第二話 濡れた少女
「お前、なんでそんなに濡れてんだ?」
そう言って僕は何となく小鳥居の机と椅子を一瞥した。机の上には三限に配られた生徒手帳が一つと、スクールバッグが置かれている。スクールバッグのチャックは開いており、一限に購入した教科書類が詰め込まれていた。
椅子の上には机に置ききれなかった分のプリントが二、三枚置かれており、特に気になる代物は置いていない。教室の後ろの生徒用フックにも何も掛けられておらず、僕は再び小鳥居に視線を移す。無表情の小鳥居の眉が少しだけ動いた気がした。そして、抑揚のない声で答える。
「雨よ。雨に濡れたの」
「雨……。ほんとにそうか?」
「……どういうこと?」
「今日雨が降ったのは二限目、スポレクの途中からだ。他に外に出る授業はないから、雨に濡れたとなるとその時間帯だけ。でもおかしいよな、だって……」
僕が全部言い切る前に、小鳥居は呆れたと言わんばかりの声と、眠そうな目をさらに細めながら言った。
「体操着に着替えていたはず。そう言いたいんでしょ?」
そう、スポレクは体育の授業という扱いになるはずだ。僕も体育館でドッジボールを行った時に体操着に着替えていたし、小鳥居の所属するA組もグラウンドでスポレクをやっていたのなら、体操着に着替えるのは必然的だろう。つまり二限の途中から降り出した雨が原因というのなら、その時間に着ているはずのない制服が濡れる訳が無い。
なんだか心が見透かされているみたいで癪だったが、僕は黙って首を縦に振った。
「なあ小鳥居。こんな事は言いたくないんだけど、僕はあんまりお前が人に好かれそうに見えないんだ」
「言ったね。言いたくないこと」
「こういうのって決まり文句だろ?ほんとに言いたくなかったら言わないさ」
「なら津雲くん。言いたくないんだけど、あなたってデリカシーがなくてモテなそうね」
「言い返さなくていいんだよ!」
なんだコイツ、調子狂うな。小鳥居ってこんなにめんどくさい奴だったっけ。僕はわざとらしく咳払いをし、小鳥居に向き直る。やはり彼女は無表情で、何を考えてるかはさっぱり分からない。しかし、半開きの瞳だけはしっかりと僕を捉えていた。どこか形而上的なその瞳を、僕も見つめ返す。
「小鳥居。何かあったら言えよ?これでも中学三年間の仲だろう?」
「あんまり言葉を交わした記憶はないけどね。ああ、勘違いしてるようだけど、多分あなたの予想はハズレ」
「なに?」
「あなた私に『あまり人に好かれそうにない』って言ったわね?言い換えれば、人に恨まれそうってことでしょ?つまり私が濡れてる理由は、クラスメイトに水をかけられた」
「そこまでは言ってない。被害妄想だ。でも、僕の予想は大体合ってる」
「被害妄想じゃないわ。実際私、結構人に恨まれるの」
「自分で言うのか……」
「虚勢張ったって仕方ないし。この性格だし、この見た目だし、私みたいな人が厄介者扱いされるのは自然の摂理みたいなものよ」
小鳥居はこめかみ辺りから伸びる三つ編みをいじりながら、視線を僕から窓の外にずらす。そして窓の鍵をガチャりと開けた。
「でも、さすがに入学して二日目でクラスの人に恨まれたりはしてない。私が濡れてる理由は……」
ガラッ!という音と共に窓が開かれ、そよ風が教室内に侵入してきた。小鳥居の椅子の上に置かれているプリントが滑り落ちたので、僕はそれを拾い上げて椅子の上に戻す。
「さっきも言った通り雨。二限の途中から三限の途中まで降ってたでしょ?それで濡れたの。私達のスポーツレクリエーションはグラウンドで鬼ごっこだったから」
「けど、それじゃぁ辻褄が合わないだろ。今お前が着てるのはなんだ?」
「津雲くんの学ラン」
「違う。その下だ」
「下着。ブラとショーツ」
「……おちょくってるのか?」
「ふふ」
僕が怪訝な顔で言うと、小鳥居は初めてクスリと笑った。
三年間、僕はあまり……いや、一度も彼女の笑顔を見たことがなかったのかもしれない。雨上がりの晴天に淡く照らされた小鳥居の笑顔は、どこか幻想的で、僕は自分の頬が熱くなるのを感じた。
小鳥居はそんな僕の事なんか気にもせず、続ける。
「そうね。セーラー服。学校指定のね」
「そうだ。お前さっき言ったよな?もしスポレクの時に濡れたのなら、制服が濡れてるのはおかしいんだよ。みんな体操着に着替えるはずなんだからな」
小鳥居は僕の言葉に耳を貸しつつ、萌え袖になっている余った学ランの袖を折り始める。七分袖辺りまで折ったところで、『暖かい』ともう一度呟き僕に向き直った。
マイペースだな……この女……。
「つまり僕が思うに、小鳥居が濡れたのは三限のあと。つまり原因は雨じゃあない。帰りのHRが終わって、僕と会うまでの時間だ。二限と三限の間も考えられるけど、体操着から制服に着替え直すのに時間がかかるし、制服に戻ったあと外に出る理由もない。お前が今体操着で、二限のスポレクの時に降った大雨でこんなに濡れちゃったって言うのなら納得出来るけど、お前はいま制服だ。小鳥居、強がるのよそう。今から先生に相談すれば……」
「しつこい。水をかけられたわけじゃないって、さっきも言ったじゃない。それにあなたの推理……穴があるわよ。名探偵さん」
「なんだって?」
「津雲くん。どうしてあなた私が体操着を忘れた、という結論に辿り着かないのかしら?」
体操着を……忘れただって?
そうか……。小鳥居の机の上に置かれてるのは一限に購入した教科書類が詰め込まれたスクールバッグと生徒手帳。椅子の上には机に置ききれなかった分のプリント。教室の後ろの生徒用フックにも、一つも体操着袋らしきものは掛けられていなかった。体操着は雨で濡れたはずだから、二限の時のスポレクで着ていた生徒は全員持ち帰ってるはずだ。この教室に残っているのは小鳥居一人、つまりフックに何もかけられていないということは……。
「そうか……なるほど……そうかあ……」
「やっと分かった。それに、濡らされたって言っても、一体どこで濡らされたのかしら?全身をここまで塗らさせる手段と言えばバケツが最有力候補だけれど、ここでバケツを使ったのなら床が水浸しになるはずじゃない?床はそこまで濡れてないわ。トイレの個室でって選択肢もあるけど、女子トイレにはバケツもホースもないもの。みにくる?」
「僕を犯罪者予備軍にしないでくれ」
小鳥居は親指を立てながら言う。
「あら、今ならほとんどの生徒も帰宅してるし、バレないと思うよ。犯罪はバレなきゃ犯罪じゃない。私も男子トイレみてみたいの、案内してくれるかしら」
「怖いことを言うな!する訳ないだろ!!」
「ああ、別に本物の小便器を近くで見たいってだけで、津雲くん自体に興味はないわ。ええ」
小鳥居の弁は無視。
自分の予想……いや、推理が外れていた事に僕は大きく肩を落とした。今のは我ながら冴えていたとは思ったけど……。
「ってことは小鳥居お前……」
「ええ。私、制服のままスポレクに参加したの。だから雨ですぶ濡れ」
「……馬鹿なのか?いや馬鹿だろ」
「失礼ね。スポレクはクラスの親睦会よ。私、花の女子高生生活のスタートを無下にしたくないもの。まあずぶ濡れで椅子に座りながら三限目の授業を受けたのは、ちょっとだけ恥ずかしかったけど」
小鳥居は細い人差し指を口元にあて、片目を瞑り、首を竦めながら軽く笑ってみせた。僕は小鳥居の事をよくは知らないけど、どうも小鳥居らしくない理由と仕草だ。
でも、やっぱり僕は小鳥居の事は分からない。僕が小鳥居に抱いてるのは外見から察するイメージで、本当はもっと『今日はカラオケオール卍卍』みたいな人物なのかも。
それはないかな。うん、ないな。
「意外にみんな心配してくれたわ。『濡れたままで大丈夫?』とか、『早く乾かした方がいいよ』とか」
「いい奴らだな」
「ええ、まあ乾かす手段なんて無かったんだけど。それじゃぁそろそろ帰ろ?」
「え」
「帰るの、いや?」
小鳥居は少しだけ不安そうな目をしながら首をかしげる。仕方ないじゃないか、生まれて此方十五年女子と二人で帰ったことなどないのだ。でも僕は腕を組みながら、見栄を張った。
「嫌じゃないけど。てか学ラン返せ」
「嫌よ。家まで送ってって。そしたら返してあげる」
そう言いながら小鳥居はスクールバッグの中に机の上にある生徒手帳を放り込んだ。
椅子の上に置いてあるプリントも拾い上げ、二枚折にしてスクールバッグに入れる。
廊下は既に賑やかになっており、これから授業を始める後半クラスのDEF組が登校し始めている。僕と小鳥居はそそくさ教室を後にし、A組のすぐ隣の廊下を一気に下りた。
一年の昇降口は階段から降りた直ぐにあり、昇降口から出ると目の前の七、八メートル先にグラウンドの入口がある。そしてさらに校舎に沿って左右にコンクリートの道が続き、左が体育館もある裏門、右が正門の道へと繋がっているのだ。
僕のB組と小鳥居のA組は下駄箱が隣同士で、僕らは並んで買ったばかりで汚れのないエナメル質のローファーに履き替えた。
昇降口から出ると、そこは少しだけスペースが出来ており、数メートル先の地続きでグラウンドに入る事が出来る。グラウンドは雨で充分に濡れ水溜まりも多く出来ており、練習をしている運動部の姿も見えない。流石にこのグラウンドのコンディションでは、練習もままならないだろうな。
雲一つない青空に浮かぶ太陽は僕ら二人を照らした。気持ち悪い暑さじゃない。心地よいスッキリとした暑さだ。
僕は隣で無表情を崩さず空を眺める小鳥居を見た。こめかみから垂れる三つ編みは、既に乾ききっていた。
「じゃあ津雲くん。ここで学ランは返すわ」
「帰るんじゃなかったのか?」
「津雲くんが帰るのよ。私はよるところがあるの。先に帰ってて」
「寄るところ?どこだ?」
「どこでもいいでしょ。プライバシーよ。それより津雲くん、あなたはこれから帰るんでしょ?」
「プライバシーだ」
「帰るのね」
「なにも言ってないだろ……」
「私を送ってってくれるって話だったから。用事があるのなら、そんな事はしないと思ったの」
コイツは俺を弄んでいるのか?この純粋な高一男子を。
小鳥居は僕の学ランを脱いで、僕に渡してくる。やはり少しだけ湿っていた。はぁ……やっぱり貸すべきじゃなかった。
「それじゃぁね、また機会があれば話そ」
「ああ」
小鳥居は踵を返し、裏門の方へ歩いていく。僕はその後ろ姿を眺めていた。全く少しは乾いたとはいえ、まだ全身が濡れてるじゃないか。……風邪ひくなよ?
ふと、時間が止まったように感じた。
待てよ……何かおかしい。小鳥居の制服が濡れていたのは制服のままスポレクをやったから。それでその件は終わったはずだ……でも、どこかが……。
今までの記憶が、推測が、脳内を駆け巡った。
違う……おかしいのは制服じゃない。
「小鳥居」
無意識に彼女の名を呼んだ。
小鳥居は振り向く。
「どしたの?」
「どこへ行く気だ」
「言う必要あるかしら?」
「なら吐かせてやる」
僕はより一層強い目付きで、彼女を捉えた。彼女も僕を、あの形而上的な瞳で眺める。僕らの視線がぶつかり合い、口を開く。
「お前、三限目の授業出てないだろ」