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舘家の三兄弟  作者: トウリン
博愛無私のお姫様

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消せない言葉

 優人(ゆうと)が階段室に入った時、唯香(ゆいか)とは二階分近くの差を付けられていた。それが半階分まで縮まった時、彼女が一階の鉄製扉の向こうに消えていく。

 その後、唯香がどうするか。

 優人から逃げるつもりだろうが、彼女が院内を走り回るはずがないから、きっと出てすぐにある扉から中庭に抜けるはずだ。


 唯香を追って階段室を出た優人は、斜め向かいにある非常扉から出る前に、左手に目を遣った。廊下はガラス張りで、中庭がほとんど一望できる。もう彼が追いかけてこないと思ったのか、ガラスの向こう側には、走るのをやめ、肩を落としてとぼとぼと歩く背中があった。

 優人は静かに扉を押し開け、外に出る。声をかけたらまた逃げ出されそうで、唇を引き結んだまま足を速めて唯香を追いかけた。


 足音を聞きつけたのか、気配を察したのか、優人が唯香の前に回り込む寸前で、彼女がハッと振り返る。彼を見るなりビクンと肩をはねさせて、走り出そうとした。それを許さず、はっしと彼女の腕を捕まえる。

 それは、優人の手には余るほど細いのに、うっかりすると握り潰してしまうのではないかと思うほど柔らかかった。危うく手放しそうになったところを我に返り、彼は締め付けないようにと細心の注意を払って唯香の腕を握り直す。


「唯香さん、待って。ちゃんと話をしたいんだ。先に言っておきますが、だんまりを決め込んでも逃げても無駄ですよ。僕が納得するまで、放しませんから」

 断固とした口調で宣言した優人に、唯香が何かを言いかける。その機先を制するように、彼は畳みかけた。

「僕はあなたのことがよく解らない。そして、僕は解らないことをそのままにしておきたくはありません」


 彼女のことが何一つ解らないから、唯香にとって何が最善なのかも判らない。

 だから、優人は、彼女に話して欲しいのだ。


 けれど唯香は、まだ唇を引き結んでいる。


 優人は身を屈め、彼女の目を覗き込むようにして続ける。

「唯香さん、唯香さんが前に言ったんですよ、意思疎通のために言葉があるのだと」

 彼女の視線が、少し、揺らいだ。それを逃さず、優人は食い下がった。

「そう言ったあなたが、逃げるんですか?」

 唯香は、ようやく真っ直ぐに優人を見返してきた。


「優人さん……」

 ただ彼の名を口にしたきり、息を詰めている。彼女がそれを解くまでに、ずいぶん時間がかかったような気がした。

 唯香は目を伏せ、まるで空気を揺らすことを恐れているかのようにゆるゆると息を吐き出す。吐ききった後も彼女の視線は落とされたままで、優人は身じろぎ一つせず、待った。


 それから、短くはない時間が過ぎて。


 ふと、唯香が彼を見上げた。

「手、放してももう逃げませんから。どこかに座りませんか?」

 ジッと唯香を見つめたまま優人が手を離すと、彼女は彼が掴んでいたところを撫でながら視線を巡らせる。二つ離れたところにあるベンチが空いていて、唯香は先に立ってそこに向かった。


 優人の隣に並んで腰を下ろした唯香は、それからもしばらく口をつぐんでいたが、ややして、大きく息を吸い込んだ。そして、唐突に話し出す。


「わたしには、妹がいたんです。三つ離れた。……それが、ナナちゃんを見て、わたしが変な顔をしていた理由です」

 彼女はチラリと優人を見て、淡く笑む。

「優人さんは鋭いから、気付きましたよね」

「過去形だったことに?」

 そう、唯香は、妹が『いた』と言った。『いる』ではなく。

 問いの形をとった優人の確認に、彼女は頷く。

「そう。もう、いないんです。妹は五歳で白血病になってしまって」


 三歳差なら、唯香は八歳の時か。それは、かなりきつい状況だったに違いない。

「それが、ボランティアをする理由、ですか?」

 妹が頑張る姿を見ていたから、とか、病院のスタッフが甲斐甲斐しく世話をしてくれたことに感謝しているから、とか。

 だが、優人のその台詞に、返事はなかった。

 横を見ると、唯香は地面を凝視している。強張った顔で。


「……唯香さん?」

 呼びかけに、彼女はほんの一瞬優人に目を走らせた。が、すぐにまた、元に戻ってしまう。それきりまた黙り込むのかと思ったら、そうではなかった。

「妹は、とても頑張りました。抗がん剤とか、骨髄移植もして。発病してから、ほとんどずっと、病院にいた感じです」

 平坦な、声。だが、平坦だからこそ、深い想いが伝わってきた。

 その中の単語の一つに、優人は眉をひそめる。


「骨髄移植?」

「はい。わたしのが、合ったので」

 八歳かそこらで、骨髄提供。優人は知識として知っているだけだが、かなり提供側の負担も大きいはずだ。それでも、駄目だったということか。


 優人の両手に、知らず力がこもる。

 何か慰めの言葉を口にしたいと思っても、思い浮かばない。


 彼がグズグズしているうちに、唯香はまた話し始める。

「あの子は、一年間以上、闘いました。その間、両親は妹にかかりっきりで」

 そこで唯香が小さく笑った。少しも楽しそうなふうではなく。

「もちろん、そうですよね。命に係わる病気なんですから。わたしも、妹が元気になるまでは我慢しなくちゃって、思ってたんです。ちゃんと、解かってたんです。でも……」

 唯香の声が、微かに震えを帯びた。その頬は色が褪せていて、思わず優人は「もういい」と言いかける。だが、それよりも、彼女が再び口を開く方が早かった。


「わたしの九歳の誕生日に、両親ともなかなか病院から帰ってこなくて。結局真夜中になってから帰ってきた二人に、わたし、言ってしまったんです」

 唯香は、震える息を吸い込んだ。そして、溜めたそれを吐き出すようにして、言う。


「妹なんて、いなければいいのにって」


 そのとき彼女が浮かべていたのは、泣いているような笑い顔だった。


「わたし、そう、言ってしまったんです」


 苦い、苦い、声。

 それを放ってから十年が過ぎているはずだというのに、後悔に満ち満ちている。まるで、切り開かれた心臓から血が溢れるさまを見るようだった。


 だが、所詮、子どもの言葉ではないか。しかも誕生日をすっぽかされたなら、怒って当然だ。心にもないことを口にもするだろう。親だって、帰らなかったことを謝りこそすれ、責めることは決してしないに違いない。


 優人は真っ白になって小刻みに震えている唯香の両手を取りたい気持ちを抑えて、身体の向きを変えるだけにとどめた。身を屈め、地面を睨み据えている彼女の顔を覗き込む。


「あなただって子どもだった――」

「それから三日後に、妹は亡くなったの。容体が悪くなったから、あの日、両親は帰ってこられなかったんです」

 優人の取り成しを拒否するように発せられた言葉。

 彼女は、慰めも、赦しも、拒んでいるようだった。いや、実際、拒んでいるのだ。

 だが、それでも優人は言わずにはいられない。


「そんなのあなたの本心じゃないし、その言葉で妹さんが亡くなったわけではないでしょう。ただの偶然だ」

「そうですね。そうですけど、たとえ本心ではなかったとしても、わたしは言うべきではない言葉を――言ってはいけない言葉を、言ってしまったんです。そんなこと、本当はほんの少しも思っていなかったとしても、言葉にして発してしまったら、相手には伝わってしまうんです。本当のことじゃないからこそ、絶対に言ってはいけなかったんです」

 唯香の膝の上で固く握り締められている拳は真っ白で、優人はそれを取り、解きほぐしたくてたまらなくなる。彼が懸命にそれをこらえている中、唯香がポツリとこぼす。


「前に、ボランティアをしている理由を訊かれて答えた時、優人さん、自己満足だって言ったでしょう?」

 突然そんなことを持ち出され、優人はグッと返事に詰まった。


 確かに、言った。

 言ったのだが。


「あれは……」

 何とか言い繕おうとした優人を、唯香は小さくかぶりを振って止める。

「いいんです。あれは本当のことでしたから。自己満足。まさに、それでした」

 唯香は小さく笑う。それは自嘲を含んでいて、目にした瞬間、優人の胸がきつく締め付けられる。彼のそんな心中には気付いていないように、彼女はポツポツと続ける。


「ボランティアをやっていると、えらいねとか、すごいねとか言われるんですよね。だけど、全然頷けなかった。何がえらくて、何がすごいんだろうって。自分でも、やりたくてやってるだけだと思っていましたから」

 そう言って、唯香は肩をすくめた。

「でも、優人さんに言われて、納得できました。どうして、ボランティアをすればするほど、気が晴れるのかっていうことに」


 唯香が顔を上げ、優人を見る。真っ直ぐに。


「自己満足。本当に、その通りだったんです」


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