第二百話 夜に咲く、火花と花火の花束よ。
静寂の満ちる町中を、我はエリーズを背負いながら走っていた。速度は最速の七割以下に抑え、エリーズの体に気を遣いながらの走行である。最速を出せば間違いなくエリーズの両腕が千切れるので、速度を落とさざるを得ないのである。
無人街に並ぶカンテラや街灯の灯りを通りすぎながら、我はちらりと後ろへ振り返る。きゅっと我の背中にしがみつくエリーズとその黒髪がそこにあって、揺れる黒髪の隙間から銀色の男が全力で我を追っているのが見えた。
勿論の如く、騎士団長ヴァストラである。その表情は鬼気迫るものがあり、抜き身の聖剣を片手にこちらへ疾走する様子は、あまりにも威圧的であった。
始まってから数十秒の戦いであるが、その数十秒で速度的な軍配がヴァストラに上がっていることが分かった。エリーズを背負う我の速度は、ほんの僅かにヴァストラよりも遅かったのである。
故に距離はゆらりゆらりと近づいて、ほんのりとした焦燥が我の中にあった。
加えて、今回の戦いにおいて問題なのは速度だけではない。
背後から微かに声が聞こえ、我の進路方向を塞ぐように三つの氷の壁が生まれた。真ん中、左、右といった具合に生えている。騎士であるヴァストラはエリーズを傷付けるような大魔法は使えぬ。故にこそその魔力は我の進路を塞いで回り道をさせることに費やされているのだ。
我は舌打ちと共にエリーズへ「揺れるぞ」とだけ言って、氷の障壁に頭から突っ込んだ。体がそれと衝突する前に、速度を乗せた頭突きを放つと、僅かな抵抗の後に氷が飴細工のように砕け散った。きらりきらりと光る破片の中を突っ切って、我は先へ進む。
先程から、こんな具合の小競り合いが重なっていた。我の足元だけを的確に凍らせて足を止めようとするなり、大きな一枚の障壁で進路を塞いできたりもした。それらは殆んど意味を為さぬが、ほんの僅かにだけそれに対応する無駄な時間が生まれ、その度に距離が縮まる。
我はそんな状況への焦燥で、ほんのすこしだけ走る速度を上げたが……途端に、背後のヴァストラが吼える。
「逃がすかっ! 魔王ッ!!」
びくり、と背後のエリーズが震えて、怖がるように我の首へ回していた腕の力を強めた。このままでは少々不味いか、と我は思って……しかし、それを打ち破る要素が前方にあった。
それは、宴である。人々が続ける祭りが、前方に近づいていたのだ。いくらヴァストラとはいえ……というか、ヴァストラであるからこそ、街中で無差別に魔法は使えまい。我がそれに賭けていることが分かっているのか、ヴァストラは連続して魔法を放ち、我を止めようとしてくる。
しかし我は、その悉くを通り抜け、ヴァストラとの距離を六メートル前後残しながら祭りの中へと突っ込んだ。人々は遠くから近づいてくる魔法の波動を恐れ、一応の距離を空けていたが、無意味である。
人々は突っ込んできた何かが人影であると知り、それが金色の髪をしているのを見ると、一様に動揺の声を上げた。しかし伝播するそれよりも早く我は走り、棒立ちで立ち尽くす人々の間を器用に駆け抜け、恐らく私服の騎士であろう人間からうまいこと距離をおいて進行した。
あわや激突の大惨事、といった具合にまで我はギリギリの線を走り、その度にエリーズがぎゅっと我に寄る。加えて背後から文句や怨嗟を含んだヴァストラの言葉が飛んで来た。
「お前! もう少し安全に走れないのか!!」
生憎我は戦いの最中に饒舌な会話をするほうではないので、ヴァストラの言葉はさらりと聞き逃した。聞き逃して、ヴァストラとの距離を取るために、さらに難しい道を走る。
一応の祝いの空気だった人々の輪の真ん中を突っ切って、揺れる人波の間を潜り抜けた。良くわからんが養鶏場のような場所を通った時は、走り抜けざまの蹴りで街中に鶏を解き放った。
サーカスの劇中に割り込んで仕込みの鳩を飛ばしては、外に席がある形の食堂の前を通り、テーブルの上を走って料理を蹴散らした。
あまりにも無茶苦茶かつ複雑な道である。エリーズが何度も声を上げ、我の名を呼ぶような道だった。間違いなく、ヴァストラには到底通り得ない道のりだった。ヴァストラは我が突っ切った人の輪を頭を下げながら通り抜け、我が通ったことでさらに複雑となった人波を速度を落としながら抜けた。
放たれた大量の鶏を踏まないように気を付けながら走っては、我が抜けたサーカスの中へと入ることを戸惑っていた。我が通ったテーブルの上の道をヴァストラは当然選択できず、人の居る道を選択した。
そのどれもがヴァストラらしく、そして無駄である。我との距離が離れ、苛立ち混じりにヴァストラが叫ぶ。
「絶対に……絶対に逃がさない!! もう、僕から何も奪わせはしないぞ!!」
もう、とは心外である。どう考えてもバジルのことであるが、あれは我に勝手に惚れてきたのである。恐らく理不尽な理由で振られたヴァストラは、我が非正規な方法でバジルを射止めたと勘違いしているに違いない。
この土壇場でヴァストラが抱えていた鬱憤の形が見えて、我はそれに呆れてしまった。
もう少し大人になれと、そんな風に思ったのである。奪われたのならば奪い返せば良いし、己の手の届かぬ所で起きたことを必死に解明、解決しようとするのも馬鹿らしい。さらにはそれを相手の非として擦り付ける辺りも実に暴挙といえる責任転嫁だった。
我は前述の通り喋るつもりはなかったが、あまりにも酷い言い口に呆れて、走りながら口を開く。
「我が貴様から『奪った』だと? 戯言も大概にせよ! 我が奪ったのではなく――貴様が拾わなかったのだ! 落ちていたものを見逃して、拾えたかもしれぬものを拾えなかった! それは貴様の怠慢と未熟さである!」
またしても料理を蹴散らしながら、並ぶ酒樽の上を走り、吟遊詩人の目前を通り抜けながら、我はそう叫んだ。我の言葉に返事は無かった。図星であったのか、我からの言葉に返事をしたくないのか。
どちらにせよ、ヴァストラの姿は人波の間に小さくなっていき、やがて見えない時間が多くなっていった。
このままならば逃げ切れる、と我は確信して……その直後に、背中のエリーズがはっとして、思わず振り返るのが分かった。我から体を離すと危険であると我は告げようとしたが――その直前、背後から人々が一斉に声を上げるのが聞こえた。同時にパリリパリリと空気の凍結する音が聞こえて、我は思わず振り返る。
振り返った先には、氷で一つの階段が出来ていた。階段は民家の屋根に繋がっており……そして、屋根の上を走るヴァストラが見えた。屋根から屋根へ飛び、届かぬ領域には魔法で橋渡しをして強引に道を作る。そんな具合に、ヴァストラは新たな道を開拓していた。
そしてそれは殆んど最適解に近く、これでは我が一方的に人波を避けているだけである。対するヴァストラは人波だの我の細工だのを一切受け付けず、悠々と直線を走ることが出来る。あまりに歴とした差は二者間の距離に現れ、瞬く間にヴァストラは我へと距離を詰めた。
先程まで保っていた六メートルの壁すら越えて、更に距離を詰めてくる。これでは不味いと我は思った。直接的に魔法で攻撃や妨害をされることは無いが、上から飛びかかられ、エリーズを掴まれては堪らない。失敗しても、ヴァストラには次がある。
この状況はあまりにも不利であった。我はそれをなんとか除去できぬものかと思案して、しかし慌ただしい状況でろくに名案が思い付かぬ。我は渋い顔となって、そんなときに背中のエリーズが「あ」とだけ呟いた。なんだと思って走りながら見ると……進む先に、火花が見えた。金色の火花が稲穂のように散っている。
眼前で、アルベスタの子供が手持ち花火というやつを楽しんでいたのだ。それ自体はただ単に祭りらしい光景であったが、それに並んで途轍もないものがあったのだ。
花火で遊ぶ子供たちから大きく離れた空き地に……唯一、この祭りで規制線のようなものがあった。衛兵がそこに立ち、先に行かぬよう守っているのだ。衛兵の守られているものというのは、我にとって少しだけ見覚えのある――打ち上げ花火の筒であった。我の腰ほどまである筒が、打ち上げられた形跡もなく屹立している。
どうやら花火はさまざまな事柄を考慮した結果打ち上げないこととしたようであるが……我は、それを利用しようと思い付いた。我はその為に、走りながらエリーズへ質問した。
「おい」
「え、あ……うん」
「お前は、火の魔法が使えるか?」
「……無理じゃないけど、凄く苦手だよ。焚き火位しか炎が出せなくて……」
我は脳裏に炎使いを自称するくせにマッチ程度の火炎しか放てない女を過らせて、「それで充分である」と言った。エリーズは首を傾げ、「流石にヴァストラさんは……」とヴァストラへの攻撃を躊躇うような言葉を漏らした。が、我がやりたいのは直接的な攻撃ではない。
エリーズは我の進行方向を見て「え」と固い声を漏らした。どうやら理解が追い付いたらしい。我は少しだけ笑って、場を守る衛兵に突っ込んだ。
衛兵は突撃する我らに慌てて槍を構え「この先は」と口にする。だが我はなんら躊躇することなく、堂々とその横を突っ切った。そして、広々とした空き地に理路整然と並ぶ花火の大筒の前で立ち止まり、エリーズに言う。
「点火だ」
「いや、こ、コルベルトさん……」
エリーズが戸惑うような仕草を見せ、我はそんなエリーズを一度地面に下ろす。当然そんな事をしていればヴァストラに追い付かれるのは自明の理であり……屋根の上から、ヴァストラが空き地の地面に飛び降りた。
「……覚悟しろ」
我らに向けられた言葉から察するに、こちらの狙いは読めていないようである。どうやら我が腹を括ったと思ったらしい。ヴァストラはゆらりと直立して、聖剣の切っ先を我に向ける。我はエリーズを後ろ手で押し退けて、ヴァチェスタの前に立った。
雰囲気だけで言えば、一騎討ちの形である。追い詰められた魔王と、追い詰めた騎士との、最後の戦いである。
ヴァストラの黒い瞳が爛々と輝いて、その周囲の空気に霜が混じっていた。我は深く腰を落とし、戦闘の体勢を作る。ヴァストラはそんな我を見ると、深々と言った。
「――アルベスタ第一騎士団団長、ヴァストラ・ジークレスト」
推して参る、と名乗りを上げたヴァストラであったが……残念ながらこれは一騎討ちではない。大きく一歩を踏み出そうとしていたヴァストラが、驚きのあまり固まって、エリーズを見た。我の背後に居るエリーズは、俯きがちに魔法を詠唱していた。
「エリーズ……様……?」
ヴァストラが信じられないものを見るような顔をして……エリーズは最後の節句を唱えた。
「『這い回る火炎』よ……ごめんなさい」
エリーズがペコリと頭を下げるのと、その手から蛇のような火炎が生まれるのは、ほとんど同時であった。ゆらり、ゆらりと揺れる火炎は素早く花火の大筒の口元をなぞると、そこから垂れていた導火線に火を着けた。
どうやら導火線は一本のものを他に繋げて連鎖するようにしていたらしく、何本かが発火すると連鎖して他の筒にまで火が着いた。ヴァストラは何がなんだか分からぬようで、とにかくエリーズに攻撃をされた訳ではないとだけ思っているらしい。
ヴァストラはそれだけを確かめると、とにかく目の前の我を倒さんと、そうすれば全てが丸く収まるだろうと突っ込んできた。低く、力強く、そして素早い動きである。あらゆる武人、戦士を見てきた我をして、成る程強いな、と思わせる動きだった。
だが、今の我は恐ろしく速い。ヴァストラが放った突きを後ろに仰け反って避けると……我はヴァストラに背を向け、直近の花火へ大きく踏み込んだ。そこでヴァストラがようやく何か不味いことが起こると察したらしく、魔法を唱えながら我の背を斬ろうとしてきた。
が、それより一瞬早く、我は地面に固定された花火の筒を大きく跨いで、振り返り様にそれを力強く蹴飛ばした。うまいこと慣性を乗せて放った蹴りで、地面に固定されていた花火の筒が根本から大きく傾いて――内部の火薬に火が着いた。
続けて火の着いた球体状の何かが高速で飛び出すと、ヴァストラに向けて突っ込んだ。しかしヴァストラはうまいこと体を捻ってそれを避け、花火は命中しなかった。
飛んだ火薬は無残に飛んで、直近の民家の壁に当たると、深々とめり込んだ。
それを見たヴァストラは逃げ切ったような顔をして我を見て……顔を青くした。我は――全力でヴァストラに体当たりをしていたのだ。打ち上げ花火は陽動であり、当たればそれはそれで面白いが、正直当たる気がしない。そもそも我は花火の構造が今一分からないので、最初に蹴った段階で不発となる可能性も考えていた。
しかし、ここまで自信たっぷりに、いかにも切り札であると見せかけて行動すれば、この筒から出た花火で攻撃するつもりなのだな、と読める。読ませることが出来るのだ。
実際火薬は出たが、それはどうでもいい。大事なのは、現在のヴァストラの体勢だった。花火を間一髪で避け、体が大きく斜めに傾いている。もう回避は出来ず、なんとか魔法に繋ごうとしているが、そんなものが間に合う訳がないのだ。
我は全力でヴァストラに体当たりをぶちかまし、ヴァストラは鎧をひん曲げ、血を散らしながら大きく吹き飛んだ。ヴァストラは先程まで花火がめり込んでいた壁に激突し、壁は当然崩れ落ちる。その瞬間、その物音に合わせてシュ、と音がした。他の火薬に火が着いたのである。
それはヒュー、と独特の音を立てて打ち上がり……ヴァストラはなんとか血を垂れ流しながら立ち上がろうとした。かなりの損害を与えた筈だが、流石にしぶとい。何より、目が生きている。まだまだ戦闘不能には程遠いだろう。
……しかし、次で終わりにしてみせる。と我は思って――その瞬間、金色に世界が弾けた。ヴァストラの足元に転がっていた最初の火薬が、この時を持ってして炸裂したのだ。ヴァストラは当然吹き飛び、我も危うく仰け反って尻餅を着くところであった。金色の爆発が起き、鼓膜を破壊するような轟音が響く。
我は目と耳を抑え、その痛みに耐えながら、なんとかヴァストラを見た。近距離で花火を食らったヴァストラは大きく吹き飛び、家屋の中に倒れていた。死んだかと思ったが、次の瞬間大きく咳き込んだ。血が混じってはいるが、咳き込みながら悶える様子からして、死にそうにはない。
とはいえ、視覚も聴覚も、もはやまともに動かぬだろう。確実に鼓膜も弾けているであろうし、敵としての脅威は限りなくゼロであった。我はそれを確かめ、やはり脳にガツンと来る衝撃にこめかみを押さえると……それに合わせて、空で大輪が咲いた。
慌てて見上げると、そこには極彩色に咲く花火がある。轟音は空気を伝って心臓の根を揺らし、煌めく光は視界を鮮やかに彩っている。我は生まれて初めて夜の花火を見て、その美しさに呆然とした。その華々しさに唖然とした。
ただただ我は、生まれて初めてのその光景に圧倒されて……そしてそれにアンコールを掛けるが如く、ヒュー、と花火が打ち上がる音がした。
もしかしたら、花火はこんなんじゃねえぞ! という方がいらっしゃるかもしれませんが、この世界の花火はこうなのです。
ちなみに……実際、花火をゼロ距離で受けたらどうなるのでしょうか。経験も前例も無いのでうまく書けませんね。




