第十六話 騒乱は湖面にて凪の如く
二階に二人が上がると、家の中が一層に広く感じられる。上で何が起こるのか、その結果がどのように作用するかは分からぬ。勿論我にできることは欠片ほどもない。かといってやることも特にないので、ただ待つのみである。
健良な我の聴覚をもってすれば、耳を澄ますことで二階での会話を盗み聞きすることも不可能ではない。が、王足る物が薄汚れた盗人のような事はできぬ。
何が起きようと、堂々と判断を下すのが道理よ。
……その結果、路上で寝てもらう、という回答が返ってきた場合は……どうしようもないな。諦めて金を稼ぎ、我に相応しい宿に泣く泣く泊まるしかないであろう。
「さて、今のうちにこれからの計画を立てねばな」
目指すは直近の欠片。必要なのは純粋な武力。とはいえリサやエリーズを頼ることは勿論立場上あり得ぬし、仮にあり得たとしても意味がない。
腕の立つ者に手足になってもらう他無いのだ。ここまでは偶然と幸運によってなんとかやってきてはいるが、この先はそうも行くまい。
世界は残酷なのだ。容易い希望にすがっていては、直ぐにでも足元を掬い上げられる。
相手にもよるが、仮に先方が亡霊だとすれば……神の道を行く人間の力を借りれば、大幅に助かるであろう。が、魔に属する我は当然、その道を選択できぬ。ならばどうするか。クルーガーどもは……多少頼れそうだが、実力が足りぬ。
敵は絶対に甘くないのだ。それは我自身が直感する事実である。
「良くて一撃……当てられるかといったところであろうな」
ボソリと呟いて、長椅子に歩み寄って腰掛ける。はてさて、と思考を続けようとすると――指先に何かが絡まった。うむ? 取り敢えずそれを摘まんでみると……細い。髪の毛のようだ。
ああ、汚ならしい。我の指先が穢れてしまう。そう思い、何気無しに指先へと視線を向けると……硬直した。
そこにあったのは、一本の長い赤毛。それは見事なまでの煉瓦色で、見たこともない長髪の人間のものだった。恐らく、というより間違いなく、リサの母親の髪なのだろう。なのに、どうしてか別の男の顔が浮かんだ。赤髪に隻角の男だ。
「『カヌス・アーデン』……」
同時にぷつりと沸き立つのは、淡い嫉妬心。我は似合わぬそれを握りしめ、どうにか感情の鈩に放り込んだ。そんな感情は、我にあってはいけない。それは弱者の感情だ。
けれども両手で押し止めた隙間から、ぬるりとそれらは小さく滲み出る。凄惨たるあの日の胸騒、それが生き物のように蠢くのだ。
それら一切をなんとか切り捨てて、手のひらの髪を何処かへ放る。今見たものは……ああ、忘れるとしよう。忘れるのが最良だ。我が出来る限りの忘却を決め込んだ時、上で繰り広げられていた会話が途切れた。しばらくすると何事かを呟く声が聞こえて、上の扉が開く。
この流れは上から降りてくるに違いないと踏んだ我は、いかにも悵然とした佇まいを長椅子の上で保ち、ちらりと横目で階段を見つめた。
まず、上から降りてきたのはエリーズ。いつも通り明け透けな笑顔を浮かべている。続けて控えめな足音でリサが降りてきた。その表情は……うむ、なんと表現するべきか分からぬ。
さまざまな感情が坩堝になっており、どうにも形容しにくいのだ。だが、もし一つ言葉を選ぶとするのならば……気まずい、といったところか?
階段を降りたエリーズは、同じ階段を降りたリサの横腹を笑顔でつつき、リサは軽いため息を吐いた。
「……その、えー……まあ、なんていうか……」
「……うむ?」
催促するように我が声を漏らすと、リサはこちらから目を反らし、歯の間から吸い込んだ空気で言った。
「……良くわかんないけど、あんたの目的が終わるまで……それまでだけ――この家に居てもいいわ」
「……正気か?」
そう言うと、リサは顔を赤くした。羞恥と怒りをふんだんに混ぜ込んだ赤だ。流石に我自身も普段であればこれほどまでに穿った言葉は吐かないが、先ほどまで頑として我を拒絶した女が、三十分そこらで意見を曲げるのを見ると……流石にこうも言いたくなる。
思わずエリーズを一瞥したが、ほわほわと軽い空気を保ったまま笑ったままであるし、一体何が起きたのだ。
「そんなに言うんだったら――」
「おい、待て。そういう訳ではない。だが、あまりにも不思議なものでな」
「……まあ」
リサは若干赤みの残る顔でエリーズを見た。何だ。奴は何をした。魔法の一つでも使ってみせたのか? とはいえ、人間の心を操る魔法など聞いたことが……ああ、あるな。とはいえ、それは禁忌である。もし使おうものならば、天界から裁きの雷が雨霰の如く降り注ぐはずだ。いくら我でもあれは少々痛かったので、人間には到底耐えられまい。
「お前、何をした」
「えーっと、普通にお話だけど……?」
「……本当に普通に話しただけよ」
「なんだと……」
まるで魔法に掛けられたような反応をすると、リサが伏し目がちに話を戻した。
「それで……えっと、あんたもそれでいいんでしょ?」
「……うむ」
「……食べ物買い直さないと」
我が重々しく二文字を紡ぐと、密かに居間へ充満していた緊張の糸がほどけた。三者間に絡まっていたその糸が地面に落ちるのを見据えたエリーズは、ぱっと明るい笑顔で口を開く。
「まさかの三人暮らし、開始ー」
「はぁ……」
「実質同じ家に別居しているようなものだがな」
「あ、その表現良いかも。同室に別居」
「深夜に挨拶、みたいな感じ……」
エリーズの言葉に、我とリサは真顔になった。我はどう反応すべきか悩んだのでリサを見たのだが、真顔であったので真似をしたのだ。
エリーズは思わぬ挟み撃ちに戸惑っていたが、直ぐに頭を回して話題をすり替えた。
「え……あ。えーっと、そういえば昨日の依頼の報酬、貰いに行かないと」
「……我はどういう仕組みなのかさっぱりであるから、お前たちに任せる」
「はいはい、先輩の出番って訳ね。寝たし食べたし、色々話したし……さっさと準備して組合に行きましょ」
エリーズと二人して返事を返した。と同時に我はゆらりと椅子から立ち上がり、上着とマントを掴もうとした……のだが、マントを装備しようとした段階でリサからの視線を感じ、顔をあげた。見るといかにも、それ持ってく? といった瞳を向けられている。
が、我は無視した。マントを装備しない王など古今東西居るわけが無いであろう。威厳を示す上質なマント……うむ、素晴らしい。まさに魔王の風格よ。聞き慣れたため息を付して、我は鏡の向こうの我に堂々と笑いかけた。
―――――――――――――
組合に着き、歪んだ扉を押し開けると、いつもの冒険者四人組が出迎えてきた。最初は厳つい顔をしていたが、我らの顔を見た途端子犬の如き笑顔になったのだ。その強面でその表情は違和感が凄まじい。リサやエリーズも同じことを思っているらしく、苦笑いをしている。
「おぉー! 新人三人組ー」
「話は聞いてるぜー!」
「ああ、わかった。わかったからもう少し我を敬え」
やはり我の仕事は少しばかりの噂になっているようだ。確かにあの酒場では権力の強そうな人間が集まっていたからな。噂の回りも早いのだろう。……ならばもう少しまともなところに用心棒を依頼すれば、と思うが、色々と事情があるのだろう。
うるさい四人組に反応したのか、店の奥から店主が顔を出した。出したと同時に我を見て、ニヤリと笑う。なんだその笑みは。相変わらず意味が分からぬ。
リサが店主の笑みにどぎまぎしながら認識票を出し、依頼の報酬を受けとる手続きを始めた。
……うむ、やはりまともな所からの依頼では随分と面倒な手続きがあるらしい。手数料だとか書類に署名であるとかをしている。意外に書類を扱っているのだな、と見直していると、それを察したらしいエリーズが、実は今書いている書類は店主に言えば白紙で通せるらしいと言ってきた。
「……それは手続き的にどうなのだ?」
「まあ、冒険者だし。こういうこともあるんだよ。人によっては偽名を使ってたり、名前が無い人も居るみたいだし」
「……」
一応我は魔王であるから、政治にも手を触れてはいる。ある時は最高裁判を執り行い、ある時は死刑執行の書類に慣れぬ捺印をした。大きな建物を建てる時には、良くわからん法律に照らし合わせて許可を出したりもした。勿論、殆どの事務は下の者にやらせたが、流石に上記の物は我が手を出さねばならぬ。
そこで痛いほど我は書類の不備だの誤字脱字だのをぶち食らって、随分と威厳を落とした覚えがある。だから勉強をしたいのだが……暇があれば人間は反乱軍だのを指揮して我が国に火を放とうとするし、神は天使を投げつけてくるし、どちらもとんだ馬鹿野郎である。
それに比べれば、こちらはあまりにも適当すぎる。なんだ、白紙で良いとは。几帳面というか小うるさい性格のリサは紙に何かを書き込んでいるが、他は面倒くさがって白紙なのだろうな。
少しして手続きが終わったリサに、店主が改まった咳を一つした。
「……報酬を渡す。手を出せ」
「……手? えーっと……」
確か我の聡明な記憶によれば、依頼の報酬は銀貨九十枚。リサの手のひらに乗る程とは思えぬ。我を含め三人まとめて困惑していると、店主はカウンターの下から二枚の硬貨を取り出して、リサに握らせた。その色はくすんだ銀色ではなく、我に大きく似通った――
「え……え!? ちょ、マスター! これ、えっと」
「……依頼書に書いてあっただろう。追加報酬だ」
「追加報酬で金貨一枚……」
確かにそんなことを言っていたな。やはり我の仕事ぶりは金貨に見合うということだ。如何せん数が少ないのは癪だが、我に似た金色は見ていて実に癒される。うむ、金色は良いものだ。豪奢で絢爛、ともすれば権力と偉大さを遺憾なく訴えてくる。
我の隣のエリーズも仰天に跳び跳ねているし、それだけのことらしい。我には良くわからんが、何か凄いことらしい。
報酬の受け渡しが終わると、店主は相変わらず無愛想に仕事は終わった、という無言を醸し出す。リサは右手を宝石のように抱えて我とエリーズに近寄った。
「え、エリーズ……どうしよう、こんなに高い報酬、貰ったことないよ」
「えっと、落とさないように気を付けて……うわぁ、本当に金貨だ。久しぶりに見たよー……」
「良くわからんが、凄いようだな」
端的にそう言うと、二人は勿論だと詰め寄った。話を聞くと、二人が二週間毎日依頼を吟味して得られる金額が、一晩で手に入ったらしい。我は寧ろ二人の稼ぎの少なさにほとほと憐憫を垂れてやりたかったが、ここで変な口を叩くのは得策ではないだろう。
興奮する二人に我は落ち着いて口を開いた。
「それで……次の依頼はなんだ?」
「え……これだけあれば結構楽できるけど……」
「冒険者が不安定な職業と言ったのはお前だろう。金はあればあるだけ良い。それに何より……」
「なにより?」
「……金があればより上等な食事が楽しめるだろう」
本当の所は、我という食扶持が増えたのだから、その分働こう、と言うつもりだったのだが……こいつらにそんな事を言うのは癪だ。気に触れる。何より変な反応が来ることが折り紙つきなのだ。見える地雷は踏まない、それが賢い生き方よ。
我の言葉に二人は見覚えのある呆れ顔と笑顔を浮かべた。
「……馬鹿じゃないの?」
「くく、照れるな。素直に喜べばいいではないか」
「リサのご飯が豪華になるなら、やるしかないね」
「……はぁ」
嬉しいと口角が上がるのを指摘されてから、それを隠そうとして逆に分かりやすい。胸中を吐き出すようなため息を吐いて、リサは依頼書の束に爪先を向けた。エリーズも何かと乗り気である。やはりこやつは中々に分かっている。それを口に出すことはなく、リサの後を追った。
二度目となる依頼書の集まりは、前回よりも心なしか規模を増やしていた。気のせいかと思ったが、いやに新しい糊の匂いがする。安っぽい蝋のような香りだ。
まあ、それはそれとして……遂に、我の学習の成果を発揮する時が来たようだな。今の我ならば……あー、五割くらいは文が読めるはずだ。黄金の瞳を煌めかせて、分厚い羊皮紙に向き合う。
「……猫退治……ではなくて猫の捜索?」
「あんた……動物の指示文だけ見すぎ。若干惜しいし」
「猫泥棒の捜索だね……」
「……五割は読めたぞ」
はいはい、偉い、と形だけの誉め言葉を貰ったが……欠片ほども嬉しくない。なんだ、猫泥棒とは。猫を拐って食うのか? 最早魔物ではないか。猫泥棒という一単語に盛大に怒りを向けていると、リサが一つの依頼に声を漏らした。
「あ……あー、良いかも……でもなぁー」
「どれどれー? ……あー」
「む? どれだ。我にも見せろ」
謎に苦笑いのリサが羊皮紙を指差した。二人からすれば見上げる位置にある依頼で、そこそこ新しいようだ。ふむふむ……。
「店の……掃除だな。うむ、間違いない」
「おー。店内の整理だから、間違ってない」
「凄い! 成長してるよ」
「我からすると整理が読めなかったのが若干惜しいがな」
誤魔化して言ってみると案外合っていた。依頼の内容はごちゃごちゃになっている魔法具店の整理。報酬は銀貨七五枚。依頼場所は……魔法具店『錬金鯨の胸鰭』?
なんだ、錬金鯨とは。訝しげな視線を二人に向けてみたが、特に突っかかっている様子はない。恐ろしく一般的なのか、もしくはただの固有名詞かであるな。
「『整理整頓が苦手なので、本や包装が地面に散乱しています。腕力の問題で運ぶのが難しいので、お手を貸していただけると幸いです』……すっごい綺麗な字」
「確かに……って、この住所、結構良いところのだ……」
「……力仕事か」
リサとエリーズは相変わらず依頼主について顔を苦くしながら話し合っている。どうやら中々いい身分の者らしいが、我よりは格下であるので興味はない。
問題は仕事内容の方である。まず掃除という点で我の身なりが著しく汚れるだろう。これもなかなか重大な問題であるが……物を運べるかどうかである。
密かに上腕を軽く擦ってみる。うむ、見事な筋肉だ。筋繊維が緻密に噛み合わさり、なだらかな丘陵のように力強い陰影を描いている。がしかし、今の我にとってこの筋肉は見せかけである。果たして魔法具や錬金術を記したような分厚い本を幾つも運べるだろうか。
流石に一般的な人間の腕力くらいはあると信じたいが……まあ、よい。我は魔王だ。物を運ぶ程度のことにごちゃごちゃと思考を巡らせるのは、この名に無礼というものであろう。
ごほん、と威厳のある咳払いをして、未だに依頼書とにらめっこをしているの背後に立った。
「えーっと?」
「ん、どうした?」
「その依頼、受けるとしよう」
何、軽い運動である、と二人に言い放つと、両者共に見合った後に苦笑いをした。うむ、我の笑みに脳が耐えきれず視線が逸れたのだろう。上等な笑みを浮かべながら、我は品のある高笑いをした。
× 錬金鯨の胸鰭
○ 錬金術士の懐
恐らくダイナミックに意訳すれば五割読めている……筈です。




