにも過酷だった。
しかし我はその全てを乗り越え、ここに在る。確かな体温が背中にある。であれば、問題は無かった。我は草原を駆け、そんな背中に、遠く遠く花火の音色がある。本来ならば我を祝う筈だった、花火の音が。
祝うべき男は消え、むしろ罪人となり、しかし人々はそれに気づく事無く花火を見上げていた。例えるのならば、空っぽの玉座を仰ぐような、中身の無い宝箱を取っておくような、そんな感じであった。主賓の居ない祭りに別れを告げて、我はほんの少し走行速度を上げた。
そんな我にしがみついて、恐らくは自らの国にじっと振り返っていたエリーズは、風に煽られぬよう我に身を寄せて、そして囁くように言った。
「コルベルトさん」
「うむ」
「……ありがとう」
「……何に対しての物か、どうにも分かりかねるな」
我がそう言うと、エリーズはくすりと笑った。そして、静かに言う。
「……全部だよ。うん、全部」
「……」
「こんな私を見捨てないでいてくれたことも、こんな私を救おうとしてくれたことも、救ってくれたことも……一緒に旅がしたいって言ってくれたのも――ありのままの私が好きって、そういってくれたことも全部……ありがとう」
我は本気の感謝に、どことなく気恥ずかしい感情が漏れた。それを悟られぬよう、東を目指して走りながら、我はエリーズに言った。
「……ふん。好きなだけ感謝せよ。好きなだけ恩に着ておけ。これは、一生ものの借りである」
エリーズが確かに頷いて、あっ、と言う。思い出したかのような声音だった。
「ねえ、コルベルトさん」
「何だ」
「コルベルトさんは、大白狼を倒したんだよね?」
「……まさか、その話が聞きたいのか?」
先回りしてそう聞くと、エリーズはこくこくと頷いた。さぞかし気になるのだろう。ずっと城に居たエリーズでは、何がどうなったかさっぱりだろうからな。我は説明に時間が掛かることを先に言って、エリーズはそれでも良いよと笑った。
――そうして、雪解けの草原を我は走る。春の足跡を踏みしめて、月夜と共に背負った王女へゆっくりと、丁寧に……長い冬を終わらせた、狼と春の物語を始めた。
大好きな貴方に、はじめての告白を。
第二章『大好きな貴方に』 完




