第一話 津雲夕日と小鳥居出雲
ミステリージャンルにおいての処女作です。是非お楽しみ下さい。
放課後の教室に取り残されたのが自分だけだと気づいたのは、少しだけ開かれた教室の窓から侵入した風でカーテンが揺れた時だった。放課後というのは少しだけ不思議な雰囲気で、いつも何気なく過ごしている教室でさえ神秘的に感じる。
開かれた窓の外に目をやると、二限の途中から降り出した雨が嘘だったかのように止んでいた。今朝のお天気お姉さんによると、今日は終日まで晴れが続く予報だったのだが。
しかし今の空は予報通りだった。雲は僕の視界には一つも浮かんでおらず、澄んだ青色で満たされている。
四月六日、月曜日。先週の金曜日に僕、《津雲夕日》はこの“大ノ宮高校”に入学を果たした。僕のクラスは一年B組で、クラスメイト達がどんな人間かも分かってはいないけど、出来るだけ荒っぽい連中とは距離を置こうと考えている。
というのも別にそういう人間を揶揄してる訳でもなくて、僕自身が大人しい人間だと自分自身で理解しているから出る結論だ。自己分析なら誰よりも秀でている自信はあるし、身の丈に合ってない事をやっても仕方がない。
今日は一年生のABCクラスはどこも午前中で授業を終える手筈になっている。一限には三クラスが体育館で教科書の購入。二限にはクラスの親睦を深める為のスポーツレクリエーション。A組はグラウンドで鬼ごっこ、僕の所属するB組は体育館でドッジボール、C組はクラスでハンカチ落としだったか、フルーツバスケットをやったとか、そんな話を風の噂で聞いた。実際に何をやっていたかは知らない。まだ入学して二日目だし、僕は情報通では無いのだ。
そして三限はクラスでのHR。生徒手帳が配られ校則や各授業の担任の確認を済ませた。僕は仲のいい連中となら悪ふざけもするけど、それだって常識の範疇だ。わざわざ生徒手帳を開いて、『なるほどこういう校則があるのか、ふむふむ気をつけなければならんな』なんて考える必要も無い。しかし入学早々担任の話を聞かずに机に突っ伏すなんて事は出来なかったから、僕は義理で生徒手帳を開いて、担任の話に耳を貸していた。
生徒手帳の中身は実に質素なものだ。高校生になったからと言って校則が緩やかになった訳でもなければ、とりわけ厳しくなったわけでもない。バイトの掛け持ち禁止、運動靴またはスニーカー以外の靴でグラウンドへの出入り禁止、部活への入部の強要の禁止などで、予想通り僕には特に関係の無いものばかりだった。
ただ学内の施設は中学よりもしっかりと出来ており、中学なら教室を使って体操着に着替えていた訳だが、高校には男女別の更衣室が割り当てられている。極めつけにはシャワーとドライヤーもしっかりと備え付けられており、二限のスポレクが終わって更衣室に戻った時には、なんとも不幸な大雨に遭ったA組の男子達が下着や髪をドライヤーで乾かしていたのも記憶に新しい。
ちなみに残りのDEF組は午後からの登校で、これから六限まで僕らと同じスケジュールを送るのだろう。
二限に降り出した予報外の雨も三限の途中にはピタリと止み、傘を持ってきていなかった生徒も安堵の表情を浮かべていたのも覚えている。
僕は無人になった教室を一瞥し、机に掛けられている赤色のリュックサックを背負った。黒板と反対方向の壁には各生徒用のフックが備え付けられており、僕はフックからスポレクで使った体操着を取り外して肩にかけたが、直ぐにフックに掛け戻した。別に一回着たくらいで洗う必要もなかろう。汗もかいてないし。
後ろのドアから廊下に出ると、やはり一年生のフロアに残っていたのは僕だけのようで、ボーッとして皆が帰ってるのにも気づかなかった自分を心の中で『なに柄にもなく考え事なんてしてたんだ、このとんちき!』と罵った。
深くため息をつき、僕は足を進ませた。すると、僕は聞き覚えのある声に呼び止められた。
「こんにちは、津雲くん。あなたも大ノ宮だったの」
僕は突然かけられた声に思わずぎょっとして、体ごと後ろを振り向いた。しかし、誰もいない。いやでも確かに“あの子”の声は聞こえたし……。ま、まさか……!
「こっち」
僕は直ぐに下らない妄想を取り消し、今度は間違えずに左を向く。教室のドアが開いている。隣のクラスのA組だ。
声の主は僕の思った通りだった。教室の一番後ろの窓際の席の前に立つ彼女に、僕は言葉を返す。
「僕もお前がこの高校だって知らなかったな。小鳥居」
小鳥居出雲。中学では三年間同じクラスではあったが、言葉を交わした記憶は余りない。
髪は漆のように黒いボブカット。こめかみの上辺りから伸びる髪の一部が三つ編みに施されて垂れ下がっており、前髪は眉辺りでパッツンと切られていた。眠そうな半開きの瞳、血色のいい唇に小さい鼻。全体的に体の線が細く、身長も女子高生にしては少しだけ小さい方かもしれない。
今の感想だけでは『清楚で可愛い女の子』というイメージが浮かぶだろうが、実際に見た小鳥居は『地味な根暗女』という形容の仕方の方が正しい。
僕は少しだけ迷った。話しかけてきたのは向こうだが、僕らは決して楽しく世間話をするような仲ではない。今だって小鳥居は『中学時代三年間クラスが一緒だった人物』という建前のもと話しかけてきたに違いない。
だが彼女は僕の考えとは裏腹に、口を開いた。
「タオル、持ってない?」
「タオル?……ってうわぁぁ!!」
僕は何の気も無しに教室に入り、彼女の話を聞こうとしたが、それが間違いだったことに気づいた。咄嗟に彼女から視線を逸らす。
遠目では気づかなかったが、小鳥居の体はびっしょりと濡れていた。バケツを被ったとまでは行かないが、髪もスカートもセーラー服も隙間なく濡れている。セーラー服が体に張り付き、小鳥居の白い肌が見える。視線を上半身に向けると、青い下着が透けて見えた。これはまずい。
「うん。だからタオル持ってるなら貸してくれない?洗って返すわ」
「そんな事より前を隠せ前を!」
「別に、見られたっていい。そんなことよりタオル」
「俺がよくないんだよ!」
「むう……。仕方ないな」
小鳥居は『やれやれ、とんだ青いガキだぜ』とでも言わばかりに、俺の学ランを指さす。今日は朝から暑かったので、脱いでいたのだ。
「貸して」
「なんでずぶ濡れの奴に服をかさにゃならん」
「別に貸してくれなくてもいい。私が風邪をひいてもいいのなら、私の下着を見たいのなら、私の……くちゅん!むじゅ……」
可愛らしいくしゃみ。
「分かった、分かったよ。貸すよ、貸せばいいんだろ?ちなみにタオルは持ってないからな」
「ありがと。タオルはもういいわ。この学ランで拭くから」
「お前なあ……」
「洗って返すわ」
「洗えねぇよ。馬鹿か」
俺の学ランを羽織った小鳥居。やはり少しだけサイズが大きいのか、自然に萌え袖になり、学ランの襟の部分で首から顔の三分の一程度が埋もれてしまっている。これは可愛い……のか?
相変わらず喜怒哀楽がハッキリとしない無表情のまま、小鳥居は小声で言う。
「暖かい。津雲くん、いい匂いね」
「そりゃどーも。てか匂い嗅ぐな。それで?」
「それで……なに?」
「訳を聞こうか」
「これのこと?」
「ああそうだ」
「……別にあなたの学ランの匂いを嗅いだのに深い意味はないわ。期待してたのならごめんね、別に好きとかそういう意味じゃな……」
「違う!!そっちじゃない!!」
思わず大声でツッコんでしまった。
コイツ天然なのか?俺を馬鹿にしてんのか?てか首傾げながら答えるな。ちょっと可愛いじゃないか。
俺は小鳥居を指さしながら、先刻からの疑問を口にした。
「どうしてそんなに濡れてんだよ」