第十話 思わぬ天職
我は今、機嫌が悪い。リサの先導に続いて路地裏や街頭を抜けているが、口はへの字であるし、眉など我自身でも分かるほどしかめられている。渇いた陽光が急な角度から差し込む路地裏は好奇心の的となるものが幾つもあったが、それらを差し引いても機嫌が悪かった。
前を歩く二人がこそこそと話しているが、内容は聞かぬ。
我の機嫌が悪い理由は2つ。一つは浴場についてだ。服を纏めて脱ぎ、狭苦しい浴場に入る。そこで目に入るのはあまりにも粗末な浴場……勿論浴槽など無かった。冷たい石材の床、水の溜まった水瓶、あげくに部屋全体が暗くて陰鬱な雰囲気だ。
だが、そこまでは良いとしよう。百歩……いや、数千歩譲ってまだよしとする。……本来なら憤慨して辺り一面を爆破したい心持ちであったが、一食一夜の礼を重んずる精神が我にはあったので、歯軋りをして許した。許したのだが……それらをもってしても許されざるものがあったのだ。
「……何故、冷水なのだ……許せぬ」
限りなく小さな声で囁いた。そうなのだ。許せぬことに、この我の高貴な身を清める水が……貯めた雨水であったのだ。水瓶の上には雨水を集める樋があったので、間違いはない。そして、それらの水は途轍もなく冷たかった。暗く、狭い浴場にあった雨水である。
あんなもので我が身が清廉になることなどあり得ぬ。むしろ水の方が我の体を汚しかねんのだ。付け加えて冷水など……有無を言わさず拒否すべき物であった。こうして我は満足に身を清めることが出来ず、不機嫌なのである。
それが理解できていない様子の二人は首をかしげて我を覗き見ている。結局どうにもおかしな空気を散らしたまま、衛兵の詰所を抜けて、冒険者組合の看板を掲げる酒場にたどり着いてしまった。
明るい場所で見る酒場はこれ以上になくみすぼらしく、生意気に木材で建物を建てたばかりに木材の変形で建物自体が傾いていた。砂漠の大工に木材の変形を読む技術があると勘違いした結果なのだろうな。
リサ達は4ヶ月近くここに通っているので難なく扉をくぐり抜けていたが、その際随分と周りから不躾な視線が飛んでいた。立地や酒場の狭さを見るに、どうにも冒険者というのは狭い立場にあるようだ。それをしっかりと認識して、我も歪んだ木材の扉をくぐる。
中に入ると酒臭い……と思っていたが、朝方ということもあって埃臭いのみであった。その空気を『マシ』だと思える分、我もこの界隈に染まり始めているのやもしれぬな。
カウンター席には空っぽのグラスと無愛想な店主。テーブル席にはなんだか賑やかな冒険者四人組が居た。その内一人と目が合うと、速効で話し掛けられる。
「おぉ、コルベルト!」
「おい、気安く我の名前を呼ぶな」
「いやぁ、同僚が増えるってのは中々良いことっすね」
「……おい」
「困ったことがあったら、俺らに聞いてくだせぇ。随分と長くここでやってるんで、お助けしやすぜ」
「……」
「よろしく頼むぜ、コルベルト!」
我は無言でリサたちの背中を追った。ああいう空気は生まれてから初めてである。どうすればいいか分からなくなった……というと我が情けなく感じるので、呆れて踵を返したとしておこう。さして遠くもない背中に追い付くと、リサが若干笑いながら口を開いた。
「それじゃ、説明するわねコルベルト」
「……何故お前らはそんなに気安いのだ。何度も言うが我は……王なのだぞ?もっと敬いと礼節を――」
「はいはい」
「んふふ」
思わずため息が零れてしまった。色々言いたいことはあったが、この空気では言うにも言えまい。不服であるが黙って話を聞くこととする。我が黙したのを確認したリサは壁に掛けられたいくつもの羊皮紙を指差した。
「これは全部依頼書。読めば分かると思うけど、中身には依頼主とその住所とか、報酬とか……勿論備考とか依頼内容も書いてあるわ。ここから適当なのを一つ引っ張ってきて、マスターに渡すと依頼開始。後は依頼主の所に行って、言われた事をやるだけ。簡単でしょ?」
「依頼は早い者勝ちだし、良い依頼はすぐ取られちゃったりするから……あ、依頼の張り替えは不定期だから、偶々良い依頼が残ってる時もあるよ」
「ふむ……」
取り敢えず冒険者という職業をどのようにこなせば良いのかは分かった。案外単純というか、単純過ぎるが……冒険者の扱いは中々に雑なので、こんなものなのだろう。
さて、ここまでは良い。我も晴れ晴れと依頼を眺め、初めての依頼を手にとって店主に見せれば良いのだ。しかし――そこで一つの問題が現れた。
だが、それを口に出すことは出来ない。あまりにも情け無いのである。故に我は内心で大きく焦りながら、それを悟られぬよう堂々たる振る舞いで依頼書を眺めた。
「……」
「……」
「……えーっと?」
こんなときに限り、勘の鈍いエリーズが何かに気がついた。それを見てリサも驚いたような顔をして我を見る。……止めろ、我をそんな目で見るな。
我は大きく、ゆっくりと息を肺の奥に満たして、依頼書から目を逸らした。しばらくして、リサが気まずそうに声を掛けてくる。
「あー……もしかして……あんた、字が読めないの?」
一瞬、この世界の文字は読めないのだ、と言い訳をしようとしたが、そもそも前の世界の文字も読むことが出来ぬ。どちらにせよ馬鹿にされることは避けられない。と、なれば真実を口にするのがまだ誇りを傷つけないであろう。そんな打算を脳裏で交わし、我は重い唇を開いた。
「……暇な時間が、無かったのだ」
「えーっと……大丈夫だよ。その、字が読めない人って結構居るし」
「……貴様らは読めるのか」
「あ……うん」
信じられぬ。品性を軽微であるが感じるエリーズはまだしも、品格の欠片も感じられぬリサでさえ、文字が読めるというのか。同時に、この中で文字が読めないのは我だけ、ということになる。
散々魔王だ高貴な血族だと言っておいて、一番教養が欠けているのは我だというのは……あまりにも受け入れがたく、出来ることならばこの街を地図から消してしまいたいという羞恥に駆られる。
痛ましい沈黙が満ちた我らであったが、そこに助け船を出すようにリサが口を開いた。
「あんた、もしかして本当に記憶喪失だったりしない?」
「そんな訳があるか。我は我が生まれてから、今この一瞬までの全てを記憶している」
「……」
訂正しよう。助け船ではなくただの罵倒であった。王であること以前に、健全な精神であるかどうかさえ疑われかけている。強くそれらを否定したが、リサは変わらず怪訝な様子であった。
一瞬で安易に口を開けない空気感となり、当然という顔をした沈黙が我らの真ん中に立ち尽くした。
が、それを打ち倒したのは、意外なことにエリーズであった。沈黙に対して、最早見慣れた苦笑いで依頼の束にちらりと視線を向けると、驚いたような顔で声を上げたのだ。
「……あ」
「どうしたの?」
「……うーん、この依頼……」
「これ?」
「うん」
どうやら一つの依頼が目に入ったらしい。確か冒険者の収入源である依頼は早い者勝ちだそうだから、こんな状況でも見つけた端に確保するのは当たり前であるな。……その依頼内容を理解できない我からすれば多少の疎外感を覚えざるを得ないが、気まずい沈黙が続くことよりは良いので、読めている体で依頼書を覗き込む。
……まあ、当然読めぬな。魔王である我は戦いと政治に明け暮れていたので、あまり娯楽や教養に触れることが出来なかった。気を休められる時がなかったのである。出来ることならば勉学に励み、内なる教養を鍛えて、王に相応しい知識を披露してみたかったのだが……うむ。
我の装いは気高く美しいので、凛とした表情で分厚い蔵書を読み込んでいれば誰しもが魅了されてしまうに違いない。……問題はその本の内容が学術書などではなく、簡単な数字や単語をまとめた教科書であるという点だな。それではあまりにも格好がつかないのである。
こそこそと一人で学びを深められるほど立場が軽いわけでもなく、更に言えば文字を勉強している姿を配下に晒せるほど低い抒持を背負っている訳でもない。
故にこそ、こういったところで恥を晒している訳だが、今更誰に教えを乞えるというのか。
誰にも気付かれぬようにため息を吐くと、目の前の二人がゆっくりと振り返って我の顔を見た。続いて服装、肉体を。うむ?これはもしや、己の過ちに気がつき、同時に我の荘厳な雰囲気にひれ伏したくなったのではないか?
「……いけそう」
「うん。私もそう思う」
「本当に……見た目だけは強そうだからね」
「実際に中身も神話級であるぞ」
「はいはい」
軽くあしらわれてしまった。相変わらずムカつく女だ、と思っていると、エリーズが看板から一枚の羊皮紙を掴み、我に見せた。随分と手慣れた所作に、少しばかりの年季を感じる。
見せられた依頼書からは、ほんの少しの糊の匂いと、黴臭さがあった。
「……これは何の依頼だ」
端的に聞くと、エリーズはにこりと満面に笑って、間延びした声で言った。
「酒場の用心棒の依頼ー」
「……成る程、読めたぞ」
「あんた、見た目だけならそんじょそこらの騎士とか目じゃないからね。勿論、見た目だけなら」
「二度言う必要性はあったのか」
「言わないと調子に乗るでしょ」
「まぁまぁ、依頼の話をしようよ。コルベルトさんの初めての依頼なんだし」
遂に素直になったなこの女、と思っていたらむしろ馬鹿にされた。……こいつの言葉の九割は信じられぬな。エリーズの声に目をやると、よくわからないがワクワクした様子で依頼の内容を伝えてきた。
依頼主は『魔術のアロエ』という酒場の店主。最近随分と酔っ払いや破落戸が店に入って品を下げているらしい。店主が高齢で、従業員にも戦いの心得を持つものは居ないらしく、こうして冒険者組合を頼ったようだ。
依頼内容はエリーズが口にした通り酒場の用心棒を務め、面倒な客を追い返せば良いらしい。
報酬は一晩……日が沈んでから登るまでで銀貨九十枚。仕事の様子によっては追加報酬もあるらしい。二人が受けていた遺跡の調査に比べて割高だが、この魔術のアロエという店はそこそこ名前の聞く良い店だそうで、金に余裕があるのであろう。
ならばどうして衛兵を頼らないのか、と二人に尋ねると、衛兵は法外行為が起きた『後』に動くのだそうで、付け加えると酒場の護衛など雑用のようなことは我ら冒険者の仕事である、とのことだった。
それは随分と頭が幸せであるな、と言うと、珍しく女二人が笑った。真面目に言ったのだが……まあ、良い。とにかく我はこの二人の案内で店に行き、うるさい阿呆を店から摘まみ出せば良いのだ。それで路銀が稼げるなど、随分と旨味のある話である。
正直銀貨九十枚がこの世界でどの程度の価値を持つかは知らぬが、エリーズの口振りから察するにそこそこ纏まった金額のようだ。
依頼の確認が済むと、続いてここの店主に依頼を渡しに行った。よくわからんが、昨日貰った木の札と依頼書を渡せば良いらしい。が、ここで少し出来事があった。
それは店主の渇いた唇から発せられた一言である。
「……お前達は、パーティーを組んで仕事を受けるのか」
「パーティーとはなんだ」
「え……組みませんよ」
「え、リサ、組まないの?」
「え、ちょっと待って? 逆に組むの?」
「おい、質問に答えろ」
「……組むのか、組まないのか。書類に名前が増えるか減るかぐらいはっきりさせろ」
なんだ、パーティーとは。組むということばから推察して行動を共にする集団、ということであろうか。そうであればその申し出を断ることなどあり得ぬであろうし……謎である。
ならば保険のようなものか、と考えるとすべてが当てはまった。この我の依頼に保険など当然不要であるし、即答で断るであろう。
そんなことを思っていると、店主が呟くように我に説明をこぼした。
「依頼を三人で組むか、一人でやるか。そういうことだ」
「ば、馬鹿な……」
即答で断られただと? あり得ぬ……。驚愕を胸にリサへと目を向けると、リサはエリーズと言い争いをしているようだった。内容は勿論我のことである。
「組む意味ないでしょ? 流石に案内と補助くらいはしてあげても良いけど……」
「私、てっきり三人で依頼すると思って選んだし……それに、案内と補助って、それほとんどパーティー組んでるのと変わらないと思う……」
「確かにそれはそうだけど、よく考えてよ。パーティーを組んだらあたし達は報酬を山分け……ってことは、あの金髪の分の報酬が減るの」
「でも、勝手に用心棒なんて私達じゃ出来ない依頼を決めて、それじゃあさようならって……酷いんじゃないかなって」
「組まないで案内して、ちょっと様子見て大丈夫そうだったら帰る、くらいでいいでしょ。あたしたちもただで働く訳にはいかないんだし」
なんだかよくわからないことを話しているな。どうして我が居ない所で我の話をするのだ。我がどうするかは我が決めるのだ。勝手に決められては困る。
だが、こう言うときにどういった台詞を吐けば良いのかは分からぬ。分からぬので、思ったままの事を口に出した。
「おい」
「ん?どうしたの金髪?」
「金髪は止めろ。まあ、それは置くとして……お前らは我と組まぬのか」
「まあ……特に何もせずちょっと見てるだけであんたの報酬半分近く取るわけにはいかないし」
「報酬云々はどうでも良い。我ほど伸び代があれば金など幾らでも増やせるであろうからな。その上で言うが、我もお前ら二人と行く前提で依頼を受けると決めたのだ」
リサは一瞬呆れ顔になって、続いていきなり熱いものに触れたような顔になった。そんなに驚かれても困るな。むしろこちらが不思議だ。その気持ちを全面に出しながら、我は言葉を続けた。
「何しろ今の我はお前らの知るように……ああ、貧弱である。もし乱闘騒ぎになってみろ。我は確実に無傷だが止めることは出来ぬ。……心底情けない上、こんな台詞を吐くだけで寒気がするが――我に着いてこい。金ならやる」
「……ほらほら、リサ。コルベルトさんがそう言ってるんだし……何か言ってあげたら?」
リサと同じく驚いていたエリーズが、原因不明ににんまりとした笑顔を浮かべてリサの横腹を肘でつついた。リサは戸惑うように考え込んで、我を見、そして諦めたようにため息を付いた。
「……仕方ないわ。……一回だけね」
こうして我は、素性の知れない女二人と初めてのパーティーを組むことになった。




