夜の訪問者
呼び鈴は、一度だけ。
賢人が黙って立ち上がり、玄関へ向かった。誰が来たのかを不思議がることもなく、まるで、その人物が来ることが判っていたかのようだ。
廊下の向こうで、小声で遣り取りするのが聞こえる。
一人はもちろん賢人の声だ。
そしてもう一人は――
(え?)
聖人は一瞬耳を疑った。
もう一人の声は少女――蛍のものだ。
(なんでこんな時間に?)
若干の狼狽を抱きつつ、聖人はリビングの入り口を見つめて待つ。
重い足音に続く、ほとんど聞こえないような軽い足音。
賢人の後から入ってきた蛍は、ソファに座っている聖人を見て一瞬動きを止めた。
「お兄ちゃん?」
蛍が、大きな目をぱちりとしばたたかせる。
「どうしているの?」
「いちゃ悪いか?」
ムッと睨み付けた聖人に、蛍は束の間目を丸くし、そして蕾がほどけるように笑った。
「ううん、うれしい」
その一言が心の底からのものであるということが否が応でも伝わってきて、あまりにあけすけな彼女に聖人は毒気を抜かれる。思わず唇を引き結んだ彼に、蛍は小首をかしげた。
「あのね、お母さんが帰ってくるまでいさせて欲しいのだけど、いい?」
その言葉に、聖人は内心眉をひそめた。
彼がこの家にいた頃、蛍は必ず八時には帰っていた。家に恵子がいようがいまいが、関係なく。
そのルールが、いつから変わったのだろう。
夜遅い時間に蛍が賢人や優人――彼女に相応しい相手と過ごしているということに、聖人の胸の底にモヤモヤとした不快なものがわだかまる。
弟たちに不満や不信があるわけではない。賢人は軽いし優人はくそ真面目だが、どちらも、それなりにいい奴だ。蛍を任せられるかと問われれば、うなずける。
うなずけるが。
ただ、その状況を考えると、ムカつく。
「あの、お兄ちゃん?」
身体の前で組んだ蛍の両手に、わずかに力がこもるのが見て取れた。聖人は自分の反応が彼女を怯ませたことに気づく。
「別に、構わない。おいで」
意識して表情をやわらげそう声をかけた途端に、パッと蛍の顔が明るくなった。
いつもながら些細な自分の言動が彼女に与える影響の大きさに、聖人の胸が微かにざわめく。それは、とりもなおさず蛍の中の彼の存在の大きさを反映しているように思えたから。
(たく、そんなふうに思う権利はないだろ)
疼くこめかみを揉んだ聖人の耳に、能天気この上ない賢人の声が割り込んでくる。
「おっと九時だよ、オレ、彼女に電話しないと! 一分でも遅れたら彼女寝ちゃうんだよ。じゃあな!」
一方的にまくしたてると、賢人は慌ただしく二階に上がっていった。
蛍は彼を見送って階段を見上げていたが、バタンとドアが閉まる音でその目を聖人に戻す。彼女は聖人と目が合うと、どこかためらいがちに微笑んだ。
「えっと、隣、座っていい?」
聖人は、一瞬、返事に詰まった。
隣は、まずい。だが、拒むのは不自然だ。
声で答える代わりに、彼は自分の横をポンと叩いた。
許可を得て、蛍は笑みを明るくして聖人の方にやってくる。
ほとんど足音を立てずに駆け寄ってきたかと思うと、彼女はストンとソファに腰を下ろした。シートの上に脚を引き上げて抱え込み、丸くなる。
(ちょっと、待て)
近い。
蛍はピタリと――それこそ紙一枚入る隙間もないほどピタリと聖人に身を寄せている。
蛍の側の聖人の腕はソファの背もたれに置いてしまっていたから、ほんの少しでもそれを下げれば彼女の肩を抱く形になってしまう。その状況に気付くと同時に、ビシリと、彼の僧帽筋から先が固まった。
隣に来てもいいとは言ったが、近過ぎる。グッと息を吸い込んだ瞬間、風呂に入った後なのか、いつもよりも少し濃く、甘く柔らかな香りが彼の鼻先をくすぐった。
(やばい)
理性と自制心と判断力が、揺らぐ。
テレビでは別のバラエティ番組が始まったが、まったく目にも耳にも入っては来ない。
聖人は、ソファの背もたれを握り締め、自分を取り戻そうと脳みそをフル回転させた。
(何か、別のことを考えろ)
もっと、頭が冷えるようなことを。
彼のアパートに来ているときは、翔がいるせいもあるのか、蛍がこんなに傍に寄って来ることはない。舘家にいる気の緩みか、それとも、普段賢人や優人にはこの距離感でいるのか。
そう考えると――気に入らない。
ムゥと、聖人は思いきり眉間にしわを寄せた。
と、ポツリと、声が。
「やっぱり、お兄ちゃんがこのお家にいるのって、いいな」
思わずそちらに目を落とすと、膝に顔を埋めた蛍が目だけでチラリと彼を見上げてきた。
「すぐ逢えるところにいて欲しいって、思っちゃうの」
それって、わがままだよね。
聖人の耳に届くかどうかという声でそうつぶやいて、蛍は視線を自分のつま先に落とす。
聖人に見えるのはうつむいた彼女のつむじだけだ。どんな顔をしているのかは、見えない。だが、その表情を読み取れなくとも、その声だけで何かがあるということは伝わってきた。
(もしかして、さっき賢人が何か言いかけたことと関係があるのか?)
「蛍」
呼びかけると、一呼吸分ほど置いてから、彼女が顔を上げる。
「何?」
軽く首をかしげて聖人を見上げてくる蛍は、いつもと変わらない。いつもと変わらず、無垢そのものだ。彼のことを、信頼しきっている。
元から大きな蛍の目は何かを問いかけているかのようにわずかに見開かれ、桜色の小さな唇は薄っすらと開かれている。ふっくらと丸い頬が、聖人の手を誘った。
背もたれに乗せていた手が勝手に動き、蛍の頬にかかる髪をそっとすくう。指の背で触れた柔らかな肌は、温かかった。
まずいな。
頭の片隅でそう思ったが、その思考は全く意味を成さずに指は蛍の頬を辿る。
無意識のうちに伸ばした指の腹が、彼女の唇の端に触れた時。
「お兄ちゃん?」
不思議そうに呼ばれ、その瞬間、聖人は正気に返った。
熱湯に指を突っ込んだ時よりも素早く手を跳ね上げ、背もたれの裏に落とす。
(くそ)
あんなふうに触れるとは、自分はいったい何を考えていたのか。
聖人は己を罵ったが、答えは明白だ。
――何も、考えていなかった。何一つ。
狼狽した聖人の頭からは、それまで蛍に尋ねようとしていたことがすっぽりと抜けてしまう。今の自分の行動の言い訳を考えることに脳みその百パーセントをつぎ込んで、それでもうまい言葉が出てこない。
「あ――……」
とにかく、何か言おう。
そう思って口を開きかけたところで、小鳥の鳴き声のような電子音が響く。
動いたのは、蛍だった。
固まる聖人の横で彼女は上着のポケットを探ってスマホを取り出し、操作する。
「あ、お母さんだ。わたし、帰ります」
屈託なく笑う蛍は、たった今聖人がしでかした失態に気付いた様子はない。するりと立ち上がった彼女に、聖人は手を握り込んで平静を装う。
「ああ。送るよ」
彼の言葉に蛍は束の間目を丸くして、そして、笑った。
「だいじょうぶ。隣だよ?」
そう返して、蛍は聖人が立ち上がる暇も与えず玄関へ行ってしまった。
一人リビングに取り残されて、聖人は背もたれに寄り掛かり天井を仰ぐ。
テレビが発する空々しい笑いが気に障って、リモコンを操作し彼は八つ当たり気味にソファの隅に放り投げた。
一転静まり返った部屋の中に、聖人は重いため息を吐き出す。そうしながら、彼は左手を――蛍に触れた手を――持ち上げ見つめた。まだ、そこに彼女の感触が残っている。
「少し油断すると、これか」
唸るように呟いた独り言に、思いがけず応答が入った。
「これって?」
聖人はビクリと跳ね起き、リビングの入り口を振り返る。そこにはいつの間に下りてきていたのか、ドア枠に寄り掛かるようにして賢人が立っていた。
「電話はどうしたんだよ」
「彼女、十五分しか時間くれないから」
ヘラッと笑いながら入ってきた賢人は、蛍が来るまで座っていた席にドサリと腰を下ろす。
「で、『これ』って何なの?」
「何でもねぇよ」
賢人の追及に聖人がむっつりと答えると、弟はチェシャ猫のような人を喰った笑みを浮かべた。
「ふぅん」
ニヤニヤ笑いが実に腹立たしい。
煽り気味に見下ろしてくる賢人を睨み付けつつ、聖人は彼に問いを投げ返す。
「それより、蛍はいつもこんな遅くに来るのか?」
その言葉に、賢人のにやけ面がふと真面目なものになった。
「最近、時々来るんだ。……ちょうど、恵子さんに彼氏ができた頃くらいからかな」
「彼氏?」
「ああ。恵子さんより年下っぽくて、見た目は良さげなんだけどな」
賢人の台詞には微妙に含みが感じられる。
「けどなってことは、実際にはそうじゃないってことか?」
「んん、まあ、特に何がってわけじゃないんだけどよ」
切れは悪く、その言葉に確信はないのだろうということは伝わってくる。だが、賢人は、頭は悪いが勘は鋭い。彼が何かを感じているのならば、実際に、問題があるのだと思っておいた方がいいかもしれない。
(この家に戻ってきた方がいいのか?)
蛍の近くにいる方が、何かあった時にすぐに気付ける。
だが。
聖人は、また、左手を見つめた。勝手に動き、蛍に触れてしまった、その手を。
近くにいたらいたで、また、あんなことがあるのではないだろうか。いや、きっとある――蛍を守るつもりでいる聖人自身が、彼女を害する者になりかねない。
(やっぱり、ダメだ)
自分は蛍の傍にはいられない。距離を保ったまま、見守ろう。
聖人は手を握り込み、胸の内でそうつぶやく。そんな兄を賢人は何か言いたげに眺めていたが、聖人はその視線には気付かなった。
「俺も帰るよ」
「蛍のことはいいのか?」
「……少し、様子を見よう」
歯切れ悪く答えた聖人に、賢人は肩をすくめる。
聖人だって、気にはなるし何かしなければいけないと思う。それは、やまやまだ。だからと言って、彼が蛍に何かしてしまう機会を作るわけにはいかなかった。
(きっと、大丈夫だ)
聖人は自分にそう言い聞かせるように、独り言つ。
――およそ一週間後、彼はその決断を悔やむことになることを、その時はまだ、知る由もなかった。