第十四話 黒の瞳が金を縫う
男の来店から数時間、特に変わった様子は無かった。時間は過ぎ去り、月が沈んでいく。人の入りが極端に減って、同時に面倒事の臭いも薄まっていった。つまる所、山を越えたのである。
取り敢えず、初めての依頼は成功という事で良いだろう。この我に掛かれば成功の二文字は確約されているようなものだが、中々に苦労をした。砕いて言えば、思ったよりも面倒であったということだ。
やってくる破落戸を追い返すのが面倒という訳ではない。途中訪れた輩は、店の奥の我を見るや否やびくついて回れ右をしていたからな。
難易度の話ではなく、我自身の話だ。
「……眠いな」
連日戦い続けた訳でもないのに、我の体は如実に眠気を表しており、同時に体が重い。魔族的には平均的な睡眠頻度であるが、我からすれば甘いと言える。一週間丸々戦場で目を醒ましていたこともあったというのに……そこまで考えて、いや、と思い出した。
そういえば今の我にはもう逆鱗が存在していないのか。龍の血を継ぐ者にのみ現れる一枚の逆鱗。その一片が有る限り、我らは睡眠も食事も殆ど採らずに済む。付け加えれば、呪いや病魔、精神支配をも弾く事が出来る。
あらゆる悪意と脆弱性を跪かせる物……それが逆鱗である。
残念ながらもう我の手元には無いが、早い段階で回収しておきたい力である。
もうそろそろ夜が明けるのを待つのみ、という時刻になって、暇な脳みそを動かしていると、記憶の浅瀬に引っ掛かりを覚えた。そういえば、という程度の引っ掛かりである。
先程、男を言葉で追い返した時……いや、正確に言えばその後のことだ。ため息と共に酒場へ向けた背中に、好意的な物とは別の不思議な視線が刺さっていた。
例えるならば、考察。張り巡らせるような、裏を読み解くような鋭利な視線。けれどもそれはあまりにも一瞬の事であり、我自身、気分がよくなかったので見逃していた。
「……この位置に立っていて、その斜め後ろから感じたということは……」
記憶を掘り返して状況を仮想再現すると……視線の主は――
ゆらりと瞳を向けると、彼女は眠っていた。あどけない寝顔、幼さと純真さを被って歩いているようなエリーズである。リサは責任感バッチリに目を覚ましているが、エリーズは眠気に耐えられなかったようで眠っている。
ということは……リサか? いや、あの視線には確かな深みが感じられた。少なくともリサでは無いだろう。
とはいえ、エリーズであると判断するのは更にあり得ぬ。気だるい脳神経を活用して考えていると……酒場の扉から、さっと一筋光が走った。
それは作られた光と違う、確かな暖かさとあやふやさを兼ね備えており、同時に懐かしさすら覚える色をしている――陽光だ。夜が明けて、朝が来たのだ。
その瞬間、えもいえぬ疲れがやってきて、眠気が一段と強くなった。それを強靭な精神力で押さえ付け、我はリサの方へと視線を飛ばす。
少しの間をもって、リサと我の視線が交わった。リサは一瞬どうした、という表情をして、次に我の言外の意思に気づいたのか店の奥へと歩みを進めた。勿論、その両手にはすやすやと寝息を立てているエリーズが抱えられている。
一瞬、我は奴を抱えられるか、と考えてそれを取り消した。それを考えるのは余りに虚しすぎる。止めた方が良いだろう。
少しして、リサがエリーズを連れて出てきた。その顔には確かな光がある。問題は無かったようだな。リサの後に続いて、背の高い女が一人店の奥から出てきて、何やら深々と腰を折った。
察するに、店主代理か。
近づいたリサが、エリーズの頭をぺちぺちと揺らしながら口を開いた。
「依頼は終わり。勿論成功って意味ね。……あの女の人は店主代理の人」
「こういうものは店主が直々に顔を出すものだと思っていたが……」
「流石にあの年で毎晩起きてるわけにもいかないでしょうし、普通じゃない? むしろあたし達みたいな殆ど無名の冒険者に丁寧な扱いしてくれる方が珍しいっていうか……」
「ふむ」
そういうものか。いかんな、眠いせいで上手く頭が回らぬ。なまじ眠気を感じる機会が少ないので、極端に眠気に弱いのである。が、そこは魔王の確固たる精神で威厳を保つ。
ほんの少し空いた会話の隙間に、エリーズが目を覚ました。
「うぇー……っと?」
「エリーズ、起きて。帰ったらお昼まで寝てても良いから」
「……んー、無理……」
「ちょっと……あなたを持ってる私の手が無理なんだけど」
我に力があれば、と一瞬考えたが止めた。今すぐそれが手に入る訳でもあるまいし、大人しく腕立てをして筋力を養うしかあるまい。リサの言葉にエリーズは難色を示したが、やがて諦めたように自分の足で立った。
これからどうするのだ、と単刀直入に聞くと、リサは一瞬迷うような仕草をして、こう言った。
「あんたの宿を探すのよ。約束通り一晩泊めたし……」
「……」
「本当は今から組合に行って、そこからってやりたいんだけど……見た感じ全員もういっぱいいっぱいって感じだしね」
「分かった」
あたしの知ってるのが何軒かあるんだけど、歩き出したリサに着いていく。朝方の街道に人の影は驚くほど少なく、閑散とした空気を感じる。
朝焼けが映す町の景色は、渇いた骨のような味気なさすら感じた。それでも力強い太陽に感化されて、幾人かの人間が窓から顔を出し、一晩を月と共にしてきた者は疲れた顔に充足感を満たして我らと同様帰路に着いている。
静寂と乾きが満ちた砂漠の朝でさえ、人間はまた新しい一日に芽吹こうとしているのである。
……などと、普段よりも感傷的になっている辺り、我の眠気は相当差し迫っているようだ。どうにかその魔手から逃れるために、眠そうなリサに声をかける。
「……宿屋の食事は美味いのか」
「……んー、場所による感じ。良いところだったらそりゃ美味しいし、悪いところだったら……」
「ぬぅ……お前の料理が食えぬのは、少々不満であるな」
「え……え? ちょっと、変なこと言わないでよ」
「……?」
「いや、何であたしが変みたいになってるの?」
我としては思ったことをそのまま口にしただけだ。うまい食事が取りたい、と言うことの何が変だというのか。再三言うが、この女は料理だけならばこの我が舌鼓を打つに相応しい。
故に少々惜しいという心持ちが小さくあった。……我に対する敬意の無さはそれの比ではないが。
奇妙なリサに対して疑問を押すと、不満そうに少し早足になった。我は眠いのだが……まあ良い。宿を探すとしよう。
――――――――――
「……」
「……」
「……んー」
我ら三人は眠気眼をどうにか開いて、リサの記憶の宿屋を巡ったのだが……予想外の事態が起こった。全て断られてしまったのだ。
「……やはり我のこの高貴すぎるオーラが原因か」
「……否定したいけど……最悪ね、その通りよ」
「……全員顔が強張ってたねぇー」
我の噂はこの街に早くも浸透しているらしく、加えて我は究極的な美貌と気品が同時に内在している。宿屋の店主は全員我を見た瞬間に顔をひきつらせ、暗喩にて我の泊まれる部屋は無いと言ってくるのだ。
へりくだられ、持ち上げられるのは嫌いではないが……その結果宿屋から避けられるという結果だけが残った。
「……予定が丸潰れだわ」
「どの宿屋も、我を招き入れるのは烏滸がましいと卑下してしまうか……」
「この町で一番の宿屋とかなら二つ返事で入れてくれるんだろうけど……お金が無いわ」
「一晩金貨一枚~」
エリーズが完全に使い物にならなくなっている。幼児退行すら起こしていそうだ。が、それもなんとなく仕方ないという気持ちが湧いてくる。人の入りが大分増えてきた街道から空を見上げれば、太陽が地平線から両足をしっかりと立たせ始めている。かれこれ一時間程度、歩いては断られてを繰り返したのだ。
既に砂漠特有の透き通る熱波が我の体を炙り始めている。が、今のところどうすることもできない。この日射から逃れる場所が見つからないのだ。
リサはまさに途方に暮れたという表情でため息をついている。
「おい……他の当てはあるのか」
「……」
「……参ったな」
首を横に振るリサに思わず弱音が出てしまった。次からは気を付けよう、と心を引き締めるが、眠気がかなり限界点に近づいている。
リサもそれは同じらしく、エリーズに至っては限界二週目といったところだ。
「……こうなったら、知らない宿とかを手当たりに探してみるしかないんだけど」
「リサー……もう、良いんじゃない……? 私、眠いよ……」
「……」
「お家にコルベルトさんをもう一晩泊めてあげよう? それで眠ったら、もしかしたら何か思い付くかもしれないし」
「…………仕方無いわね」
心底嫌、といった表情をしたリサは、渋々エリーズの意見を汲み取った。どうやら、もう一晩泊めて貰えるらしい。ちらりとリサは我を値踏みするような視線で見たが、すぐに眠そうに眦を落として歩き出した。
ふらふらのエリーズがその後に続く。我もゆっくりと歩き出した。記憶の良い我は、なんとなく道を覚えてしまっている。
半分微睡みにつかりつつ、残された魔王の理性を遺憾無く発揮して、我はようやく目的へ向かって踏み出した。見覚えのある道を幾つか抜けて、疎らな人間の体を避けながら、赤い煉瓦の家へ向かう。暫くすると安堵したようなリサのため息と共に、家の前の通りに出た。
リサが体当たりをするようにして木製の扉を開き、上着を玄関に掛ける。我もそれに追従して上着を掛けると、だらんと重そうに弓を腕からぶら下げたリサがいつもの台詞を言った。
「……二階に上がったら……ぶっ殺すから」
「わかっている」
家に入ると同時に香る花の残り香が我の全身を包み、意識を混迷とさせてくる。それになんとか耐え、我は長椅子に座り込んで、同時に寝そべった。相変わらず小さいのですらりと優美な我の足が飛び出している。
背もたれを隔てて向こう側で、疲れた足音が二人分、二階へ上がっていった。
それを確認すると同時に我の瞼は重くなり、それを阻もうとする理性も諸手を上げて目を閉じたので、我は遂に何日かぶりの眠りの世界へと投げ出してしまった。
――――――――――――――
音が、聞こえる。荒々しく、耳障りな雑音が。耳元で真綿を引き裂いているような、強く叫ばれているような雑音だ。同時に、体の感覚があやふやで、悪寒のようなものを感じている。
冷たい何かに抱擁されている。そんな感覚だ。
そんな我は、必死に何かを考えていた。そんなに考えたところで、分からぬものは分からぬし、知らぬものは知らぬ。ともすれば王にふさわしく無い必死さだ。
何をそう取り乱しているのか、この感覚は何か。厚布の中を泳ぐように身をよじらせて、耳を澄ますと、耳の中の雑音が徐々に像を結んできた。
同時に、耐え難い寒さが我の体を襲う。冷たさと共に、氷塊のごとき感情が……ごとりと無遠慮に心に詰め込まれた。
「あ」
思わず溢れた声は驚くほど幼くて、それを感じると同時に――声が聞こえた。聞こえたんだ。
『君は、優しいな』
雑音の中を掻き分ける、微かな声。けれどもそれは確かに俺の鼓膜を揺らして、脳へと信号を届けている。その言葉の意味を噛み締めながら、俺は俺が何をそんなに考えてんのか、ようやく思い出してきた。
忘れられる筈が無いのに、何処かに置いてきた感情が……雑音混じりに戻ってくる。
怒りや悲しみ。憎悪や諦観。厭世や絶望。その他、名前の無いすべての感情がごった返して、俺は何かを叫んだような気がする。そこで、俺は自分の耳の中の雑音が、俺自身の叫び声だって事を理解した。
それと同時に、俺の中の何か途切れた。寒い。寒いんだ。
『許さねえッ!!! あ、あいつら全員……ブチ殺してやるッ!!!』
叫び声は、そんなことを言っていたような気がした。
―――――――――――――
「ッあ……! ……夢か」
心臓を掴まれたように跳ね起きた。同時に酸素が不規則に肺へと送られていく。不安定で煩雑な呼吸をどうにか静めながら、我は心臓に手を当てた。
驚くほど乱れきった鼓動を放つそれに一抹の情けなさを反射的に覚えたが、それらは遅れてやってきた感情たちに踏み潰されて消えてしまった。
「……」
いつものことだ。眠れば我は悪夢にうなされる。全身の毛穴から醜悪な脂汗を吹き出し、金の瞳を見開いて目覚めるのだ。故に、我は眠ることが好ましくなかった。むしろ嫌っていた。
前の世界でも、逆鱗に頼って一週間に一度の睡眠でなんとか済ませていた位だ。包み隠さず正直な事を言うと、逆鱗が欲しいのはこの為だ。
情けない悪夢を見ないように、付け加えてその他の恩恵を得るために……眠りたくない、等と子供のような事を言いたくは無いのだが、こればかりは仕方がないのだ。
普段は平静を保てていても、夢の中ばかりはそうもいかない。強靭に精神を保つことすら出来ず、濁流の中の葦のように押し流されていくのを待つのみだ。
我は……我は眠る度に心底己を情けないと思う。一時は魔法で眠りを抑制したこともあったが、反動があまりにも酷かったので止めた。
今はその魔力も逆鱗もない。無防備で悪夢の袋小路を往復せねばならぬのだ。
数分待って、ようやく呼吸が整った。額の気持ちの悪い汗を拭いながら時計を見ると、まだ数時間……三時間程しか経過していない。間違いなくリサやエリーズは眠っているだろう。
だからといって寝直すなど言語道断であるし、今の我は当然眠気などない。まっさらで新品な、それこそもう三日は眠らずにすむほど眠気が無い。憎たらしいことだがな。
「神をも屠る男が、魔王が悪夢に怯えている……情けない、情けない。あまりにも許せぬ」
魔王とは釈然とあるもの。それと同時に誉れ高く、この世で最も貴く、当たり前のように強靭であるべきだ。そうだ、そうでなくてはならぬ。
万夫不当を王道に行かねば、冷ややかな顔で下々を見下さねばならぬ……ならぬが――
「せめて、今だけは……」
我はゆっくりと己の足をすらりと伸びた健腕で抱えた。そうして、胸板と両膝の間に出来た隙間に隠れるように、顔を深く埋める。眠るわけではない。何かを祈るわけでもない。
ただ、ただ……今だけは、もう少しだけ休ませてほしいのだ。
内なる我の叱咤激励、憤怒、罵倒や怒声を聞き逃して、我は……一人になった。




