深まる疑問
週の真ん中の水曜日。
夜の八時を十五分ほど回った頃。
バイトを終えた聖人は、舘家の玄関をくぐった。
「ただいま」
そんな声をかけながらリビングに向かうと、そこにいたのは予想通り賢人一人だけだった。夕食を終えたこの時間、弟は、たいていテレビを眺めている。優人は食事が終わればさっさと自室に引き上げるし、父の勝之の夜は早い。蛍も毎晩ここで夕食を摂っていくが、彼女は八時で帰っていく。
つまり、この時間、賢人一人がここにいる。
リビングに入っていった聖人を振り返り、当然賢人はいぶかしげな声を上げる。
「あれ、兄貴。どうしたんだよ?」
引っ越して以来、平日のこの時間に聖人が実家を訪れることは、滅多にない――というか、今までなかった。まさに青天のへきれきというものだろう。
「ちょっとな……」
賢人のけげんそうな眼差しを受けつつ、言葉を濁しながら、聖人は弟の右斜めに腰を下ろす。
敢えて平日、敢えてこの時間を狙ったのは、賢人と二人きりで話をしたかったからだ。特に、蛍がいない状況で。
もちろん、話のネタは、蛍のこと。
例の彼女の『好きな人』発言を耳に入れてしまってから、すでに一週間以上が過ぎている。もっと早く来たかったのはやまやまだが、バイトやら実習やらで、ここまで延びてしまった。
賢人が兄に興味を示したのはほんの一瞬で、すでにその目はテレビのお笑い番組に注がれている。
しばらく、彼に倣って画面を眺めてみた。賢人がニヤニヤ笑っているところを見ると笑いは取れる内容のようだが、聖人には全く興味が湧かない。
それよりも。
(蛍のことだ)
知りたいのは、蛍の想い人のこと。
本当にそんな奴がいるのか。
いるとしたら、どんな奴なのか。
賢人が知っているなら話が早いし、知らないのなら彼から蛍に探りを入れさせたい。
(けど、何て切り出せばいいんだ?)
最初の一手が、うまく指せない。
目はテレビの画面に向けられていても、意識は賢人に向かっている。
と、それが伝わったのか、弟がうっとうしそうにため息をついた。
「で、何なんだよ、兄貴?」
賢人の切り出しが唐突で、聖人は向けられた水を無にしてしまう。
「何って、何がだよ?」
とっさにそう返してしまってから、彼はしまった、と思った。せっかく弟の方から始めてくれたのだから、それに乗ればよかったのに、と。
聖人は小さく咳払いをして、腿の上に肘を置いて前屈みになる。
「その、な――蛍の、ことだ」
「蛍?」
気持ち、賢人の顔が真面目になった。小さなころからずっと一緒に過ごしてきた彼女のことを大事に想っているのは、彼も同じだ。
「蛍が兄貴に何か言ったのか?」
「何かって、まあ、うん」
「煮え切らねぇなぁ」
賢人は背もたれにそっくり返って鼻先から冷やかな眼差しを兄に向けてくる。
(くそ、お前だって聞いたら驚くさ)
胸の中でそう呻きながら、聖人はもう一度咳払いをして、続ける。
「その、蛍には、好きな男がいるらしいんだ」
思い切って切り出した聖人のその台詞に、賢人は一度目をしばたたかせ、そしてその目を天井に向けた。
「あ――ああ、そう」
聖人は眉をひそめる。
反応も変だが賢人のその返事も気が抜けていて、全く驚いた様子がない。
「知っているのか?」
「ああ――まあ」
はっきりしない彼の声に、聖人は眉間のしわを深くした。
「誰なんだ? 俺も知っているやつか?」
畳みかけた兄に、賢人はきわめて妙な顔をしている。
いや、違う。
きわめて妙なものを眺める顔を、している。
「おい?」
声をかけると賢人は更にまじまじと聖人を見つめ、顔を伏せ、それから深いため息をついた。
そうして、また、顔を上げる。
「賢人――」
「オレは何も言わねぇよ。ああ、まあ、悪い奴じゃないってことだけは、教えとく。だから、取り敢えずは安心しといてくれ」
バリバリと頭を掻く賢人をしばし見つめていた聖人だったが、ハタとある可能性に気付いて目をすがめた。
「ちょっと待て。お前だってことは――」
聖人が言い終える前に、賢人がうんざりした声で遮る。
「やめてくれよ! オレには超可愛くて超ラブラブな彼女がいるの、知ってるだろ!? オレは彼女一筋なの!」
「だけどな、蛍は一方通行だと言ってたんだ」
「まあ、そう言われたらそうだろうな。蛍からしたらそうだろうさ」
「お前の話は、いつも要領を得ないんだよ」
憮然と返すと、賢人は肩をすくめた。
「兄貴の頭が鈍いからだろ。オレからしたら、何でわからねぇのかがわからねぇよ」
そう言った弟は、完全に呆れ顔だ。
はっきり言って、この次男は舘家の三兄弟の中で一番頭がワルイ。勉強面がというだけでなく、思考回路が単純で短絡的だ。だが、その分勘が鋭く、察しは良かった。
そんな賢人だから、蛍の想いを読み取ることができたのかもしれない。
(俺は、彼女に好きな男がいることにすら、気付いていなかったってのに)
微妙に憐れみのようなものを含んだ賢人の眼差しを受けながら、聖人はため息をつく。
「俺は、あいつのことが心配なんだ」
顔を伏せ、膝の間にこぼすように、そうつぶやいた。
と、その言葉は、賢人の心を掴んだようだ。
「それなんだけどさ。オレも言いたいことが――」
らしくなく真面目な声になった弟に、聖人が顔を上げた時だった。
ピン、ポーンと、どこかためらいがちに聞こえる玄関の呼び鈴が、鳴った。